swim to fly in the sky 5






見事な、月だった。
大輔はまもなく満月という月を仰ぎ見て、背中で眠る環菜を見やって小さく笑った。
すぐ隣に立っていた晃がそれを見逃さなかった。
「なんだ、一人で笑って」
「え? あ、いや……なんでもないです」
「ふん、どうせ奥さんとのこと、思い出してたんだろが? 早く帰れ」
新婚の惚気に、付き合いきれるか。
酒気を吐き出しながら、手をひらひらと振る晃が踵を返した。
海から上がった大輔と環菜を、待ち構えていたのは金城民宿恒例の酒宴だった。環菜も楽しそうに参加していたけれど、旅の疲れと潜った疲れも重なって、酒盃を次々に空けていく大輔の隣で眠ってしまった。大輔も明日のことを考えて程々で泡盛をやめていたけれど、晃は久しぶりに大輔に会えたことがうれしかったのか、大輔に勝るハイペースで泡盛を飲み干していた。眠り込んでいた環菜を背負って大輔が帰ると言い出した頃には、幾分足元が怪しい風体ではあったけれど、大輔を見送ると言い張って、民宿の外に出てみれば見事な満月に向き合えたのだ。
「晃さん」
「あ?」
「明日も、お願いします」
「おうよ」
おやすみなさいと大輔が言えば、晃が背中を向けたまま大輔に言った。
「大輔くん」
「はい?」
「………昔、ずいぶん思いつめた顔をしとったが……いい顔になったよ」
「そうですか?」
「…………ああ、いい顔になった」






初めて仙崎大輔が金城民宿に現れたときは、なんの感慨もなかった。
今までと同じ、ダイビングが好きで好きでしょうがなくって、住み込みで働きながら一夏を海で過ごす、そんな青年は晃は何人も知っていたから、そんなダイビング好きの青年のイメージしかなかったのだ。
だがそのイメージが変わったのは、5年前。
ある日、ふらりと現れた大輔が告げた言葉に、晃は瞠目する。
『海上保安官に、なります』
仕事を辞め、海保の学校に入学することを決めたという大輔に、それまでとは違う強い意志を見て。
晃は何も言わず、数日の間石垣の海に潜りつづけていた大輔の背中を見つめていた。
まるで何かを石垣の海に重石をつけて、沈めているような大輔のダイビングを、ダイビングのライセンスを持たない晃はただ見守ることしかできなかった。
今日、うれしそうに二人で潜る大輔の顔は、ただがむしゃらに潜っていた学生時代の顔とも、思いつめていた5年前の顔とも違っていた。
心の深奥に、秘められた強い意志。
だが愛する者に向けられる視線は、穏やかで優しく、だが強いもの。
「いい男になった」
「え?」
「……大輔くん。いい、男になったな」
ぼそりと告げられた言葉に、大輔は満面の笑みを浮かべて答えた。
「ありがとうございます」
「………さっさと帰れ」
ゆっくりと民宿に入っていく晃の背中に向かって、大輔は黙って頭を下げた。






「父さん、風邪引く」
縁側で泡盛のグラスを片手に月を見上げていた晃に、晴行が声をかけた。晃は小さくため息をついて、
「引くか」
「もう年なんだから」
「俺はまだまだ」
「年だって。だって……」
晴行はちらりと縁側から部屋の最奥の欄間にかけられた写真を見上げた。
「ゆきじいじの年、越したし」
「……親父は若くして、だったからな」
晃の父・行雄は、本島で交通事故に遭って急逝した。もう30年が立とうとしている。
『晃、ええか。海は怖いところじゃ』
泡盛で酔う度、足の不自由な父は両手をひらひらと振ってかちゃーしーを踊っていたけれど、晃に絡むように何度も同じ言葉を繰り返した。
『海は怖いところなんじゃ』
「怖い、ところか…」
グラスの中の、わずかな氷が澄んだ音を立てて崩れる。晃は晴行に言った。
「なあ、晴行。海は怖いところか?」
「あ?」
宴会の後始末をしていた晴行は奇妙なことを言い出した父を軽くにらみつけて、
「あほか、父さん。俺は海洋生物学者になりたいのに、海が怖いところやなんて思うたことなんてないけど」
「……そうか」
「ていうか、海は優しいもんなんやろ? いつも、ゆきじいじが言うてたって言うのは父さんだろ?」






ええか、晃。
海は怖いところなんじゃ。怖おて、怖おて。
やけど、何よりも優しいんじゃ。
優しいもんには、優しうにならんとな。
海は知っとるぞ。優しうせんと、怖うなるんぞ。






潜水漁で生計を立てていた行雄が、潜水障害で左足の障害を抱えるようになって、金城家は行雄の本島での出稼ぎに頼ることになった。母は早くに亡くなってはいたが、晃たち兄弟はたいした不自由も感じることなく生活できていたのだ。やがて、動かぬ体に鞭打って働いていた父が交通事故で急死してから、長男の晃は生きるため、家族を養うためにがむしゃらに働いてきた。
だがふと足を止めて。
自分の年齢が、父のそれを越したことを思い、
父の口癖を思うとき、
父の言葉の意味を考えるのだ。
「海は怖くて、優しいところか……」
酒気を吐き出しながら、晃はふらりと立ち上がった。後片付けをすませた晴行がちらりと見上げる。
「父さん?」
「寝る」
「布団、しいといたから」
「ああ……」






昨日の夕方、そこで環菜と見たのは海に沈む夕陽だった。
今大輔が一人で見つめているのは、中空に浮かぶ満月だった。
幾分ゆらめいてはいるものの、凪いでいる海の上に大きな丸い形がほんわりと見えた。
今日も一日、環菜と潜った。
まだうまく浮力を使いこなせない環菜のBCD、それは環菜の左肩にあるのだが、それを操作しながら、深度に注意しながら、潮に注意し、晃が操船する船との距離を考える。
やることはたくさんで、学生時代のダイビングとも、救助に潜るのとも違っていて。それでも環菜と潜るのは楽しくて、時間がたつのを忘れて、海の中で群れる魚たちにえさをやったり、悠然と泳ぐマンタの一群の雄大さをぼんやりと眺めていた。
明日は最終日、という日に大輔はふと、思い至ったのだ。
環菜が疲れて寝入ってしまったあと、こっそりとホテルを抜け出して晴行に頼んで船を出してもらった。
そうすると、珍しく酒の入っていない晃が操船すると言い出し、晴行がいっしょに潜ると言い出して。
微苦笑しながら、金城親子は大輔に言われるがまま、船を出してくれた。
ほんわりと揺れる、満月。
大輔は体の向きを安定させるように足を動かしながら、だがまるで進むことを拒むように両手を広げ、顔は中空を見上げたまま、ゆっくりと目を閉じた。
音が、聞こえる。
水の音。
そして空気の音。
遠くに、晴行の呼吸の音が聞こえる。
自分の呼吸の音。
その内奥に、心臓の脈打つ音が響いている。
大輔はゆっくりと目を開けた。
環菜が、グローブ越しに大輔の掌に書いた文字を思い出す。






すごくきれい。






起き出してみれば、大輔の姿はなかった。
環菜は小さく苦笑して、起き上がった。
ふわりと動いたカーテンが、中空に浮かぶ満月を紹介してくれた。
環菜は思わず引き込まれるようにそれを見つめて。
小さく笑った。
「まったく、大輔くんってば」





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