swim to fly in the sky 2
「ふわあ、いいカンジ〜」
環菜は南国リゾート風の調度品で統一されたベッドルームを見渡して、ベッドに飛び込む。
スプリングが効いているのか、数回はねて天井を見上げれば、丸い天蓋に薄い紗のカーテンが掛けられていた。
「うわあ、お姫様ベッドだ」
子どもの頃、母の歌子に絵本で見たお姫様が眠るベッドを作って欲しくて、身振り手振りで説明したら……その日の夜には、環菜の部屋に『季節はずれなのに、なんでこんなものがいるのかね』と言いながら歌子がつるしてくれた蚊帳が鎮座していて、あまりのびっくりに動けなくなってしまったことを不意に思い出して、環菜は苦笑する。
一人で笑っている環菜の顔を覗き込んで、大輔が困ったように言った。
「環菜〜」
「あ、ごめん。思い出し笑い」
「………ならいいけどな」
環菜と一緒にコテージに入ってきた大輔だったが、環菜に少し待つように伝えて姿を消していた。
「俺、昔お世話になった民宿のおじさんに宿泊をお願いしてたんだ」
「民宿?」
「だけどさ、さっきフロントで確認したらその…金城さんが、ここのオーナーさんと親戚で、新婚さんならこっちがいいだろってこっちを予約してくれたんだ」
「…………ふうん」
環菜のさりげない抗議に、大輔は気づかない。
「金城さんの民宿って、ダイビングショップも兼ねてるんだ」
「そうなんだ」
やっぱり、気づかない。
環菜は小さく溜息を吐いて、気分を入れ替えた。
ま、いいっか。
面と向かって怒るほどのことじゃない。
新婚旅行に、民宿!?って怒ったところで、大輔がそこに気づくかどうかわからない。
「明日、ダイビングするのってその……金城さんのところ?」
「ん? ああ。だけど環菜はちょっとだけだけど、プールで講習受けてもらうから」
聞いていなかった話に今度こそ環菜は抗議を口にする。
「なに? そんな話聞いてないし、それにあたし、前に大輔くんと潜ってるし」
「うん。でも、やっぱりちゃんと講習受けといて、ライセンス取った方がいいよ。潜るときは、必ず俺が傍にいるから。心配しないでいいよ」
「…………そう?」
「ああ」
「………………ここまで来て、潜らないって言うのもバカみたいだし」
「そうだな」
にこにこ。
一緒に潜れる。
潜るときは、必ず傍にいる。
その言葉を口にしたのが、本当に嬉しかったようで。
大輔はそれからしばらく、笑顔を絶やさなかった。
夕食のあと、環菜が長いバスタイムに入った頃、コテージの電話が鳴った。
大輔が小首を傾げながら出ると、受話器の向こうから賑やかな宴会の声が響いてきた。
思わぬ大音量に一瞬受話器を耳から離すと、聞き慣れた声が響いた。
『大輔くん!』
「お、晴行か?」
『そう、俺! 久しぶり、元気してた?』
「ああ、元気だよ」
かつて大輔が弟のように可愛がった晴行も、
『俺さ、大学生だぜ?』
「晴行も大人になったなぁ」
『当たり前さぁ、大輔くんが結婚するくらいな』
お互いの近況をひとしきり話して。気づけば受話器の向こうの宴会らしき音はまだ続いていた。大輔は思わず苦笑する。
「相変わらず、民宿・金城は毎晩宴会?」
『父ちゃんが好きやからなぁ。毎晩毎晩、泡盛と塩で宴会してるよ』
明日潜ると言う日に金城晃に捕まれば、ダイビング中二日酔いで気分が悪くて悪くって、場合によって耳抜きもできなくて……そんなことを思い出して、大輔は苦笑する。
「それ以前の年齢だろ、晃さん」
『そうだけどさ』
一瞬、会話が止まった。
そして、晴行が切り出した。
『大輔くん』
「ん?」
『結婚、おめでとうね』
「…ああ」
『少し前に、鹿児島の沈没事故で名前出てたでしょ』
「………………知ってたのか」
『うん。新聞に名前、載ってたから。無理しちゃダメだよ。それから、奥さん、泣かしたらだめだからね』
「ああ……」
大輔の返事に安堵の溜息を一つ吐いて。晴行が言う。
『きっと、素敵な奥さんだね。こんな大変な仕事してる、大輔くんをちゃんと受け止めてくれる奥さんなんだから』
「ああ」
大輔は受話器の向こうに見えないのに、胸を張って答えた。
「すっごく、いい、奥さんだ」
晃が晴之曰く「立彦おんちゃん」に頼んで用意してもらったリゾートホテルは、個室が一棟ずつのコテージになっていて、眼下には先ほどまで石垣の青い海と、その水平線と、まるで他の色を許さぬような澄んだ空が、地球の円みを実感できるほど一望できた。
夕方、大輔と環奈はバルコニーから水平線に姿を消していく夕陽を見つめていた。
青い空が、青い海が、夕陽の朱と紅、そして黄金に染まって行く。
凪いではいるけれど、微かに起こる波頭の先から紅色と黄金色が染みこんでいく様子を、環奈は食い入るように見つめていた。
きれい、の一言では表現できないけれど。
大輔はかつて何度も見た光景に再び感動しながら、夕陽の色に染まっている環奈の横顔を見ていた。
ほおづえをついて、しばらく見つめていたらようやく環奈も気づいた。
「ん?」
「いや、まあ………」
ごにょごにょと言葉を濁して、大輔は立ち上がり、再び夕陽を見た。
もう夕陽はほとんど姿を消して、最後の残光がわずかに輝くだけだった。
「きれい、だったなぁ」
「うん。すっごく。感動した」
「そっか」
「大輔くんは、石垣島でバイトしながら潜ってたんだよね。こんな夕陽、見たことある?」
「ああ。浮上してきたら、周りが夕陽の色で。あれはきれいだったな」
「ふうん」
未だ余韻に浸るように環奈は残光輝く水平線を見つめて。
「なんだか、生きてるってカンジするね」
不意な環奈の言葉に、その場を離れようとしていた大輔は振り返る。
「なに?」
「ん?」
環奈は左手を水平線に沿うようにかざす。
真新しい薬指の結婚指輪がきらりと輝いた。
「自然の中で、夕暮れをゆっくり見ることなんて、横浜でも鹿児島でもないものね」
「ああ……」
環奈の細い、指と指の間を、本当にわずかになった残光がまるで雲間から地上に舞い降りるかのような一条の光になって環奈の横顔を輝かせた。
大輔は一瞬見惚れて、小さく苦笑した。
「環奈」
「ん?」
「飯、行こっか」
「うん」
ようやく動き始めた環奈は、不意に思い出したように言う。
「大輔くん、さっきあたしに何かいいかけたでしょ?」
「え? あ、あ……」
「なに?」
話を逸らすように先に歩き始めた大輔を追って環奈がパタパタと足音を立てる。たくましい腕に抱きつけば、大輔はわざとらしく顔だけを逸らした。
「なにって?」
「いや、気にしないでいいよ」
「気になる〜」
顔を見上げれば、大輔は小さくため息を吐いて。
「たいしたことじゃないよ?」
「うん」
「石垣、環奈と来れてよかったな…てそれだけだって」
「………」
環奈は一瞬黙って。
しかしすぐに満面の笑顔を浮かべて。
「そうだね」
「……全然、たいした話じゃないだろ?」
「ううん、たいした話!」