A hesitation 1






小さな、手だった。
小刻みに震えながら、僅かに暖かい小さな、手。
大輔が抱きしめて、荒れ狂う海から引き揚げた、命だった。
だが、ヘリの中で少年は泣き叫ぶ。
「パパ! パパぁ〜!」
吉岡が保温のためにかけた毛布を投げ出して、少年は暗闇の中で時折白波を立てている海面を覗きながら、叫ぶ。
父を、呼ぶ。
さっきまで自分と共にあった、父を。
大輔は、思わずその場に座り込んだ。
体中の力が、抜けてしまったようだった。
体中の細胞が急激にその重さを増して、大輔の意志に反して動きを重くする。
「大輔さん、大丈夫ですか?」
吉岡がかけてくれた保温用毛布の重さも、大輔にとっては苦痛に感じたけれども。
あえて言わず、無理に笑った。
「大丈夫だ」
そのとき、ヘリの無線が耳に届いた。
撤収命令、だった。





沖縄発、宮崎行きの飛行機がエンジントラブルで鹿児島沖に墜落。
乗客乗員452名が空中で分裂した機体とともに海に落ちた。
夕方の墜落から、夜半まで救助活動は行われたが、折からの荒天に海は荒れた。
452名の中で、212名が死亡。28名が行方不明。
行方不明者の中に、田野倉正臣の名前があった。
田野倉正臣。
最後に救出された田野倉武志の父であり、救出の瞬間まで傍にいて、波にのまれた、要救助者の名前だった。
そして、大輔は翌朝の新聞で、田野倉父子の『事情』を知った。





「吉岡…」
「珍しい、新聞ですか?」
「なあ、あの父子、最後の旅行だったんだってさ」
「え?」
マスコミは最後に救出された田野倉武志が、父・正臣となぜ飛行機に乗り合わせたのか、詳しく調べていた。
田野倉家の関係者によると、父・正臣と、母・恵津子は既に離婚しており、武志は正臣に引き取られた。
だが、事情のために武志が再婚した恵津子に再度引き取られることになり、正臣は最後の思い出作りにと沖縄旅行を計画したのだという。
3泊4日の旅行。
それが、父子の最後の思い出になった。
「そうか…」
小さく溜息を吐いて、大輔は右手を見つめる。
自分の右手をただ無言のままに見つめて。
大輔の表情は暗く、哀しげで。
吉岡は思わず言う。
「大輔さんの所為じゃ、ないですよ」
「…………ああ」
「あの場合、ああするしかないってことは」
「分かってる」
「大輔さんは間違ってないですよ」
「…………そうかもしれない」





泣き叫ぶ少年は、同じように毛布にくるまれた大輔に叫んだ。
どうして、自分を助けたのか。
パパを返せ。





吉岡はヘリの上から、大輔の救難作業を見ていた。
大輔のバディである吉岡は、大輔といつも行動を共にする。あの日も、同じようにヘリからダイブするつもりだった。
だが大輔が降下した直後から、気流は乱れ、ヘリはホバリングすらままならなくなった。機長が本部に報告の無線を入れる中、たった一人で降下した大輔を見ていた吉岡が、大輔の視線の先に機体にしがみつく人影を見つけ、声を上げる。
「機長! 要救助者、2名発見! 1名は子どもです」
機長が慌てて本部に連絡を入れる。吉岡が叫んだ。
「機長、自分も降下します!」
「バカを言うな、安定しない機体から落ちればお前も無事ではないだろうが!」
「しかし!」
荒れ狂う波が引き起こす轟音に負けないように叫び合うその間も、大輔は機体の残骸に泳ぎ着いて、機体にしがみついている二人に近づいた。





あの時、田野倉父子と大輔との間にどんな会話が交わされたのか、吉岡は知らない。
ただ、機体の残骸から海に投げ出されそうになっていたのは、息子の武志ではなく、父の正臣だった。
大輔は残骸の上で自分の身体を固定し、正臣を右手一本で引き揚げようとしていた。
だが。
武志の体勢が崩れたのだ。
今にも荒海に落ちそうなほどに。
武志の小さな両腕が、武志の全体重と、覆い被さるように降りかかる波の威力に耐えていた。
気づけば、正臣は近くにあった僅かな突起にしがみつき、大輔は正臣と結ばれていたはずの右手で武志を抱き寄せた。
救助出来た。
吉岡はそう思って、声を上げようとしたのに。





黒い、巨大な波が残骸にのしかかり。
波が去った残骸の上で、オレンジのライフジャケットを身につけた大輔と、覆い被さるように抱きしめていた武志はいたけれども。
突起にしがみついていた正臣の姿は。
跡形もなく。
ヘリに引き揚げた武志は泣き叫びながら、父を呼んでいた。
それが…吉岡の見た、真実だった。
あの日、泣き叫ぶ武志は吉岡に向かって、否、その向こうに呆然と座り込んだ大輔に向かって叫んだ。





パパを返せ!





あまりにも真っ直ぐで、あまりにも残酷な言葉だった。
あの日、ヘリの爆音の中で武志を救急車に乗せた吉岡が見たのは、じっと右手を見つめる大輔だった。





2ヶ月後。
気づけば大輔は、いつもの大輔に戻っているようで。
それでも、時折遠くを見るような視線を海に向けているときがある。
田野倉正臣はその後の捜索でも発見されず。
2週間続いた捜索でも8名の行方不明者が発見できず、田野倉正臣の名前もその中にあった。
200人以上が死亡した事故であっても、世の中は動いていく。
気づけば世界の某国で地震による壊滅的被害が起こり、世間の話題はそちらに流れた。
時折保安部に、地元民から漂着した遺品らしいものが届けられるくらいで、保安部にも事故のことは過去のものとなりつつあった。
大輔と吉岡も通常勤務に戻っていた。
ある夜。
同じ独身寮で生活している二人は、同じ航空基地機動救難隊に所属している上に、バディを組む。だから二人の生活時間はほとんど一緒で、遅い勤務を終えて寮に帰り、食事を済ませて吉岡の部屋でビールを飲み始めた。
翌日は二人揃って休みの上に、大輔は翌日、翌々日と2連休だったために、ピッチが速く吉岡が心配するほど酔ってしまった。
「大丈夫ですか、大輔さん?」
「お? 大丈夫に決まってるだろが」
バシバシと吉岡を力任せに叩く様子が、どう見ても酔っている。
「明日、早めの飛行機で横浜行くんじゃなかったんですか?」
「ん〜」
「環菜さん、空港まで迎えに来てくれるんでしょ? 乗り遅れたら怒られますよ」
「ん〜」
大輔の恋人である伊沢環菜とは、吉岡も知り合いだ。第3管区で巡視船ながれに乗っていた頃に、よく通ったダイニングバー『オーシャン』の2階に住んでいた上に、もともと大輔と知り合いだった。二人がどうして付き合うようになったのか吉岡は知らないけれど、伊沢環菜は大輔の支えであり、そして吉岡をも暖かく見守ってくれている。
だが…怒らせると、怖いところもあるのだ。
「大輔さんってば」
明るい口調で言えば、物憂げな表情の大輔が小さな声で言った。
「………横浜、辞めよっかな」
「は?」
「………環菜、最近怒ってばっかりだからな」
「ちょっと、大輔さん! それはそうでしょ。結婚すること決まったのに、大輔さん、な〜んにもしてないじゃないですか! ふつ〜は、いろいろ準備することあるんじゃないすか?」
「…………はぁ」
小さな溜息が、大輔の気持ちを表しているようだった。





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