小さく。
本当に小さく誰にも知られないように息を吐いて、氷野さとりは空を見上げた。
雲一つない、空。
羽田空港に近い所為か、一機の飛行機が遥か上空を飛ぶ。
いつもだったら感慨を持って見上げる空なのに、さとりは小さく呟いた。
「……暑い」
9月初めの、真夏日に。
日傘もささずに、両手一杯掌に食い込むほどに重いレジ袋を抱えていれば、さとりでなくても暑いだろう。
「……進次のバカ」
だが密やかなささやきは、誰の耳にも届かない。
くしゅん。
小さなクシャミに、反応したのは彼の上司だった。
「どうした? 風邪か?」
「……いやあ、なんでしょうね?」
「シマ、風邪なの?」
わらわらと心配そうに寄ってくる同僚たちに大丈夫だと手をひらひらと振って、嶋本は鼻をくしゃりと撫でた。
風邪じゃない。
きっと。
あいつが、怒ってる。
あいつの機嫌が悪いやろなぁと思い至れば、なぜかわからないけどくしゃみが出るのだ。
もう何年も、そうだった。
それは、きっとあたしが呼んでいるからだよ。
かつて静かに、穏やかにそう告げた彼女。
でもきっと、あたしが呼んでるだけじゃなくて、進次があたしに言わないといけないって思ってるから、体が反応してる…んじゃないの?
そうやな。
さとり。
俺はあほやなぁ。
たった一言、おまえに謝ればいいのにな。
すまんな。
おまえの為って、思うけど…ほんまにおまえの為、なんやろか?
「進次のばか」
重いレジ袋を抱え上げれば持ち手がさとりの手に食い込んで。
痛いと口にせず、同じ言葉を繰り返す。
「進次のばか」
そうすることで、手の痛みが消える…はずがないとわかっていても。
でも一番ばかなのは、いつまでも足を踏み出せない自分。
官舎マンションの狭い階段を抜けて。
『嶋本』と書かれた扉を前にもう一度レジ袋を下ろして、バッグの奥底に入れてあったキーケースを引っり出した。
もう何度と無く使った合い鍵。
少し照れながら、これをくれた彼のことを思い出して。
さとりはもう一度、小さな声で呟いた。
「進次のばか」