swim to fly in the sky 6
海の底から見える満月の光が、ゆらゆらと大輔とすぐそばにいる晴行を照らしていた。
大輔はまっすぐに、闇に包まれた彼方を見つめる。
かつてここに置いてきた、思い。
ダイビングを楽しむ、気持ち。
機動救難士として海に潜る時ではなく、環菜と二人で潜るときだけでも思い出したかった。
だから、ここに沈めた思いを、ほんの少しだけ引き上げたいと、訪れたのだ。
海は、思いを沈めた日と同じ、穏やかに大輔に思いを返してくれた。
「もういいの?」
「ああ」
水面に顔を出した大輔に晴行が聞けば、レギュレーターを外しながら大輔は力強く頷いた。
「もう、いいよ。帰ろう。環菜が寝てる間に帰りたいから」
「……よくわからんけど、大輔くんがそういうなら」
晴行が促すと、晃は小さく頷いてエンジンをかけた。
意外に大きなエンジン音を聞きながら、大輔は深く、そして長くため息をはいた。
「大輔くん、あのさ」
エンジン音の中、晴行がこっそりと大輔の耳元にささやいた。すぐそばで囁けば、さすがににぎやかなエンジン音も二人の会話を邪魔しない。晴行がちらりと晃を振り返れば、操船に懸命で晴行の声など耳に入らないようだった。
「どうした?」
「あのさ……こんな話、大輔くんにするの、どうかと思うけど……多分、親父のやつ、言わないと思うから、やっぱり俺が言う」
「ん?」
晴行の話の意図がわからず、大輔は首を傾げた。晴行は手近にあったバスタオルを大輔に渡しながら、
「親父にはナイショさ?」
「………よくわからないけど」
「うん、ナイショの話さ」
晴行は声を上げる。
「俺のおじい、ゆきじいじな、昔石垣で潜水漁をしとった時に潜水障害で、片足動かんようになったらしい。やから、酔うたら親父に言うてたらしい。海は怖いとこ、やけども優しいんやて」
「…………」
大輔も沖縄で行われている潜水漁のことを聞いたことがあった。かつて頻繁に行われた潜水機材を使った追い込み網漁は、しかし、その激しさゆえに事故が多発し、今ではほとんど残っていないという話を11管出身の保安官から聞かされたことを不意に思い出した。
「海は優しうせんと、怖うなるんぞ。それが口癖やったらしいさ」
「……海は優しくしないと、怖くなる」
その言葉の意味はなんだろう。
大輔が考え込むと、晃の後姿を見つめながら晴行が言う。
「俺さ、きっとゆきじいじが言いたかったのは、海を大切にしろってことだと思う。でさ……親父はそんなゆきじいじの気持ちをちゃんと俺に伝えてくれたよ。それにさ……」
『大輔くんも、きっと親父の思いを理解してくれるだろな』
ぼそりと告げられた、晃の思い。
海に生きる者の、願い。
優しい海と、恐ろしい海を知る者の、願い。
知ってほしいのだ。
大輔だから。
そして、大輔はそれを受け止めて。
「海は、優しいからね」
エンジン音にかき消されながらつぶやかれた大輔の言葉に、晴行は晃の背中を見つめながら微笑んだ。
こうして、思いはつながっていく。
夜半に帰ってきた大輔を、環菜はベッドの中で出迎えた。
こそこそとベッドにもぐりこんだ大輔は、そぉっと覗き込んだ環菜の双眸がまっすぐ自分を見つめていることに気づいて、ぎょっとして言葉を飲んだ。
「か、かんな……」
「おかえり」
「た、ただいま……」
環菜は穏やかに微笑みながら、大輔の胸元に飛び込んで言った。
「楽しかった?」
「…………」
「なんか見つけたんだね。そんな顔してる」
見上げれば、大輔の顎下で。
一瞬の沈黙のあと、大輔は苦笑して。
「そうかな?」
「うん。すごく嬉しそう」
「………そうだね」
「いつか話してね。何を見つけたのか」
「ああ」
次に覗き込んだ時には既に、寝息を立て始めた環菜の額にそっと触れて、大輔は微笑んだ。
やっぱり、環菜にはかなわないと感じながら。
環菜は夢を見た。
琉球ガラスの蒼い色のような空と、海。
自分がいるのが空か、海かはわからない。
ゆったりと流れに身を任せている。
時折青の世界を過ぎるように、世界が影に包まれる。
泳ぐように飛ぶモノか。
飛ぶように泳ぐモノか。
環菜はその美しさに、微笑んだ。
澄み切った世界で、たゆとうモノ。
それが石垣の海で見たマンタだったのか、違うものだったのか。
夢から目覚めた環菜は、それが何だったのかわからなかった。
仙崎家の玄関には、小さな小さな花瓶が飾られた。
空気に染み込んでいきそうなほど、澄み切った青い色の琉球ガラスのそれ。
そしてすぐ脇に、一枚の写真が飾られている。
二人が帰った翌週、晴行が水底から撮ったマンタの大群の写真。
環菜が気に入って飾ったそれは、まるでマンタが空を飛ぶように泳ぐようにさえ見える。
「ねえ、大輔くん」
環菜はその写真を凝視して微笑みながら、出勤前の大輔に言う。
「また、行こうね。石垣島」
「ああ、行こうな」
そうして、環菜と琉球ガラスと、マンタの写真に見送られて、大輔は出勤する。
優しいはずの海が、決して人の命に牙を剥かせないために。
海に、出て行く。
end...
海猿仲間のサルサンズさん(ダイビング経験者)にご指導いただきながら、書きました。