swim to fly in the sky 1
覗き込むマスク越しの双眸が、環菜を心配そうに見つめていた。
環菜は笑ってみせるけれど、海の中、ましてレギュレーターをくわえた状態では口元の動きなど分からないことに気づいた。
だから、左手の親指と人差し指で輪を作る。
大丈夫だよ。
大輔くん。
大輔は同じようにOKサインを返してくれた。
さきほどの心配そうな様子はもう、見えなかった。
環菜の左手とつないだ右手を、大輔が力強く引いた。
促されて、環菜は泳ぎ出す。
青く澄み切った、世界へ。
それを聞いたのは、2ヶ月前だった。
同居を始めてまもなく、環菜は夕食の買い出しに出かけて、目にとまったパンフレットをあれもこれもとかき集めて、店員がどうぞ全部お持ちになってくださいと勧められるがままに頂いて、とはいえ相当に重たかったけれども、帰ってきたのだ。
しかし夕食の支度に忙しく、目も通さずにリビングに起きっぱなしにしていたパンフレット。
帰宅した大輔がそれに気づいて。
『なに、これ?』
『え? あ、それ…』
ヨーロッパ。
パラオ。
ハワイ。
ニュージーランド。
軽く15センチ以上はあるパンフレットの厚みに、大輔は思わず数回瞬きして。
『そうだよなぁ。俺たち、新婚旅行も行ってないもんな』
『うん、そうでしょ?』
パラパラとめくる大輔の横顔を、環菜はカウンター越しに見つめていた。どうやら興味津々でパンフレットを見ているようだ。
え? 新婚旅行、まだ行ってないの? あんたね、ちゃんと大輔くんにアピールした?
そういう時はカタログを山ほど飾って、大輔くんに見てもらうんだよ。
近況を電話で告げれば、千佳にそう促されて。
それもそうだと、パンフレットを貰って来て、並べてはみたものの。
『パラオか…学生時代に2回行ったなぁ…それは綺麗な海でさ』
『へえ』
『オーストラリアもよかったなぁ』
大輔のパスポートを見せてもらったことがある。
あちこちの国の渡航ビザのスタンプが色とりどりで押されていたことを思い出して、環菜は内心にんまりしながら、
『じゃあ、行く?』
『う〜ん…』
乗り気のような、そうでないような、大輔の返事だった。
そして帰って来た答えは。
環菜の予想とは違っていて。
『よし、沖縄に行こう』
『………は?』
『で、沖縄決定?』
「そうなんですよねぇ、大輔くんがあっさり予約してくれて。明後日から行ってきます。5泊6日で」
電話の向こうで溜息をついているのが千佳。
その向こうで苦笑しているのが、おそらく『オーシャンズ』のオーナーだろう。
『なんで沖縄? あんたのいるのが鹿児島でしょ? 隣の県じゃない』
「あ〜、でも。飛行機に乗りますよ」
『…船で行くつもりだったの?』
「あ、そっか…」
『まったく』
環菜の聞き取れないほどの小さい声で、千佳はぶつくさとぼやいて。
環菜は慌てて、
「あ、でもでも。海外に行くのもちょっと面倒で…」
『面倒?』
「大輔くんは国家公務員だから、海外に行くときは海外渡航許可…なんとかってのを申請しないといけないんだって」
『は?』
「それが面倒だって…」
『…………なによ、それ』
「そうらしいです」
『ま、いいや。環菜が納得してるんだったら。で、沖縄でどうするの?』
環菜はパソコンモニターをちらりと見た。
大輔が教えてくれた、石垣島のリゾートホテルのホームページで、黄金色の夕焼けが飾られていた。
「那覇で乗り換えて、石垣島に行くんです。で、ダイビング」
『…………大輔くんって、仕事から離れても海猿なんだ』
とうとうオーナーの爆笑が聞こえてきた。環菜は苦笑しながら、
「ホントに。でも、あたしも潜りたいから」
『よう、久しぶりだな。大輔くん』
電話の向こうの声は、相変わらず太く低くて、柔らかく耳に届く沖縄のアクセントだった。大輔も笑顔で言葉を返した。
「ご無沙汰してます」
『………最後に来てから……そうか、門司に行くから潜り納めがなんとかって言ってたな。5年か』
大輔はふと、官舎から見える空を見上げた。
雲一つない青空が、いつか飛行機から見た石垣島の海を思い起こさせた。
5年前。
会社員を辞めて、福岡に帰り。
海上保安庁船艇等職員採用試験を受けて、合格通知が来たその足で、大輔は石垣島に向かった。
かつて何度も潜った海。
そして、これからはきっと自分が守る海。
その決意を一層かたくなにするために、大輔は再び石垣島に向かい、そして学生時代、夏の2ヶ月間住み込んで働きながら潜らせて貰った民宿・金城を訪れた。
その主人である金城晃に5年ぶりに連絡したのだ。
『そうか…結婚したんか。よかったな、おめでとう。で、石垣島に新婚旅行か』
「お願いできますか?」
『おう、用意するよ』
太く低い声は、穏やかに大輔の耳にしみ通る。
「晃さん」
『ん?』
「…………石垣の海って、やっぱり綺麗ですか?」
『当たり前じゃ。空と同じくらい、海も綺麗じゃ』
澄み切った、蒼。
どこまでも続く、碧。
潮に揺れる、色とりどりの小魚。
悠然と泳ぐ、ウミガメ。
海上から降り注ぐ陽光を受けて、青い海の中で一面に敷き詰められた珊瑚たち。
5年前、海上保安官となったことを自覚した時、海に沈めた思い。
海を、楽しむ。
でも。
少しの間だけでも、取り戻していいのだろうか。
学生の頃、ただがむしゃらにダイビングし続けていた、あの楽しさを。
ほんの少しでも、環菜と潜るときだけでも、思い出していいんだろうか。
受話器を置いて、晃は思わず苦笑した。
その様子を横目で見ていた、一人息子の晴行が声をかける。
「どうした、父ちゃん」
「大輔くんが来る」
「大輔くんが?」
晴行の目が輝いた。
7年前、大輔が住み込みで夏を過ごした頃、晴行は小学6年生だった。晴行にとっては、兄同然の存在だった。晃は小さく頷いて、
「嫁さんと新婚旅行だと」
「へえ…じゃあさ、うちみたいな民宿より、立彦おんちゃんところがいいんじゃない?」
「そうだな…………」
「すごい〜」
「うわ、すごいな…」
鹿児島から1200キロ。
千佳の言う、隣の県に行くだけで3回も飛行機を乗り継いで。
降り立った石垣島の空は服飾デザイナーである環菜にしても、その表現は難しかった。
二人は首が痛くなるほど、空を眺めて。
環菜が一言呟いた。
「青い、ね」
「そうだな………」
「すっごい、綺麗だね………………」
横浜の空とも、呉の空とも、鹿児島の空とも違う。
環菜は不意に、呟いた。
「大輔くん」
「ん?」
「………空港で見た、ガラスの色だね」
「ガラス?」
大輔は一瞬考えて、思い当たる。
「あ〜、あったあった。幾つか飾ってあったやつ」
「うん。あれの中に、すっごく綺麗な色の壺があったの……それに似てる」
大輔もかつて誰かに聞いた話だから、確かではないのだが。
「あれ、確か、琉球ガラスってやつだ。すっごい綺麗な青とか、緑とか…………ああ、そういえば」
石垣の空と。
石垣の海の色に、
二人の記憶の中の深みのあるガラスの色が重なった。