133 キャスターの音





「お〜い、嶋………いないのか?」
黒岩が事務所を覗き込めば、そこには嶋本の姿はなく。
わざとらしくテーブルの下や、ロッカーの上、狭いスペースを探していた黒岩に真田が声をかけた。
「黒岩さん。嶋は今日は午後からの出勤だ」
「あ? なんでだYO」
「さとり先生が長期研修に発つ日ですよ」
すれ違いざまに高嶺に言われて。
黒岩は得心したように頷いた。
「そうか、今日か」



『日本航空、成田発……』
あちらこちらで聞こえるアナウンスに耳をすませながら、さとりは小さく溜息をついた。
横に座る嶋本も。
夫婦揃って同じような溜息に、互いの顔を見合わせて笑った。
「なんや、おんなじことしてるな」
「ホントに」
「そろそろ時間やな」
嶋本がダイバーズウォッチに視線を落としたとき、アナウンスが始まった。
『……JFK空港着、JL0006にご登場のお客様にご連絡申し上げます。機体の準備が整わないため、搭乗時間を遅れさせていただいております。ご了承ください』
「な?」
「あらら、なんかあったのかしらね」
のほほんとさとりがガラス越しに見えるジェット機を見やれば、その足元で慌しく動いている整備員の姿が見えた。
「ま、遅れるって言ってもすぐだと思うよ」
「……しゃあないな」
「って、乗るのはあたしだよ? 進次?」
「……そやけど」
嶋本は顔をあげて、
「まあ、安全のためや。ゆっくり準備してもらおうやないか」
「……なんで進次が胸を張るのか、わかんないけど」



20分後。
ぼんやりと聞いていたアナウンスが、自分が乗る便番だと気づいてさとりは顔をあげた。
嶋本もつられて顔をあげた。
『……ただいまより、搭乗を開始します。時間が遅れましたこと、大変申し訳……』
「よし」
小さな気合でベンチから立ち上がり、さとりはすぐ脇においてあった大きなスーツケースに手を伸ばす。だが、スーツケースは既に嶋本がひきずっていた。
「進次?」
「そこまで、俺が持ってくわ」
「……」
小さな小さな、キャスターの音が、本当なら回りの喧騒で聞こえないはずなのに。
さとりには耳障りな音に聞こえて。
思わず立ち止まり。
項垂れる。
嶋本はそんなさとりの様子に気づかず、しばらく進んで振り返った。
「………さとり?」
慌てて駆け寄れば、さとりの左手が嶋本の右手を掴んだ。
思った以上の力に驚いて嶋本がさとりの顔を覗き込む。だがさとりの表情は影になって見えない。
「さとり、どないしたんや?」
「………ごめん」
「?」
「……………ごめん、進次」
小さく紡がれた言葉に、嶋本は一瞬瞠目して。
小さく長い、溜息を吐く。
「なんや、それ」
「……うち、ほんま、わがままなんよ」
「知っとるわ」
「………自分のしたいことばっかり、優先させて」
「ああ」
「………進次の気持ち、分かってて、目え向けんかったん」
さとりが関西弁を使うときは、いつも言葉を選んでいるさとりが余裕がない時。
嶋本はそれを分かっているから、あえてそれには触れず、強い口調で言った。
「あほ」
「そやかて」
「ええか。俺はお前とつきあうときに決めたんや。それは今も変わってへん。まあ……それを過大解釈しすぎて、一回はお前にえらい怒られたけどな」
「………え?」
嶋本は満面の笑みを表情が見えないさとりに向けた。
「俺はさとりを支える。俺はさとりの傍におる。離れてても、傍におる。そう、決めたんや」
「………進次」
「だから」
嶋本の伸ばされた左手は、さとりの顎に触れ、ゆっくりと押し上げる。
「前向いて、行って来い。俺のことは、帰ってきたからや。お前がしたいことを、してこいや。俺もしてるんや。俺のしたいことを」




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