空の彼方で雷鳴 12
紺銀が、駆ける。
人には入ることが許されぬ、電脳の世界。
座標を示す、縦横に走るグリッドを突き抜けて、駆けてゆく紺銀の輝き。
どうにもならない、焦燥。
解消しようのないその蟠りを抱えて、コードは疾走する。
眠る、みのる。
『納得いかないんだ! それで、なんで研究に戻れるのかが!』
正信の、悲鳴にも似た問いかけ。
抑えきれない感情の奔流。だが、コードにはそれを見守ることしか出来ない。
声をかけることは出来る。そうしてみのるを宥めることも出来る。今までだってそうやってきた。コードの言葉に、みのるは時々微笑んでいた。
だけれども。
触れられない。
抱きしめることはできない。
ふるえている小さな背中を、抱いてやることはできない。
同じ電脳の世界に住まう、妹にはこんなに簡単にしてやれることを、もう一人の小さな妹にはできない。
分かっていた、はずだった。
人は、ヒトの世界。
ロボット・プログラムは、仮想の空間。
全く違う世界に住まう、異種。
それでもコードの生みの母は微笑みながら、言う。
『あなたたちにヒトのようになって欲しいなんて、思わないわ。コードはコードだし、エモーションはエモーションだもの。それ以外の何者でもないわ。私がマーガレット・クェーサー・カシオペアであるように』
ありのままでいること。
相手を『理解』すること。
その二つは全く違う、ということを理解すること。
それこそ、心理学者が立ち上げたロボット・プログラムが取り込んでいる課題、なのだが。
コードには課題に取り組んでいるなんて、姿勢は一切見えない。
今は、電脳の世界を疾走することで、解消しようのない焦燥を忘れようとしていた。
「お兄さま!」
鈴振るような、しかしはっきりとその声はコードの耳に届く。疾駆するコードの前方に、それは突如、姿を見せた。
「な!」
コードは慌てて、しかし急速にスピードを落とす。そして、突然姿を見せた妹の目前で何とか停止する。
「何をする、エレクトラ! 危ないではないか!」
「もちろん、重々承知して、おりますとも」
一言一句区切るように、噛みしめるように、エモーションはコードをにらみつけながら、言う。
「何が、あったんですか」
「……何の話だ?」
「まぁぁぁ、おとぼけになって。正信ちゃんと、音井博士と、お兄さまがすこぉしおかしな雰囲気だった上に、お兄さまは私を追い出そうとなさいましたわ。そういう時は、必ず何かなさってますでしょ!」
起こっている、ではない。何かしている、と断言した。コードは内心苦笑しながら、
「何もない」
「……本当に?」
何か訴えるように、妹は兄の顔をのぞき込んだ。ヒトにはあらざる蛍光翠の輝きの双眸に、甘えをまぶしてエモーションは何かを期待して、兄の応えを待つ。そして、兄は妹の期待する通りの反応を見せた。
「……分かった。言う」
「ええ」
「……みのるが、クェーサーのラボに行ったことは?」
「ええ、聞いていますわ。雨宿りで迷子になったとまで」
「クェーサーに会って、PTSDの発作だ。そこへ迷子のみのるを探していた正信が、駆け込んだ」
「……」
エモーションもその先起こりうる状況を察して、思わず沈黙する。
「正信が、クェーサーに向かって爆発した。それしかわからんが、とにかく半端な怒り方ではなかったらしいな。クェーサーには軽く受け流されたらしいがな。正信は収まらないだろう」
「そう……でしたの」
「……そう」
「だめ、かな?」
「いいえ。それがあなたの選んだ路なら、私は応援する……でも、いいの?」
音井ラボで、みのるは意識を取り戻し。すぐに病院で診察を受けたが、特に身体的異常は認められず。
すぐにカシオペア邸に帰ってきた。
病院から帰ってきた母子を、エモーションが笑顔で迎え入れ、
プロジェクターからコードが顔を出し、みのるの笑顔にホッとした様子を見せていた。
そして、みのるは博士に訴えたのだった。
『学校に、行こうと思います』
『学校?』
『ええ。それで、ロボット学者になりたいんです。父が何をしたかったのか、私は見届けたいんです』
みのるの言葉に、博士は穏和な表情を一層柔和にして、微笑んで言った。
「でも……どうかしら、PTSDがもう少し落ち着くまで、シンガポールから少し離れた場所で、学校に行ったら?」
「……ドクター・クェーサーから離れた所、ですか?」
「そうね……クアラルンプールにある、寄宿制学校なんかどうかしら」
それから。
みのるの、学校に向かう話はあっという間に決まり。
「……気を付けて」
「ありがとう」
正信とハーモニーに見送られて、みのるは旅立った。
雨が降る。
亜熱帯特有の、豪快なスコール。
派手な雨音を聴きながら、正信が呟いた。
「ハーモニー」
「?」
少しばかり濡れてしまった、人工の羽をタオルで拭き取りながら、ハーモニーは正信を見遣る。
「正信?」
「……ボクさ。多分、ロボット学者になるよ」
大きな瞳に、力を込めて。
少年はスコールの彼方を見つめる。
「ロボット学者に、なるよ」
【A-K】KARMAが起動するのは、みのるがクアラルンプールに発った、翌日である。
end...