空の彼方で雷鳴 01
遠くで、大地を揺るがす音が聞こえる。
低く垂れ込めた雷雲が、太陽を覆い隠してしまう。
やがて、雷光が走るだろう。
みのるは小さく溜息をついて、リビングの大きく取られたガラスに両手をあてて、灰色の空を眺めた。
「母さん、おばあちゃんがお茶にしましょうってさ」
エプシロンを抱えた信彦がパタパタと、スリッパの音を立てながらやってくる。
「何、見てるの?」
「ん? ほら、もうすぐ雷が鳴るわね」
「前に来た時、アトランダムが教えてくれたんだよ。向こうの山に」
と、山々が連なる辺りを指差して、信彦が目を輝かせて言う。
「雷が落ちるんだよ」
「そうなの」
「……母さんは、雷、嫌いなの?」
「え?」
意外な言葉に、みのるは目をパチクリさせてから。
少しだけ考えて、答えを返す。
「そうねぇ。苦手だった時もあったかな。信彦くらいの年齢だった時の話だけどね」
「ふぅん」
「でも、今は平気よ。山に雷が落ちるのね。見てみたいなぁ。母さんも」
「僕も見てみたいですね」
いつものように、不意に正信が姿を見せ、声を上げる。
みのるも、信彦も慣れたものだが、信彦の腕の中にいるエプシロンだけが、目をパチパチさせている。
「お〜い、信彦ぉ。ケーキなくなるぞ」
シグナルの声に、信彦は目を輝かせる。
「エララさんとユーロパがシフォン・ケーキを焼いたんだってさ。父さんも母さんも早く行こうよ!」
「はいはい」
信彦が堪えきれずに駆けていく。
その後ろ姿を見遣って、みのると正信はお互いの顔を見つめ合って小さく笑う。
リビングへの階段を降りながら、正信が思いだしたように声を上げた。
「そういえばさっき、雷が何って?」
「え?」
「苦手だった時があったって?」
「……ああ、ずっと昔の話なの」
今のような、幸せな時の話ではなくて。
正信も、信彦も、いなくて。
賑やかなロボット達もいない。
一人だった時の、話。
昔の、話。
『父さんも、母さんも、死んじゃったの?』
『……そうだよ』
『……どうして』
『事故、だったんだ。たくさんの人が亡くなったんだよ……助かったのは、君だけなんだ』
『事故』から、1週間経ってるんだよ。
総てを告げてくれたのは、父の友人だった学者のようだ。
みのるには、それしか分からない。
なぜなら、声でしか確認出来ないから。
『事故』は、みのるから視力も奪っていった。
「容態は」
「……角膜が機能しなくなっていますから。移植の用意は出来ていますが、未成年者の手術には、親権者の同意がなくては出来ません」
「……私がしましょう」
「よろしいのですか?」
「彼女は、現在親権者不在の状況ですから」
「……そうですね」
「では問題は、角膜だけですか?」
「ええ、小さな裂傷はいくつかありますが、大したものではないでしょう」
「そうですか」
ドクター・カシオペアは深く溜息をついて、差し出された手術同意書にサインをする。
同意書を受け取った医師は、書類に問題がないかざっと確認して、
「あの娘の身内は、いらっしゃらないのでしょうか? Dr.カシオペア」
「今、捜しているのだけれど……Dr.児玉も、ミセス児玉も近しい方は早くに亡くされているようでね。Drのお母様が去年、亡くなられているのが痛いわね」
「そうですか。だとすると、あの少女はいずれは養護施設に……」
重い空気が、二人の周りに漂った。
事故は、突然起こるものだ。
平常の生活を、突発的に、根本から突き崩し、跡形もなく破壊する。
事故の原因は分からない。
Dr.クエーサー、Dr.カシオペアの実弟が引き起こした事故、と言うことだけは分かっている。
Dr.クエーサーのラボが爆発した。
爆発のエネルギーは大きく、周辺の施設をも巻き込んだ。
死者30名。
重傷1名。
死者の中には、Dr.カシオペアの夫、息子、音井信之介教授の妻、そしてDr.児玉などの名前が見られ、頭脳集団アトランダムの卓越した才能が喪われた。
重傷の1名、つまりみのるだけが唯一事故から生還出来たのは、事故の瞬間、偶然にも母であるミセス児玉が、みのるを抱きしめていたことにあった。
爆発のエネルギーはミセス児玉によって堰き止められ、みのるは唯一守られなかった目に、眩しいばかりの光を見たことで、角膜損傷だけで済んだのだ。
それでも。
意識を喪ったみのるが、ベッドから起きあがれるまでには1週間を要した。
そしてその間に、事故の死者に対する葬儀は済んでいた。
みのるの父も。
母も。
今はもう、この世にいない。
彼女は、一人になったのだ。
カシオペア博士の夫も。
息子も。
いない。
事故を起こしたのは、たった一人の弟だった。
彼女もまた、一人になった。
「……で、何を仰りたいんですか?」
彼は呆れたように、加えてうんざりしたような口調で呟いた。
「たった一人の生存者。近しい身内がいない。だから姉さんが養女にすると」
「ええ」
「で、それをなぜ私に相談するのですか?」
あてつけ、ですか?
細い目を更に細くして、Dr.クエーサーはDrカシオペアを見た。博士は一瞬激昂しかけ、それを一瞬で抑えて、小さく溜息をつく。
「……どうしてそう思うの?」
「今回の事故を起こしたのは私。姉さんも、その少女も事故のせいで家族を喪った。事故のせいとはすなわち、事故を起こした私のせい……」
「少なくとも、私はあなたのせいとは思っていないのだけれどもね。エリオット」
「そうでしたか。それなら結構ですよ。ではなぜ私に相談するんですか?」
「……一応あなたにとって姪になるからよ」
「姪」
「そうよ」
クエーサーの口元だけが、微かに笑う。
「姪、ですか。確かにそうですね。私は結構ですよ。ですが、彼女が受け入れるかどうかは別ではないでしょうかねぇ。だって、私は彼女にとっては憎しみの対象にもなってもいい人間ですから」