緑の中から、一転。
『モーリー、どういうことだ!』
暗い部屋。明かりはたった一つ。クレイメネスの左手の指先にともっている明かりのみ。その横でフィリディアは静かに佇んでいる。モーリーと呼ばれた男の影がゆらりと動いた。
『師は ……異端審問にかけられた。お前たちのために、口を閉ざした……マルグリットのためにも』
『マスター・マルゴは、どうなりました?』
『……分からない。バスティーユに送られたことまでは分かっているが……』
『バスティーユ……』
パリにある、牢獄。生きて出た囚人はいない。そのくらいのことはフィリディアでも知っている。フィリディアは小さく溜息をついた。クレイメネスは相変わらずモーリーに噛みついている。
『俺たちはどうなるんだ!』
『師はまだ決めていらっしゃらない。マルグリット殿と連絡がつかないし……つくようなら、私に知らせてくれ。私は師と面会を許されている』
『……分かりました。では、しばらくはこちらですね』
『頼むよ……私は、師のところに行ってくる』
重い扉が閉じられた。だがフィリディアにはなんの縛めにもならない。『地の存在』だから。外に出たいのなら、簡単に出られる。だが、アグリッパの弟子・モーリーは鍵をかけるようなことはしない。そういう男だ。フィリディアは分かっていた。
その時。
声がした。
空から、光の粒が降ってきた。
フィリディアが気づく。
眉をひそめ、姿のないモーリーに対してぼやいていたクレイメネスも顔を上げた。
そして、部屋の隅に立っていたさくらも顔を上げた。
降り注ぐ光の粒。
……まるで、蛍。
さくらがそう思っていると。
『……マスター・マルゴ』
フィリディアの呟言に、クレイメネスが眉を顰める。
『フィー?』
『……いらしてくださったのですね……』
光の粒は、やがて集まり始め、ほんのりと輝きながら少女の姿を形作る。
『クレイ、フィー……ごめんなさいね』
『マスター!』
少女は微笑みながら、しかし哀しみの笑みで、二人に告げる。
『ごめんなさい……あなたたちを救えない。
あなたたちの存在は、いずれ世界の脅威となる……大地の聖霊の力、光の聖霊の力。それは人にとって、この地に住まう者にとって、生きていく上でかけがえのないもの。
でも、あなたたちの存在にも必要なもの。私は決断できなかった。あなたたちを葬ることなど、できない。おそらく、アグリッパにとっても。
……だから、沈黙のしじまで、封印の中で眠り続けて。いつかあなたたちを救う者が現れるまで。
絶対的な魔力ではなく、心で救える者が来るまで』
『マスター!』
驚きのあまり、拳を強く握るクレイメネスに輝く少女は、手を上げた。
『光の存在、我より生まれし者よ。汝の名と体は、我によりて生まれしもの。
悠久の時の彼方に、汝の住まう場所を与えん。
今この時より、眠りにつき、封印を受けよ。
我が名はマルグリット・カロリン=アグラス。
クレイメネスリオン。封印を受けよ』
『マスター!』
絶叫と共に、クレイメネスは姿を消した。クレイメネスのいた場所には掌に収まる小さな璧が、金色に輝きながら転がっていた。少女はそれを拾い上げた。
輝く少女は、フィリディアに振り返る。フィリディアは微笑んで、
『マスター……私たちはどれほどの時を待たねばならないのですか?』
『……ごめんなさい。そこまでは分からないの。でも、きっといるわ。二人を救う者が』
フィリディアは再び微笑んで、輝く少女の前に跪いた。
『マスターの最期の時を、煩わせたくはありませんもの。どうぞ』
『フィー……気づいていたの?』
私が……もう死の路を歩んでいることを?
創造主の言葉にしない言葉に、フィリディアは小さく頷いた。少女は溜息をついて、クレイメネスと同じ呪文を唱え……足下には緑の璧が転がった。
「あなたは……星の力を、持っているのね」
突然。
本当に突然。
それまでぼんやりと、映画を見ているようだったさくらの意識に、響いた声。
数度瞬きして、その声が輝く少女が発しているものだと分かる。
「え?」
「そう、あなたなら委せてもいいわ。心の力を持っているあなたなら……フィーもあなたに壁を託したのね」
「……えっと」
「星の魔術師さん。二人を助けて。私には、その力がないの。だから……」
まだ寝てるのか、起きてるのかわかんないなぁ……。
さくらはぼんやりとしながら、ベッドから降りた。
起きてるのに、すごく眠い。
前にもあった、こんなカンジ。
さくらはパジャマを着替えながら、思い当たった。
そっか、あのときといっしょ。
……クロウさんの夢を見たときと、一緒なんだ。
「おはようさん、さくら」
「……おはよう、ケロちゃん」
まだぼんやりとした表情のまま、さくらは体より大きなババロアと格闘しているケルベロスに応える。
「ずいぶん、ねむ、そう、やな?」
「うん……」
食卓についたさくらの前に、小狼がてきぱきと朝食を並べ始めたが、ふとさくらの顔を覗き込んで、
「大丈夫か? ずいぶん、疲れた顔をしてるけど?」
「うん、ちょっと……夢を見たの」
「夢、か。今度のことに関係するのか?」
小狼の問いかけに力なく頷くさくらに、ルシオルを抱いたエリオルが声をかける。
「さくらさん。夢の内容、覚えていますか?」
「うん。今度は全部、覚えるの。覚えているうちに、聞いてほしいんだけど」
「いいですよ」
エリオルは近くにいた奈玖瑠にルシオルを預け、さくらの真正面に座る。ケルベロスもババロアとの格闘をあきらめて、顔を上げた。
「クレイって呼ばれた人がいたよ。あと、フィーって呼ばれてたのは、フィリディアさんのことだと思う。それからあたしくらいの年齢の女の子。マスター・マルゴって呼ばれてて、もう一人、お年寄りの男の人がマスター・アンリって呼ばれてた」
気づくとさくらの隣に、小狼が座り、テーブルの下でさくらの手を握っている。さくらは穏やかに微笑んで、エリオルとケルベロスに向かって話し始めた。
夢の内容を。
幸せそうに見えた、 4人。なのに、2人をみつめるマスター・アンリとマスター・マルゴの苦悩。
二人のマスターが捕らえられ、閉じ込められるクレイとフィー。
訪れたマスター・マルゴによって封印される様子。
「……それで、最後にマスター・マルゴは私に向かって言ったの。『星の魔術師さん。二人を助けて。私には、その力がないの。だから……』」
「だから?」
「……ごめんなさい、その先は覚えてないの」
さくらの深いため息に、エリオルは微笑んだ。
「十分ですよ、さくらさん。でも、ずいぶん疲れているようだから、もう一度お休みになったほうがいいでしょうね」
「でも、アグラス家には?」
「もちろん、さくらさんにも行ってもらいますよ。でもまだ時間はあります。少し横になったほうがいいでしょうね」
小さく頷くさくらを促して、小狼が席を立つ。
さくらが姿を消して、ケルベロスは声を潜めるように、エリオルを見上げて言った。
「どういう、意味や? マルグリット・アグラスはさくらに何を期待しとるんや?」
「おそらくは……」
エリオルは数瞬沈黙して、言葉を選ぶようにつぶやいた。
「二人を無にするのではなく、幸せに暮らさせたいんでしょうね……だが、彼女がどこまでその方法を研究し、記録として残しているのか……それは、わかりませんね」
「小狼くん」
掛け布団をかける小狼に、さくらは小さな声でつぶやいた。
「どうした?」
「……悲しいね、自分の居場所がないって思っちゃうって」
「?」
「クレイって人は、きっとそう思ってる。フィリディアさんもそう思ってるみたいだった……それってすごく悲しいよ」
「……そうだな」
「あたしに、何ができるかな……」
「それより、今は少し休めよ」
「うん……」
さくらが静かな寝息を立てるのを確認して、小狼は静かに部屋を出た。
リビングに戻ると、エリオルはノートパソコンに向かっていた。小狼の気配に気づいたようで、顔を上げる。
「眠ったよ」
「そう、ずいぶんお疲れのようだったから、午前中いっぱいは寝させてあげましょう」
「ああ」
さくらのために並べた朝食を片付ける小狼を見つめていたエリオルが不意に問いかけた。
「小狼くん」
「?」
「君は、さくらさんのことをどう思いますか?」
「どう、って?」
思いもしない問いかけに、小狼は手を止めてエリオルを見つめる。
隣の部屋でルシオルをあやす奈玖瑠の声が聞こえるほど、静かな空気が二人の間を支配する。沈黙を破ったのはエリオルだった。
「魔術師、としてですよ」
「ああ……」
「クロウ・リードの生み出したカードをそのまま、自分のカードと出来たことは、クロウ・リードの血縁以上の力があってこそです」
「俺も一応血縁だけど、さくらほどの魔力はない。さくらの魔力は、どうして生まれたんだろう? そういうことを聞きたいのか?」
「ええ……偶然、という答えはありえません。私という存在、藤隆さんという存在、そして桃矢さんという存在……」
小狼は苦笑しながら、応えた。
「それは、俺が応えるより、クロウ・リードの方が詳しいだろうな」
「……そうですね」
「そんなことを今言っても仕方ないだろう。それよりも問題は」
「アグラス家ですね」
エリオルがノートパソコンの画面を小狼に見せる。
「やはり代表者で行く以上、小狼くんにはこれくらいのデータは見ておいてくださいね」
「?」
「アグラス家の情報ですよ」
見せられたのは、いくつもの画面。
小狼は眉を顰めてながら、抗議する。
「こんなものを見せられても」
「わかってますよ。あんまり難しいことは要求しませんから、これだけわかってください」
静かなエリオルの言葉に小狼は小さく頷いた。
小狼が続ける。
「代表者は、ミシェル・ベルナール・アグラス。AGグループの会長も勤めてます。ですが、アジア、特に中国進出に力を入れているので、ここ数ヶ月はずっと北京ですね。だとすると」
「エルヴェ・セルジュ・アグラス、か……」
その名前は、既に電話で母に聞かされた名前だった。
『ミシェル・ベルナールは、きっと北京にいるからあなたとは会わないわね』
『……そうでしょうか』
『ええ。あなたには会うのは、次期当主と目されている、長男のエルヴェ・S・ベルナール・アグラスということになりますね』
『母上は、そのアグラス父子にお会いしたことがあるんですね』
『もちろん。彼らにとって、中国市場は魅力的なのよ』
母の夜蘭はいつものように穏やかに告げるけれど、その言葉の意味を小狼は理解している。
これからの経済急成長が期待されている、『眠れる龍』である中国。
その地にあって、連綿と経済的地位を築いている李財閥とのつながりは、ヨーロッパの企業にとっては喉から手が出るほど欲したいものなのだ。
だから、母に頼んでアグラス家とのアポイントを求めても、アグラス家は簡単に承諾した。
だが、それゆえにアグラス家に李財閥とのつながりを期待させたことも否めない。
それが李財閥の長たる母の意図とは違うところにあったのなら、なおのこと、小狼はアグラス家で慎重な言動を求められることになるからだ。
『大丈夫よ、AG自動車とは既に提携契約を結んでいるから、あなたが何か気に病むようなことはないから』
母の静かな言葉に、小狼は苦笑した。
『そうですか、わかりました』
「魔力で言うならば、少なくともアグラス父子にそれらしいものは見受けられなかった、と母が言っていた」
「そうですか、だったらなおのこと、文献を見せてほしいだけと主張した方がいいかもしれませんね」
エリオルの言葉に小狼も頷いた。
「ああ」
「何か分かればいいのですが……それともうひとつ気になっていることがあります」
「気になっていること?」
「ええ」
エリオルは立ち上がると、ちょうど部屋に入ってきた奈玖瑠から猫姿のスピネルを受け取り、胸に抱いた。
「光の存在、クレイメネスがたった一人で動いているのか、ということです」
小狼が厳しい表情を浮かべた。
「それは……つまり、協力者がいるということか」
「可能性は否めません。何より、フィリディアとクロウ・リードが紡いだ封印は決して中から解かれるようなものではなかったことを考えれば」
「魔力を持つ者が外から封印を解いた、と考えるのが普通でしょうね」
スピネルが静かに言う。
「そしてそれが出来るのは、かなりの魔力がある者でしょう……このパリにそれほどの魔力を持つ者は決して多くはないでしょうね」
「……それって」
「その者がアグラス家につながる者の可能性もないとは言えないでしょうね」
小狼は、小さく頷いた。
「……ああ、そうだな」