An oath of eternity 5
「ちょ、環菜。休憩…」
「またぁ? もう、早く帰ろうよ」
むくれる環菜の手を引いて、大輔は強引に座らせた。
「大輔くん」
「あれ、ここって」
大輔は不意に気づいて辺りを見回した。
夜更けで見通しは利かないけれど、坂の街・呉のどこにでもある階段のようだったけれど、あまりの急勾配でかなり酔ってしまった大輔には一気に駆け上がるのは辛かった。環菜は生まれ育った場所だからだろうか、少し足下が危ういけれどもそれでも巧みに階段を上っていたのだが、大輔が引き留めたのだ。
「そうだよ、海猿さんがボンベ担いで、昇ってくる場所〜」
疲れと酔いで、環菜はすでにふらふらだ。
座らせたことで大輔にもたれかかってうつらうつらと眠り始めた。
「おい、環菜」
「う〜ん…ねみぃの…」
「おいおい…」
左肩にもたれかかって眠ってしまった環菜をそのままに、大輔は急勾配の階段を見下ろした。
中央に柵がある。
それはあまりの勾配に、住民が転倒防止でつけてもらったものだという。
あの夏。
大輔たち14人はこの階段をフル装備で何度となく駆け上がった。
タイムが遅いと階段途中の空き地で、やはりフル装備のまま腕立て伏せが待っていた。
あのころのバディ・工藤とその空き地で何度なく、腕立て伏せをした。
その翌年は、吉岡と矢吹の腕立て伏せをやるせない気分で見つめていた。
「そうか………ここにも、思い出はたくさんあるんだよなぁ」
大輔は小さく溜息を吐いて、肩にもたれかかる環菜の顔を覗き込んだ。
いつだったか、環菜が言った言葉。
思い出は大切にしないと、ね?
「そうだな…」
環菜のうつらうつらと動く頭を支えて、大輔が環菜の耳元で囁いた。
「環菜………寝てるか?」
起きる気配がないのを承知の上で、大輔は環菜の耳元で続ける。
「なあ、環菜。俺たちっていろいろあったけどさ……幸せになろうな。で、俺の横でずっと笑っててくれよ? それが…俺の幸せの始まりだから」
重厚な扉が開くのを待ちながら、環菜が大輔に言った言葉。
大輔くん、あたしたち、幸せになろうね。
愛して、止むことのない、その微笑みで。
環菜が告げた言葉に、大輔は力強く頷いて。
ながれの廃船式のあとで見た微笑みも、
くろーばー号から戻った時、ストレッチャーの上で見た笑顔も、
大輔の支えであり、原動力であり、守るべきもの。
環菜の微笑みが、大輔が大輔でいるための、すべてだと、今なら言える。
「……俺って勇気ないなぁ…寝てる環菜にしかこんな告白できないなんてなぁ………」
小さく溜息をついて、大輔は環菜のゆらゆらと動く身体を器用に支えながら、背中に背負った。
「よいっしょっと」
揺り上げられて、環菜は一瞬薄目を開けた。
眠たかったのも事実だ。
だが、まさか大輔があんな告白をしてくれるとは思わなくて、思わず眠ったふりをしてしまった。
「さてと、帰るか」
大輔が一段一段踏みしめるように階段を上る。
その背中で、すっかり目が覚めてしまった環菜は微笑む。
大輔の告白を聞けて。
嬉しくて、
嬉しくて。
小さな小さな声で、環菜は大輔の広い背中に向かって囁いた。
「ありがとうね、大輔くん」
「まったく、こんな夫婦見たことないわよ」
二日酔いの頭を抱えてきた環菜に、早朝からトレーニングとして走りに行って帰ってきた大輔を見て、歌子は苦笑する。
「すんません」
「いいのよ、大輔くんに言ったんじゃないの。環菜に言ってるの。大丈夫なの? お昼には大輔くんのご両親も来るんだよ」
「………それまでに復活できるように頑張ります」
「そりゃそうよ、はい。グレープフルーツジュースね………まったく」
歌子が呆れているのは環菜の二日酔いではなく、式のあとで大輔が言い出したことだった。
入籍は大輔が鹿児島を発つ前に鹿児島で済ませてきた。
二人で住む官舎は既に用意が調っている。
なのに、環菜はまだしばらく横浜で生活すると言うのだ。
つまり、別居婚。
まったく予想もしてなかった事実に、大輔の両親よりも歌子が呆気にとられた。
『環菜!』
『ごめん! どうしても、区切りがつかなかったの! 1ヶ月だけ、横浜に残って仕事するの』
『あんたねぇ』
『すみません、お母さん。急な話で…』
大輔が頭を下げる。歌子は渋い顔でしばらくの間、独り言のように愚痴を呟いていたけれども、大輔の母に穏やかに宥められては落ち着かざるを得なかった。
『すみません、いたらぬばかりの、こんな娘に育てた覚えはないんですけど』
『いいえ。これからの時代、女性といえども家庭を守りながら仕事をすることは大切ですから。そのための準備、なんでしょ?』
大輔の母の言葉に、環菜は力強く頷いたけれども。
『お母さん……』
『いいのよ。大輔がいいと言ったんでしょ?』
それは本心からの許しのように、感じて。
環菜は深々と頭を下げた。
「お母さんが許しても、本当は大輔くんが許したらダメなのよ?」
歌子がテーブルに両肘をつきながら、新聞を広げている大輔を見遣る。大輔も軽く笑って、
「本当はそうなのかもしれないですけど……だって、仕事辞めて俺についてこいなんて俺は言いたくないですよ。環菜がちゃんと自分で探し出した『したいこと』なんだから……それは俺と一緒ですよ」
歌子は思い出した。
かつて大輔がサラリーマンとして働き、海に関わることを切望して、海上保安庁に『転職』しなおしたことを。
環菜も雑誌編集の仕事をリストラではあったけれども辞めて、ファッションデザイナーに転職した。
だから、環菜の仕事に対する思いを理解している…………のだろうが。
「…………やっぱり、困った夫婦だわね」
歌子は小さく長く、溜息を吐いた。
「真子ちゃ〜ん」
真子を抱いた環菜が、その頬を軽くつつくと真子はきゃっきゃと声を上げて笑う。
環菜がそれを見て、一層楽しげに真子の差しのばされた小さな小さな手や、額や、足に触るたびに賑やかな声が響いてくる。
「やっぱり真子は、環菜さんのこと、大好きみたい」
少し離れた場所で尚子はベンチに座って真子と遊ぶ環菜を見つめて、それから傍に立っている大輔の視線を追う。
まるで山水画のように遙か彼方に見える島影と、四国。
式から二日目、尚子と真子が銚子に帰るというので空港に続くローカル線の駅まで送りに来た環菜と大輔だった。
「仙崎さん」
「はい」
「あなたに言ってなかったことがあるの」
「え………」
大輔が困ったように尚子を見つめると、尚子は慌てて両手を振って、
「あ、困った話じゃないのよ」
「…………はあ」
「あたしがね、環菜さんにずいぶん助けられている話をしたらね、まーくんたらね」
尚子はくすりと笑って、環菜を見遣る。
「いい奥さんになるんじゃないかって。保安官の奥さんって、すっごくストレス、かかるだろう? あの子は、そんなストレス発散を上手く出来ているし、言いたいことはズバズバ言える。仙崎とくっつけばいい奥さんになるのにな…だって」
「…………尚子さん」
「まーくん、間違ってなかったね。仙崎さん」
自分より頭一つ背の高い大輔の顔を覗き込めば、先ほどまでの困った表情はどこにいったのか、満面の笑みの大輔がそこにいて。
「ありがとうございます」
「お幸せにね。銚子にも、顔出してくれるとうれしいな」
「はい」
「大輔くん、いいよ、持つって」
「大丈夫だって。そこまでだから」
「そうじゃなくって、ほら、新幹線乗り遅れるよ?」
環菜に贈られたダイバーズウォッチを見れば、確かに出発15分前。ここから新幹線のプラットフォームまで走れば10分ほど。
大輔は小さく溜息をついて、環菜の荷物を下ろした。
キャリーバッグを引っ張っていた環菜が立ち止まり、大輔を見上げた。
「着いたら連絡ちょうだいね」
「ああ」
「あたしも連絡するから」
「……………」
呉を発つ日は同じだった。
広島駅まで出て、大輔は新幹線で博多、そこから特急を乗り継いで鹿児島に帰る。環菜は広島空港から横浜に帰る予定だった。
だから、ここでお別れ。
結婚式後、夫婦として過ごしたのはたったの4日。
寂しくないかと言われれば、寂しい。
だが、1月すれば環菜はやってきてくれる。
大輔は小さく頷いて、
「環菜」
「?」
次の瞬間、環菜はふんわりと暖かく包み込まれた。
それが大輔の腕の中であることを、環菜はすぐに理解したけれど、さすがに広島駅、大都市の中心駅では恥ずかしかった。
「ちょっと、大輔くん」
「……………てくれ」
「え?」
「笑って見送ってくれ」
小さな囁きに、環菜は一瞬黙って。
だがすぐに答えを自分の首筋に顔を埋める大輔の耳元に、囁き返した。
「うん、いいよ」
「ああ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
優しくふりほどかれた手。
大輔は全速力で数メートル駆けて。
振り返り、笑顔で手を挙げた。
環菜も満面の笑顔で、手を振った。
また、会える。
だって、二人で誓ったのは永遠の誓い。
二人で約束したのは、幸せの始まり。
だから、離れても平気。
また会えるから。
end...