A hesitation 2
飛行機事故の少し前だった。
環菜のいる横浜。
大輔のいる鹿児島。
超遠距離恋愛の二人は、時間が取れれば会えるように飛んでくる。ほとんどの場合は環菜がメールをくれる。
鹿児島、来ちゃったよ。
そして仕事が終われば、大輔は迎えに行くのだ。
そんな中で、交わされた会話を吉岡は環菜に聞かされた。
『結婚しようか、て言われたの』
それを告げる環菜の、あれほどまでに幸せそうな顔を吉岡は見たことがなかった。
幸せで。
誇らしげで。
愛されていると、自信に満ちて。
未来に不安など、何一つない。
男女の違いこそあれ、大輔も同じ気持ちだと思っていたけれど最近の、特に飛行機事故以降の大輔は、環菜とのメールのやりとりも遅れがちになっているようで、心配した環菜は吉岡にもメールを寄越す。
『ねえ、大輔くんどうしてる? 仕事?』
吉岡はいつだって当たり障りのないように返事を書いて、大輔に忠告するのだ。
「プロポーズしたんでしょ? なんか、大輔さん、最近環菜さんに冷たくないですか?」
「うるさい」
「だって、環菜さん可哀想じゃないですか」
珍しく真顔で抗議する吉岡の顔をちらりと見て、大輔は吐き捨てるように言った。
「…俺、こんなんなのに、結婚なんてして…あいつを守れるのかな」
「は?」
意外な言葉だった。
「…………寝る」
ふらりと立ち上がった大輔の背中に、吉岡は疑問を投げかけた。
「大輔さん、なんで?」
「…………さあ、な」
答えはあやふやなまま、大輔からは帰って来なかった。
鹿児島湾に面した窓を開け放して、吉岡は月夜の海を見つめていた。
湾内で穏やかな水面は、満月の輝きを不規則に反射させて、白く輝く海面を作り上げていた。
大輔が呟いた言葉が、吉岡の胸に痼りのように残っていた。
こんなんなのに。
どういう意味だろう。
ずっと、そうあの飛行機事故から大輔はおかしかった。
考え込む時間が増えた。
北尾隊長がそんな大輔を見て、ぽつりと言ったことを吉岡は思い出す。
『誰でも、自分が無力で何もできない人間なのだと思いこんでしまう時がある』
決して呉での潜水実習で優秀な成績を修めたとはいえない吉岡が、潜水士1年目で羽田特殊救難隊に次いでエリート集団と呼ばれる機動救難隊、通称キッキューに入ることが出来たことを奇跡だと思っていて、その上大輔を始め、他の隊員が如何に優れているか、如何に自分が見劣りするか、そんな悩みを北尾にした時の応えだ。
『潜水士は、救助の方法を知っている。だが、機動救難士に求められるのは更なる方法選択のスピードアップだ。それともう一つ』
『もう一つ? なんですか?』
『失敗した時に、誰でも、自分が無力で何もできない人間なのだと思いこんでしまう時がある。そのときに、如何に立ち直るか。如何に次のことを考えられるか。それが…潜水士とキッキューの違いだ』
あの時。
自分が望んでいなくても、大輔は命の選択をしたのだ。
田野倉正臣と、田野倉武志の命を。
大輔の右手が選んだのは田野倉武志だった。
大輔は、願うだろう。
両方の命を救うことを。
だが上空から全てを見ていた吉岡は知っている。大輔の望みが不可能な望みであったことを。
だから、思い悩む必要はないと言い切れる。
それでも、大輔は悩むのだ。
迷うのだ。
助けた命もあるけれども、助けられなかった命があるのだということを。
「………優しすぎますよ、大輔さん…」
その優しさ故の迷いが、大輔自身を追い込むことになることをこのときの吉岡も、もちろん大輔も知らない。
沈んだくろーばー号の中で、吉岡は目を閉じた。
爆発の衝撃で崩れた天井が吉岡の上にのしかかる。
足を押しつぶす勢いで落ちてきた配管は、水中浮力でいつの間にか外れていたけれども、天井だけはびくともしなかった。
動くことが、空気を余計に消費する。
思い悩むことが、脳の酸素消費を増やす。
悩まない。
今は、信じることだけ。
必ず、助けは来る。
必ず、大輔は来る。
そう決めて、吉岡は目を閉じた。
「お前はしばらく通常勤務にはつけないな」
苦笑しながら北尾隊長に告げられて、吉岡はふて腐れてみたけれども、その場にいた隊の全員が口を揃えて言った。
「まったく、生きてること自体が奇跡なんだぞ」
「ホントに仙崎も無茶をするが、お前も無茶だ」
「…………はい」
「というわけで」
普段ほとんど座らない自分の事務机に、隊長を初めとする数人がドスンと乗せたものは。
「あの〜、これなんすか?」
「これはな、書類、というものだ」
胸を張って本丸に応えられて。吉岡は思わず呆然と全員の顔を見遣った。
「まさか、これ」
「お前が片づけてくれ」
「俺たちは機材整理があるしな」
「ああ、仙崎も同じように書類整理してるからな」
「さすが隊長ですね、"くろーばー号の奇跡の英雄"も同じようにこき使えるなんて」
「ははは、なかなかのものだろ?」
とってつけたような笑い声と共に去っていく仲間たちの背中を見遣って、吉岡は自分の足を見る。
くろーばー号に閉じこめられた時。
爆発の衝撃で飛んできた配管に吉岡は足を挟まれた。どう頑張っても動かなかった配管は沈没の水中浮力で自然に外れたけれど、大輔の誘導で救助された吉岡の足は、複雑骨折と診断された。膝下までのギブスで勤務に出てきてみれば、先輩たちの優しい言葉。
「……………まったく」
吉岡よりも1週間早く退院した大輔は肋骨3本骨折。そのうちの一本はもう少しで肺に刺さるところだったと医者に聞いて、環菜が苦笑しながら怒ったのも仕方ない。
吉岡は書類を一枚ぺらりと取って。
それをひらひらとさせて、肩を竦めた。
お前、潜水士になれよ。
大輔の言葉が、吉岡の背中を押した。
漠然と人のために何かをしたいと思って、海上保安官になった。だけれども、通常時は厨房に、緊急時は見張りかビデオを回す仕事に生き甲斐までは感じることが出来なかった。
そんな吉岡の心に、大輔の言葉はまるで最初から用意されていたように、ストンと収まったのだ。
バディの池澤が逝き、失意の底だった大輔が呉に現れた時、潜水研修中の吉岡は自分のことで精一杯で、大輔に叱咤激励してもらうことを望んでいたけれど、大輔にその余裕はなくて。
ああ、思い出した。
くろーばー沈没の前日、大輔はウェディングドレスを見せに来た環菜を泣かせてしまった。決して理由を言わなかったけれど、結婚を延期したいとだけ告げて、環菜は哀しみを飲み込むように非常階段に走り去った。
吉岡は何度も大輔に言った。
これでいいのか、と。
いいはずなんかないと、苛立ちながら大輔は答えを返すけれど、それ以上は何を聞いても語らなかった。
だけど。
あの時の、まるで泣き出しそうな横顔は。
呉の大学校で、一人佇んでいた時の横顔と同じで。
そうか。
ずっと、悩んでいたんだ。
「大輔さんって、バカだね〜」
苦笑しながら吉岡は身体を起こし、手にしていた書類を机の上に置いた。
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