046 戦いの始まり





それはいつもとなにひとつかわらない日、のはずだった。
古藤はいつものように航海日誌を書き、寝る前の一服を後部甲板で楽しんでから。
嶋本はいつものように筋トレをしてから、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。
巡視船は和歌山沖の紀伊水道をゆっくりと南下していた。



さとりは、ネームプレートの「小児科研修医」が「小児科医」だけに変わったことに、思わず満悦の笑みを浮かべていた。



そんな、いつもの夜だった。



緊急音が巡視船に鳴り響き、古藤は飛び起きた。
手馴れた様子で、制服を身につけながら寝るときもほとんど外さないダイバーウォッチをちらりと見れば、明け方にはまだ時間がある。
古藤が制服を着て、個室を飛び出した頃、ようやく船内が慌しくなり、2度目の警戒音が鳴り響いた。
続いて周知放送が入る。
『和歌山沖80キロ、該船名エル・ファシル号、LPGタンカー、2600トン、目的地横浜、航行中火災発生。現在も炎上中とのこと』
艦橋に飛び込めば、宿直していた全員が周知放送を入れている佐山通信士補を呆然と見ている。
古藤も先ほど聞こえてきた言葉に、思わず眉をひそめた。
LPGタンカーの火災。
それは原油タンカーなどより揮発性と爆発力が強い。
小さな爆弾が、爆発するよりも衝撃を伴うかもしれない。
「数名のけが人が出ている。これより急速する、また本部は既に特殊救難隊に出動要請を行った」
きつく結ばれた古藤の唇が一瞬緩んだ。
特救隊が来る。



嶋本は心の中で、自分に叫んでいた。
おちつけ、おちつけ、おちつけ……。
何回も、訓練でも、研修でも、何回もやったことやないか。
やのに、なんで俺の手ぇ、言うこときかんのやろ。
おちついてやれば、出来る。
潜水機材の確認をしている鹿取の横にいる嶋本も、同じことをしているはずなのに、その作業は遅々として進まない。
「嶋」
「は、はい!!」
静かな呼びかけに嶋本はひとつ深呼吸をして。
再び動き始めた。
たった一言、古藤が声をかけただけで。
深呼吸をしただけで。
嶋本の動きはいつものとおり迅速になっていて。
古藤はここ数ヶ月で見ることのなかった嶋本の一面を見た気がした。
「機材の準備が出来たら前部甲板で警戒態勢維持。現着次第、警救艇を下ろすからな」
「はい!」
声はそろって返ってきた。



整えた機材を、大型飛行機・ブルーイレブンに積み込んだ。
あとは自分たちが乗り込むだけだった。
「真田さん」
タラップに数歩上がった真田は呼びかけられて振り返る。
「?」
「真田さん、あの……今度の海難って」
身体は大きいが、その双眸はいたって優しい新人隊員・高嶺嘉之が困惑したようにアスファルトの上で見つめていた。真田は穏やかに言う。
「高嶺」
「はい」
「初めての、出動だな」
「はい……」
「高嶺に出来ることは山ほどある。いや、やらなければいけないことだ」
「はい」
「来い。迷う時間は、俺たちにはないんだ」
ゆっくりと、しかし俊敏な動きでブルーイレブンに乗り込む真田に、高嶺は小気味よい返事を返して、狭い入り口に自分の大きな身体を押し込んだ。




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