New Life
「元気な、男の子ですよ」
その声と同時に、小さくて暖かいものが、恵の枕元に置かれた。
覗き込めば、まだ赤々とした皮膚はまるで猿のようで。
小さな小さな手が、何かを求めて宙を彷徨い。
恵は思わず人差し指を差し出せば、小さな手は意外なほどの強い力で握り。
恵は頬を伝う涙もそのままに、呟いた。
「こんにちは、だいすけ………………」
蛇口をひねれば、少し冷たい水が大輔の頭に降り注いだ。
「うわ」
「だ、誰だよ! 温度いじったの!」
すぐ隣の個室からも、吉岡が抗議の声を上げている。
大輔は少しぼやいたけれども、シャワーの水温は上げない。ハードな訓練で全身が疲れていた。疲労している身体を冷やすためにも、少しばかり寒いくらいの温度がいい。少しあびていると、身体が幾分冷たくなって、そこではじめて大輔は温度を上げた。
「大輔さん、今日、環菜さん来るんですよね?」
「あ? ああ。荷物はほとんど入ってるから、環菜も楽だって」
くろーばー号沈没事故から既に5ヶ月。
先月の初めに、仙崎大輔と伊沢環菜は呉で結婚式を挙げた。
呉で挙式したのは、環菜の故郷でもあり、二人が出会った場所だったから。
出会った頃、大輔は潜水研修で呉の海上保安大学校に来ていて。
環菜は母の歌子の入院のために、帰郷していて。
3年。
3年前のことなのに、色々なことがあったあの夏は、大輔と環菜の心の中に、あまりにも鮮烈に残されている。
大輔は、海で大切なものを喪う怖さを知り、大切なものを守ろうとする意志を学んだ。
環菜は、海を守る者の存在を知り、大輔と出会った。
結婚式には、平成16年度前期組の写真が飾られて。
その中で礼服の大輔が大事そうに掲げている遺影に映る制服の工藤始は、少し緊張した表情だった。
入籍を済ませて環菜が横浜を引き払ってくるのに思った以上に時間がかかり、二人は1ヶ月近く別居婚という形を取らざるを得なかった。
飛行機に乗るからね!
そんなメールをシャワー室に入る前に確認したことを思い出して、大輔はニヤニヤと笑ってしまう。
待ちに待った、新婚生活が始まるのだ。
「うわ」
顔を上げれば、個室の仕切りの向こうから吉岡が顔を出して、にやりと笑った。
「うわ〜、大輔さん、イヤらしい顔〜」
「な、ばか!」
温度調節を最低にして、大輔は隣の個室にシャワーのノズルを押し込んだ。たちまち悲鳴が上がる。
「ちょっ、大輔さん! 寒い、寒いって!」
「何変なこと言ってんだよ!」
「すんません、ごめなさい、申し訳ありません! って、謝ってるじゃないですか!」
「謝りゃいいってもんじゃない!」
照れ隠しもあって、吉岡は体の芯まで冷えるほど大輔に冷水を浴びせられたことは言うまでもない。
「なんだ、シャワーだったか」
ほんのりと濡れた髪と、幾分上気した大輔と吉岡の顔に、北尾隊長がにやりと笑って。
「探したぞ」
「なんですか?」
「電話があったぞ。本間吉照さんって人だった」
大輔が渡されたメモを吉岡も覗き込む。
「本間?」
「ま、電話してみろ」
満面の笑みでそう言われてはそれ以上聞くことも出来ず、大輔はメモをじっと見つめる。
本間吉照という名前と、携帯電話の番号が書かれていた。北尾が続けて言った。
「そうだ、仙崎と吉岡って二人に、だからな」
「俺もっすか?」
「ああ」
吉岡はわざとらしく顎に左手を持っていき。
「本間、さん?」
「本間、さんね…」
そのとき。
不意に二人の脳裏に浮かんだ光景。
名前と年齢を問うた大輔に痛みを堪えながら、海老原は応えた。
大輔は続いて、その場にいたもう一人の『要救助者』の名前を無線で伝えた。
『本間恵さん、年齢は』
自分の年齢をごまかして海老原に『しょうもない嘘』と罵られたけれど、彼女の妊娠まで発覚して一瞬たった4人しかいないその場が凍り付いたことを。
「あ」
「まさか」
「本間さんって…」
「ごめん、環菜!」
鹿児島空港に迎えに来た夫の第一声がそれだった。
仙崎環菜はスーツケースを引っ張りながら、思わず立ちつくす。
なんだろう。
会うなり謝られるのは、一つしかない。
出動。
海上保安官の妻になるって、こういうことだよね。
環菜は小さく溜息をついて、肩を竦めながら苦笑する。
「いいよ、仕方ないから。あたしはタクシーででも家に行けるから」
「え?」
「早く行って。出動、でしょ?」
「あ、いや」
「なに?」
「そうじゃなくてさ…その、少し寄り道したいんだけど」
「寄り道?」
それほどまでに全力で謝られて、その理由が出動ではなく、寄り道だと知って環菜は今度は隠しもせずに大きく溜息をつく。
「いいよ、どこへ寄り道? 航空基地? 保安本部?」
「それがさ…」
『その節は、本当に妻がお世話になりました』
幾分緊張してた声に、大輔も恐縮してしまう。
「あ、いえ。そんな…」
『今日お電話したのは、妻のことです』
北尾に渡されたメモを見ながらかけた電話だった。
妻のこと、と言われて大輔は思わず背筋が伸びた。
何か、あったのだろうか?
だが、大輔の悪い予感とは180度答えは違っていた。
『あの、昨日生まれたんです!』
「は?」
明らかに裏返った声に、大輔は本間吉照の言いたいことが分からなかった。
「あの、本間さん?」
『昨日の夕方、陣痛が来て』
「え?」
『昨日の夜、生まれたんです! で、あの、恵が是非とも仙崎さんと吉岡さんに来て欲しいって』
「ホントですか、すげ、おめでとうございます! で、それって…男の子、女の子…」
ちらりと吉岡を見れば、大輔の様子で吉岡も理解できたようできらきらと目を輝かせながら大輔を見つめている。
『それが…あの、恵がお二人には教えるなって』
「は?」
『来てのお楽しみ! だそうです』
「すぐ行きます!」
とは行ったものの、環菜の迎えも行かなくてはならなくて。
大輔は吉岡の車で環菜を拾って、その足で本間恵が入院している病院に走ったのだ。
「本間さん…って、大輔くんと吉岡くんがくろーばー号で助けた?」
「そうなんですよ! あの時妊娠5ヶ月って言ってたからいつ生まれてもおかしくなかったんですよねぇ」
運転しながら吉岡がルームミラー越しに環菜を見ている。
「吉岡、環菜と本間さん、会ってるんだ」
「へ?」
吉岡は目をぱちくりさせて。
「え? なんで?」
「くろーばー号にあたしが乗ってたのは知ってるでしょ?」
「あ、聞きました」
「本間さんが怪我した時に、あたしすぐ傍にいて。怪我してる本間さんにハンカチ、渡したの」
船が沈むという乗客たちのパニックの中、本間恵は階段で転倒した。そのとき、すぐ傍にいたのが大輔であり、環菜だった。
出血を止めるために、少し離れた船室に向かったとき、大輔は環菜に船を下りるように言った。
そして爆発に巻き込まれて、くろーばー号船内を彷徨うことになったことを、車内の3人が思い出していた。
脱出後、大輔の病室に本間恵が見舞いに来て、環菜は大輔が命を賭してまで助けようとした『要救助者』が誰だったのか、知ったんだ。
「そうだったんですか」
「そう…生まれたんだ」
環菜は顔に落ちてくる髪をかきあげて、耳にかけながらにっこりと微笑んだ。
「よかったね」
「ああ」
大きなガラス窓に手を当てれば、ひんやりとした温度が恵の掌に伝わる。
恵はその冷たさも心地よく感じながら、ガラスの向こうを見つめている。
幾つも並んだベビーベッド。
その中の一つでむずがる小さな命を、恵は見つめていた。
生死の境を、彷徨った。
次第に浸水が酷くなる船の中で、春とはいえ未だ冷たい水温の中で、恵は必死で生きた。
鼓舞するように、何度も自分に言い聞かせた。
帰るんだ。
必ず、生きて帰るんだ。
そして、それが言葉となった。
こぼれ落ちる涙とともに、恵は僅かに膨らみ始めた、触っただけではそこにあるのだと実感することすら出来ないほどの小さな命を抱きしめながら、絞り出すように言った。
生きたい。
生きて、赤ちゃんを産みたい。
生きるために、戦った。
文句ばかりを言う男と、少しお調子者の若者と、そして最後まで諦めなかった青年。
空があまりにも遠い船の底で、恵は自分の足下にいる青年に言った言葉を思い出す。
そして、微笑む。
ガラスの向こうで、身体を動かす小さな命があの時守りぬいた、命だ。
そして、遠い空を見上げながら、決めたこと。
小さな命の、新たな名前。
恵は、小さな声でその名を呼んだ。