134 いってきます





さとりの背中を押したことは何度あっただろう。
自分の背中を押されたことは何度もある。
曽田の引退と、呉の潜水研修。
聞かされた曽田の真実。
羽田に異動になって。
自分だけでは抱えきれない苦しみと悲しみを背負ったとき。
共に進むことを諦めようとしたとき。
傍にいて、静かに励まして背中を優しく押して、最初の一歩を踏み出させてくれたのはさとりだった。
したいことを、する。
嶋本のしたいこと。
それは人を助けること。
小さな身体で、人という矮小な器で荒れ狂う自然に立ち向かう。
時には自分の命を危険にさらすこともある。
そんな危険を理解していて、それでもさとりは微笑んで送り出してくれる。
一言、添えて。
『いってらっしゃい。気をつけて』
さとりの姿が、数ヶ月見えないことは確かに悲しいし、不安だ。
だが、それ以上に嶋本の中には思いがあった。
さとりが思い定めたときは送り出してやろうと。
そして、それが今なのだと。
「さとり」
嶋本は微笑んで、言った。
「行って来い。気ぃつけてな」
さとりは一瞬嶋本を瞠目して見つめて。
そして少しばかり潤んでしまった双眸を嶋本に向けながら、言った。
「…………………進次もね」
「おうよ」
「戸締り、忘れないでね」
「……おう」
「お昼寝する時は、ちゃんと窓閉めて、タオルケットでも羽織ってね」
「さとり……」
「いつもおなか出してるから」
「さ〜と〜り〜……」
「冗談だよ」
さとりは満面の笑みで、顔をあげるというよりさとりの口を閉じさせようと無理な力で顎を押し上げる嶋本の手からするりと逃げた。
「ありがと、進次」
「……ああ」
「じゃあ、行くね」
「おう。着いたらメールしろよ? 夜中に電話なんて鳴らすなよ」
「うわ、薄情だぁ。新旦那の声聞きたいだけなのに」
「にいだんな?」
「新妻の反対。あ、新夫かな?」
「………さとり」
「ごめん、じゃあ行ってくるね」
ひらひらといつの間にか手にした航空チケットを振りながら、さとりは嶋本からスーツケースを受け取り、嶋本に背中を向けた。
搭乗カウンターは目の前だった。
搭乗を待っていた行列はもうほとんどない。搭乗スタッフがまだいないかと、辺りを見回しているのが嶋本には見えた。
「よし、行って来い」
ぽんと背中を叩かれて、さとりは振り返らずに言った。
「いってきます」



「お、いたいた。嶋、お見送りはすんだか?」
「はい?」
嶋本は近くのコンビニで買った弁当をたいしてうまくなさそうに頬張りながら、背中越しに黒岩に応えた。
「ああ、2時間くらい前に飛んでいきました」
「そうか。ほい、これ。最終決定のひよこの身上書だ。目え通しておけよ」
「ほぉ〜い」
生返事で受け取って、弁当を頬張りながら書類をめくって。
嶋本は動きを止めた。
「…………………え?」
見たことのある、名前。
見たことのある、写真。
その黒曜石の双眸がまっすぐに、嶋本を見つめていた。
「な、なんでこいつが」
神林兵悟、羽田特救隊入隊辞令、発令。




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