「ホントにこの辺なのかなぁ?」
「エリオルが書いた地図と住所によると、間違いないんだけどな」
パリ市内を二分するように、セーヌ河が流れる。さくらと小狼、それから雪兎と、ディバックの中のケルベロス。4人が歩いているのはそのセーヌ河のほとり、周りには閑静な住宅地が広がっている。さくらは以前この辺りがパリでの『高級住宅地』だと聞かされた記憶があったから、なおさら疑問に思っているのだ。
「けどな、さくら。クレイメネスっちゅうのが封印されたのは400年近く前の話やで? ナポレオンが生きとった時代や。そんなに前やったら、変わるやろ? それに友枝町やって」
ディバックの中でケルベロスが周囲に聞こえないように囁きながら、さくらに言う。
「クロウが屋敷を建てた頃は、まだ一面野原やったんやから」
「え?」
クロウ・リードの屋敷といえば、かつてエリオルが住んでいた屋敷のことだ。友枝町でも一等地に立っているあの屋敷が、野原の真ん中?
「ほえええ」
「ま、時代は変わるっちゅう証拠や」
「あった」
小狼が突然足を止めた。続いて雪兎も。だがさくらはケルベロスとの話に気を取られて、暫く進んだあと、
「あれぇ? 誰も」
「……さくら、こっちだ」
溜息をつきながら、小狼が倉庫らしき建物の表に書かれた住所表示を確認している。反省しながら帰ってくるさくらの肩を、雪兎が軽く叩いた。
「大丈夫?」
「え? はい。いつものことですから」
倉庫の前には、一応門がある。だが、既に朽ち始めた門は、本来の意味すら果たしていない。小狼が軽く触れると、半分開いていた門扉は、派手な音を立てて崩れた。思わず小狼は振り返る。びっくりした表情のさくらと、ほややんと微笑んでいる、雪兎。
「……壊れてたんだよな」
「そうだね。もともと錆びきっていたみたいだから」
雪兎の答えに、自分が正当化されたことを確認して、小狼は安堵の溜息をついた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい」
帰ってくるなり、バタバタとソファに座りこむ小狼とさくら、雪兎もフラフラとソファに座り込んだ。その様子を見ていたエリオルが声を上げた。
「どうか、しましたか?」
「どうかしたも……」
「……なんと言っていいのかなぁ?」
「なぁーんにも、なかった!」
ケルベロスの言葉が一番的確だった。
疲れ切っている3人に、知世がてきぱきとよく冷えた麦茶を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう、知世ちゃん」
一息入れている3人を横目に、まだ元気がありあまっているケルベロスにエリオルが尋ねる。
「なんにも、なかったとは、具体的にどういうことなのかな?」
「言葉の通りや。ほんまに、なんにもなかった。クレイメネスの封印した場所、いう以外になーんにも情報がなかったからな。特に期待してなかったんやけど、倉庫みたいな所やった。
やけど、な?
普通、そんなところでもなんかの気配があってもええもんやろ?
クロウ・リードが封印を施したんやったら、それに『地の存在』が関わってるんやったら、やったらめったらそこから動かせんはずや。
けど、なーんにも気配すらない。
ほんまに、なーんにもないんや。
なんかあるやろうと思うて、あっちこっちひっくり返してみたし、ユエなんか術をかけてみたりもしたけど……ほんまに、キレイさっぱりなーんにも、出てこん。
どういうこっちゃ?」
ぬいぐるみケルベロスが腕組みをしながら、ブツブツ言うのをエリオルは黙って聞いていた。
「……それにしても、疲れていますね。みんな」
「なんか、とっても嫌な感じらしいわ。わいはなんともないんやけど……力を吸収されてるみたいなんやて」
ケルベロスの言葉に、小さく頷いて。
少し疲れた顔色のさくらの前に、膝をついた。
「さくらさん」
「……はい?」
「疲れている時にすみませんが、結界を張りましょうか」
「え?」
「さくらカードを使ってください。さくらさんなら、なにを使いますか?」
突然のエリオルの問いかけに、さくらは驚いた表情を見せたが、すぐに深呼吸をして、
「……『幻』と、『迷』……」
「そうですね」
「『封印解除』!」
ネックレストップになっていた星の杖が、輝きながら大きく変化する。さくらは力強く詠唱した。
「我らにまといし者と、その力を、迷い路に導き、幻により、遠ざけよ!
『幻』! 『迷』!」
二枚のさくらカードがさくらの手元を離れ、輝き、そしてその輝きは一瞬にして拡散していき、部屋は元通りになった。
「エリオルくん……」
「もう大丈夫ですよ」
エリオルは、心の底からの微笑みをさくらに向けた。ぬいぐるみのスピネルがぽてぽてと歩きながら、
「小狼さん。追跡術がかかっていましたよ」
「え?」
思わず自分の周りを見回すが、
「本人には見えないようにしてあるのが、追跡術でしょう?」
スピネルの指摘に納得する。
「それもあったんですが……3人が異常に疲れていたでしょう? それは、行った倉庫に吸収術がかけられていたからですよ」
エリオルが立ち上がって、ケルベロスを見つめる。
「ケルベロス一人が何も感じなかったんだろう?」
「……そういや、疲れもせんかったな」
「ケルベロスは『太陽』だからね。『光の存在』とは共通する属性が多いから」
ケルベロスは驚いたように、エリオルを見つめて。それから愛くるしい双眸に力を入れて睨んだ。
「エリオル……つうことは、追跡術に吸収術を使うたんは、『光の存在』つうことか?」
「そういうことになるね」
考え込んでしまったケルベロスをよそに、エリオルは声を上げた。
「小狼くん。身体は?」
「なんとか……落ち着いた。疲労感はなくなった」
「そう。ほんのさっきだけど、アグラス家から電話があったよ。明日の午後ならいつでもお待ちしていますって。よろしければ、当主が午後の紅茶をご一緒しませんか、と」
「で?」
少し緊張している小狼の横顔を見ていたさくらだったが、知世に麦茶のお代わりを促されて、茶器を渡す。
「もちろんお受けしますと、お答えしておいたよ。3名で」
「3名?」
「小狼くんが行くのはもちろん。さくらちゃんも、それからボク」
「エリオルも?」
「ケルベロスはいつもの通り、さくらちゃんのディバックに隠れてね。それから、ユエは」
と雪兎を優しく見つめて、エリオルは続けた。
「奈久留とスピネルと一緒に。呼べば来てくれるくらいの距離を保って。アグラス家の統領は、今は魔力を持たない人間を選出しているからといって、アグラス家自体に張られた結界はバカに出来ないんだよ。いざというときの、ためにね」
「調べられる資料は、全部当たったんだけどね」
ノートパソコンを見つめていたエリオルが唐突に声を上げた。
大きなダイニングテーブルの中心に、ノートパソコンに向かうエリオル。歌帆はルシオルを寝かしつけに行っている。それにスピネルと奈久留につきあっているし、雪兎は仕事をするために、夕食後部屋にこもってしまった。
藤隆は桃矢に電話と、席を外している。
軽い度の入った眼鏡を外して、ノートパソコンの隣に置き、エリオルは少し離れた席に座っているさくらたちを見つめて。
「何せ、資料が少ないんだ」
「……どういう意味?」
「魔女裁判の話を、覚えている? それまで魔術師一統として名を馳せたアグラス家はその時代の魔女裁判で、多くの優秀な魔術師を喪っているのだけれど。そのもっとも優秀だったのが、マルグリット・カロリン=アグラス」
「覚えてる。クレイメネスと、フィリディアを作った人でしょう?」
「そうだよ。そのマルグリットだけでなく、このころにアグラス家は相当数の魔師・魔女を喪った。結果からいうなら、その魔力でヨーロッパ王宮で権力を得ていたアグラス家は、方向転換を迫られた……んだけどね」
「つまり、領土を持つことや経済力をつけることに専念した、ということですわね。そうなると……することは一つですね。保身……とでも言うのかしら?」
小首を傾げる知世の仕草に微笑みながら、エリオルが呟いた。
「相変わらず、鋭いですね」
「え?」
いまいち話についていけないさくらに、なんとか把握している小狼が説明を加える。
「魔術で権力を持っていたのが否定されたら、違う方法で権力を持とうとするんだ。つまりアグラス家の場合は、経済力。今で言う……銀行みたいなものかな。それを始めたらしい。でも、アグラス家から魔師・魔女がいた事実は、表面上は消されたんだよ。だから、公表されている資料は極端に少ない」
「マルグリットのことは、アグリッパの関係で、同じような研究者として紹介されているからね。だから公表せざるを得なかったんだろうね。だけど必要最小限のことだけなんだけど」
エリオルの言葉に、さくらは小さく頷く。
「ま、要するに明日、アグラス家でどれくらい、情報を引き出せるかにかかってるってことやな」
「……言ってしまえば、そういうことになるね」
そして、全ては翌日に持ち越された。
緑。
緑が、さわさわと音を立てて波を描いていく。
さくらはゆっくりと周りを見渡す。
少し離れた所に、木が見える。奥の方は暗くて見えない……多分、森。
さくらの目の前に、4人の男女がいた。正確には一人は少し離れている。
『クレイは、はしゃいでいるわね』
『外に出られたのが、久しぶりだからでしょうね』
『……それに比べて、フィーは落ち着いているな』
『そうですか? マスター・アンリにはそう見えます?』
初老の男性。
少女。
うらわかき、女性。
そして離れて、燦々と降り注ぐ陽光の中、馬に乗っている青年。
『フィー! 馬に乗せてあげるよ!』
『クレイ、あまりはしゃがないで、それに馬はマスター・アンリの……きゃ!』
たしなめる言葉も聞かず、青年は女性を鞍上に抱え上げた。
『マスター・アンリ、マスター・マルゴ。フィーをお借りします』
『いってらっしゃい』
『遠くは、ダメだ』
『はい。いってきます!』
駆けていく、轡音。
見送っていた少女は、やがて小さく溜息を吐いた。
『アンリ。やはり、無理かしら』
『……温存するのは無理だ。このままいくと……私の計算では、10年もしない内に破綻するだろう。二人に、このパリが耐えられない』
『そうね。そうなのだけど……封印する以外に、方法はないのかしら?』
今のさくらより、少し年上だろうか。
少女は、やがてその双眸からはらはらと涙がこぼれる。初老の男は、少女の背中を撫でる。
『マルゴ、泣かないでくれ。二人を生みだしたのは、間違いではないのだ。私は、そう思っている。二人が、生まれたことは私にとって最高の研究成果でもあり、何より私の可愛い子供たちだ。なんとしてでも……封印することだけは避けたいが……時間があるかどうか……』
少女の涙が、止まった。
『え?』
『国王陛下が、何かを考えているようだ……宗教裁判だ。私のことをよく思っていない皇太子妃一党は、間違いなく私を捕らえるだろうから……』
『そんな!』
『なんとしてでも研究は成功させる。二人を封印することだけは避けなくては』
『アンリ』
少女は一途な視線を、男に向ける。ただただ決意の視線を。
『一つだけ方法が……あるわ』
『なんだって?』
『二人を融合させるの。核となるのは、私の魔力。二人に込めてある魔力とは別に、全魔力を使うわ……でも、おそらく』
『おそらく?』
いつでも真っ直ぐに言葉を紡ぐその、薄い唇が珍しく言いよどんでいるのを見て、男は何かを読みとった。
『……マルゴ』
『私以上の魔術師でなくては、できないでしょうね。いいえ、私には出来ないわ。だから、アンリ。一刻も早く、方法を見つけてね』
マルグリットの言葉の裏。全魔力を使う、ということ。それは、おそらくは『死』を意味する。アンリはそれを理解したような気がした。
そして、それをぼんやりと眺めていたさくらも、理解したような気がしていた。