護廷衆衆牢。
そこは護廷衆、世間一般に死神と称される者たちの中で、規律を犯した者が処罰が決定するまで収容される留置施設。
閉じられた黒い格子の向こうで小さな背中が一層小さく見えた。
浮竹はそれを哀れに思いつつ、声を上げる。
「………朽木」
ゆっくりと振り返り、ルキアは深々と頭を下げた。
「浮竹隊長。この度は大変なご迷惑をおかけして…申し訳ありませんでした」
「……不可抗力であった、と分かっている。異議申し立てを四十六室に行ってはいるのだ」
顔を上げれば、苦渋の表情を浮かべる上司がいて。
ルキアは静かに答えた。
「いえ。私が罪を犯したことは事実です」
「朽木……」
「私は罪を償わなくてはならないのです……今まで随分と斟酌していただき、申し訳」
「朽木!」
力強く、黒格子を握る。
ガシンと格子が音を立てれば、ルキアは穏やかな表情のまま、数回瞬きして。
「隊長……」
「お前は。死ぬ必要など、ない」
「……罪は罪、です」
危険だ。
浮竹は眉根に力を込めた。
穏やかな、ルキアの表情。
それは諦観。
既に『死』という終局を見出してしまった者の表情だった。
格子を強く握れば、ぎりりと音を立てる格子。
ルキアは穏やかな表情のまま、再び頭を垂れた。
ルキアにも、間に立ちふさがる格子にも、怒りをぶつけるわけにもいかず、浮竹は頭を下げたままルキアに目も呉れず、その場を立ち去った。
いつもは穏やかな浮竹の、しかし大きな足音が遠ざかるのを深々と頭を下げたまま聞きながら、ルキアは小さな声で呟く。
「もうしわけ、ありません……隊長………海燕どの」
勢い、長い廊下をあてどもなく歩き、浮竹は自分の頬を揺らす風に気づいて、足を止めた。
気づけば衆牢を出て、隣の建物とを繋ぐ回廊に出ていた。吹き抜けの回廊は少しばかり冷たい風を浮竹に送る。
浮竹はようやく我に返り、深い深い溜息を吐いた。
自分は自分の隊の隊士を守りたいだけだ。
唯一の血縁者であり、権力を持つはずの朽木白哉。
その手で捕縛し、連れ帰り。
尸魂界に帰って来て、言った言葉は。
『朽木家とはなんのつながりもない』
あまりにも一方的な切捨てを、しかしルキアは深々と頷いて。
ならばと、駆け込んだ玄鵬家では千早が苦渋の表情で、朽木が動かないなら玄鵬が動くわけにはいかぬと言った。
朽木が、何をしたというのだ。
ただ、人間を守りたくて自分のできることをした。
死神としてあるべき姿ではないか。
浮竹の主張は、千早の言葉で掻き消える。
「そうよ、誰もが分かってる。でも、それでも彼女は断罪されるの」
「今ごろ浮竹の奴、脳みそ、沸騰するくらい怒ってますよ。あ〜あ、いやだねぇ。それを宥めるの、どうせ俺になるんでしょ?」
京楽の言葉に、千早は小さく苦笑する。
「分かってるわね」
「分かってますよ。で、千早さんが何か企んでることも」
京楽春水は、杯を傾けながらゆっくりと千早に問い掛けた。
玄鵬邸は広い。
庭に建てられた小さな四阿。広大な池の中央にあるのは、その半地下のつくりが示すように、池の中を眺めるためでもあった。
かなり分厚い硝子が、水中と自分たちを隔てている。
千早はそっと硝子に触れる。
池の水に冷やされて、硝子はとても冷たかった。
「企んでいるのは、私じゃないわよ」
「ほう?」
「企んでいるのは……中央霊議廷の方よ」
千早の言葉に、春水が真顔になる。
ことりと音がした。
振り返れば、春水の手が杯を卓に置いた後だった。
千早は硝子に凭れながら、小さく笑った。
「興味、ある?」
「……もちろん」
「そうね。そして、今回のルキアちゃんのことも絡んでくるなら、なおのこと、ね」
一つ。
深呼吸をしてみる。
何一つ、変わっていない。
何も変わっていないのに、何かが変わっているような気がした。
理靜はゆっくりと辺りを見回し。
小さく溜息をついた。
帰ってきた。
尸魂界に。
『千早さんに、朽木さんの助命嘆願をお願いするつもりですか?』
『ええ』
『………しますかね、あの人が』
続いた喜助の言葉に、理靜は言いかけた言葉を飲み込んだ。
『助命嘆願とかの前に、千早さんならもみ消すなんて形を取らずに、完全無欠に朽木さんの罪を跡形もなく消すことなんて、容易いでしょ? なんで今回に限ってしないんですかねぇ』
『……それは』
答えることが出来なかった。
母の思いが分からない。
ただ、母が喜助の言ったとおりのことをしないには、何かわけがあるのだと思う。
思うのだが……。
不意に理靜は自分の身体が軽くなるのを感じた。
ふと二の腕を見れば、腕にあった霊印が消えているのが分かった。
理靜が尸魂界に帰ってきた理由の一つがこれだった。
『それに理靜さん、ここにいたって霊印があれば身動き取れないでしょ?』
『………今回は特に多めに入れてきたから』
一般人とは言え、霊力の強い黒崎家に入れば、双子に何か影響を与えてはいけないからと、千早の勧めでいつもより強い霊印を記していたのだ。その霊圧抑制率、9割はさすがに理靜の体力を削いだ。理靜はできるだけ気づかれないようにしていたけれども、喜助と一心には見抜かれていたのだ。
『一度帰れ。そうでないと、お前が辛いだろうが。理靜よ』
そう一心に促されたこともあって、理靜は穿界門を越えたのだ。
左手に鸞加の重みを感じて、理靜は小さく息を吐いて。
背筋を伸ばした。
母に、会う。
真意を問うために。
「中央霊議廷が妙な動き?」
京楽が眉を顰める。千早は小さく頷いて、話を続ける。
四面家、あるいは四面家につながる貴族たちによる一方的な支配を止めるために、中央霊議廷は作られた。
貴族の代表者と、瀞霊廷を囲むように存在する東西南北の流魂街地区の代表者による合議制で中央霊議廷は成立している。
貴族派と流魂派によって、中央霊議廷はいつだって対立してきた。
とはいえ千早が当主になって以降、中央霊議廷に対する介入を極力抑えてきたこともあって、現在では流魂派が攻勢を見せているのは事実だ。
中央霊議廷に属する司法機関、中央四十六室の総意も中央霊議廷に左右されやすい。よって流魂派の総意が通り易いのは事実だ。
だが、少数とはいえ貴族派もいるのだ。
大多数と少数。
数の差こそあれ、全会一致の総意など今までなきに等しかった……はずなのに。
「ここ数ヶ月の中央霊議廷の決定は、ほとんどが全会一致の総意となってる。中央四十六室も同じ……今回の断罪も同じく」
「ふむ……」
「探りを入れてみた。私が放り出したとはいえ、中央霊議廷には玄鵬一統の代表者もいる。ほら、春水も知っているでしょ。安芸津の愁壱斎どのよ」
「ああ……愁励どののおじいさま、だ」
「うん。だけど」
『連絡がつかない?』
『はい、申し訳ありません』
深々と頭を下げる農左の様子に、しかし千早は苦笑する。
『農佐が謝ることじゃないわ。だけど……』
『はい、明らかに何かがおかしいと思います』
農左に頼んでいたのは、中央霊議廷開催中は代表者たちの寝食の場所となる清浄塔居林に潜入することだった。玄鵬一統の代表者、今現在は安芸津愁壱斎、玄鵬八家の当主の一人である彼と連絡を取って貰うはずだったのだが。
「清浄塔居林は完全禁踏区域だろ?」
呆れたような京楽の言葉に、千早は胸を張って答える。
「そう決めたのは四面家よ」
「……どういう神経してるんだか」
「とにかくよ。農左が連絡とれないなんて、ありえない。まして、いざという時は私の名前を使いなさいと言っておいたし、実際そうしたそうだけど」
「……結果は思わしくなかったと」
「思わしくないなんてものじゃない」
連絡がつかなかったのは、安芸津愁壱斎だけではない。
玄鵬一統、四楓院一統、知り合いの流魂派代表者。
その数は数十人にも及ぶ。
「中央四十六室も同じ」
千早の言葉に、京楽が眉をしかめた。
「それって、つまり」
「妙な動きじゃない。動き始めているのよ。だけど、それを証明することが出来ない。だから、ルキアちゃんのこと、斥行できないのよ」
斥行。
四面家にだけ許された、中央霊議廷における決定事項に対する拒否行為。
本来なら、朽木家も斥行を持っているのだ。
「だけどねえ」
「朽木は使わないな」
京楽の言葉に、千早も頷いた。
「さて、どうする? 千早さん」
「………考えあぐねてる」
素直な答えに、京楽は小さく笑った。
「だが、時はあまりにも短いな」
「ええ。だけど、結論は急がないといけない……春水」
顔を上げれば、幼い頃からよく知る男が苦笑しながら言った。
「わかってる。まだ俺の中に留めておきますよ。だけど、結論は急いだほうがいい」
「…………ええ」
「彼女が、双極で涙を落とす前に」
「そう、ね。でも間に合わない時のことだって考えておかないと」
京楽は満面の笑みで答えた。
「そういう悪巧みは、俺の担当、ですかね」
「あ、理靜だ」
やちるの声に顔を上げれば、少し項垂れながら歩く理靜の姿が見えた。
剣八の肩の上でやちるが声を張り上げる。
「りせぇ〜!!」
「……おい、やちる。耳元でうるせえぞ」
「りせえ、りせえってば!」
「おい」
「りせい!」
声を限りに叫んでも、理靜は気づかない様子でその場を立ち去ろうとする。顔をしかめる剣八の肩から身軽く飛び降りたやちるは、瞬歩で移動し、理靜の肩に乗った。
「うわ!」
「り、せ、い〜」
「な、な……やちるか」
慌てたことでバランスを崩しかけたけれど、理靜はなんとか転倒を免れ、深く溜息をつきながら首だけ振り返り、自分の肩のやちるの向こうに近寄ってくる剣八を見つけた。
「剣八さん」
「おい、理靜。やちるが呼んでる時はさっさと返事しろや。俺の耳元でこいつががなるんだよ」
「え?」
呼んだ? と問えば、やちるは頬を膨らませて。
「え〜、あんなに大声出したのに」
「……ホントに?」
本当に気づかなかったようで、理靜は苦笑しながら謝る。剣八はそれ以上は何も語らず踵を返した。
「やちる。晩飯までには帰って来い」
「は〜い」
「理靜。やちるに菓子でも食わせろ。それから」
「え」
首だけで振り返り、口元には不敵な笑みを浮かべながら、剣八は言った。
「最近顔出してねえだろ。偶には俺の相手くらいしろや」
「あ、そうですね……」
理靜が軽く頭を下げ、顔を上げたときには剣八の姿はなかった。
小さく溜息を吐けば、肩の上のやちるが囃し立てた。
「理靜、おやつ〜」
「ああ、わかったから! で、やちる」
「ん?」
理靜は歩きながら、やちるに問う。
「朽木のルキアちゃんが捕縛された話、聞いてる?」
「朽木? 六の隊長さんじゃないよね?」
「………知らないか」
「でもでも、六の隊長さんと、赤いのが脱走? したのを捕まえに行ったのは知ってるよ〜」
理靜は一瞬足を止めるが、すぐに歩き始める。
そうだった。六番隊副隊長・阿散井恋次は少し前まで十一番隊にいた隊士だったから。
「脱走、か……」
「その子がどうかしたの?」
「……なあ、やちる。もしもだけど。僕が止むを得ない理由で、ホントは逃げてないけど、逃げたことになって。やちるが捕まえる立場になったら、どうする?」
理靜の言葉に、やちるは数回瞬きして。
「え〜」
「いや、ちゃんと考えてる?」
「う〜……」
不貞腐れたように頬を膨らませてから、やちるが言う。
「逃げてないのに、逃げた?」
「……だから悪いことしてないのに、したことになってたら。ってこと」
「う〜……」
再び唸ってみせて、やちるは瞬きと辺りに視線を泳がせるのを繰り返しながら。
「捕まえるかなぁ……う〜……でも、違うかなぁ」
真剣に答えようとする努力だけは、褒めた方がいいかな。
理靜はそう思いながら、苦笑する。
「うん、わかった。ありがと」
「う〜…」
小さく唸ってみせて、やちるが言った。
「理靜は、きっとそんなことしないと思うけどな」
「え」
「理靜はいい子だから、きっとしないよ」
笑顔で告げられて、理靜は応えを喪った。
「さて、と。俺は帰るわ」
立ち上がって、背伸びをして。
平然と告げた言葉に、喜助は小さく頷いた。
「じゃあ、一護さん、お預かりしていいんですか?」
「千早がお前さんに預けたほうがいいって思ったってことはそうなんだよ。何せ、『斬神』の言うことだ」
一心は首を左右に振って、首根から聞えてくる音に眉根をひそめた。
「……凝ったなぁ」
「鈍ってるんじゃないですか? いっそのこと、一護さんと一緒に鍛えるとか」
「冗談止してくれや」
手を振りながら、一心は不貞腐れた表情で。
「鈍っちゃいねえよ。あいつの霊圧を取り戻すにはしばらく時間がかかるだろうが」
「あ〜」
喜助も手にした扇子でパタパタと仰ぎながら、
「留守になっちゃいますか」
「あいつが嫌ならそれでいい。あいつがしたいなら、させてやってくれや。好きに、な」
「わかりました」
「お前さんたちはどうするよ」
一心がぼんやりと座っている織姫と黙然と座っているチャドに声をかけた。
我に返った織姫が、数瞬考え込み。
「えっと……」
「………一護はどうする」
低いチャドの声に、一心が応えた。
「さてな。まあ、バカムスコの考えることは熱血だから。朽木のお嬢さんを連れ戻そうとするだろな。理靜にそんなこと、言ってたみてえだし」
一心は嘆息しながら。
「だけど、あいつは鎖結をなくしたからなぁ……あれから霊圧を取り戻すにはかなりの扱きが必要だからな。俺には用事があるし、バカムスコにばっかりかまってやれねえから」
「あたしが鍛えないと、どうにもならないでしょうねぇ。尸魂界に行くにしたって」
チャドと織姫の視線が厳しくなる。
一心は言葉を続けた。
「あんたたちの能力は、あんたたちのもんだ。別に一護とおんなじことをしなくたっていいんだぜ?」
「………朽木は、俺たちにとってもクラスメイトだ」
「そうね」
「……いやだねぇ、どいつもこいつも熱血くんかい。だけどな、誰がお前さんたちに教えるんだよ? 俺はさっきも言ったけど、忙しいんだぜ? お前さんたちみたいな弟子を取る余裕なんて」
その時、静かな声が響いた。
一心と喜助にとっては聞き慣れた声。
織姫とチャドにとっては聞き慣れない声。
「わしのことを忘れておらんか」
「………あら、夜一さん。お帰りでしたか」
「なんだよ、夜一さん。いたんなら声かけてくれればいいじゃねえかよ」
前者は親しげに、後者は憮然と応えを返した。
しかし織姫とチャドは声の主を捜し求めた。
周囲を見回しても、その姿はない。
だが喜助は平然と言葉を続けた。
「久しぶりですねぇ……どこをほっつき歩いてたんですか? せっかく理靜さんも来てたのに。久しぶりに会えると思ってたのに、って言ってましたよ」
そう言いながら喜助は跪き、足元に座っていた黒猫を抱え上げた。
「夜一さん」
思わず織姫とチャドは絶句し、互いを見て、黒猫を見た。
にゃあ。
確かに猫は、鳴いた。
なのに、
「仕方なかろう。来ることを前以て儂に知らせていない、理靜が悪かろう」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題じゃ」
ふんぞり返るのは、猫らしからぬ仕草だ。
織姫は素直に表現する。
「猫なのに」
「なんじゃ、猫だったらどうした」
「喋ってる」
「喋る猫もおってもよかろう」
「………………そう?」
「うむ」
「じゃあ、いいや」
いや、よくないだろう。
チャドは内心だけでつっこんで、じっくりと喜助の腕の中の黒猫を観察する。
猫だ。
どうみても、前を横切ると不吉と言われる、全身黒毛の猫だ。
「…………黒猫だ」
「そうじゃ、どうみても黒猫じゃろうて」
「………………」
それ以上の問いかけが出来ず、チャドは言葉を飲み込んだ。
そんな二人の様子をにやにやと笑いながら見ていた一心が声を上げた。
「猫は猫でも、最強のお猫様だからなぁ。鍛えてもらうなら、いいかもしれねえな」
「え?」
「………強いのか?」
それを問うか、と黒猫はふんぞり返る。黒猫を抱えたまま、喜助が曖昧に笑った。
「まあ、夜一さんだったら……多分、大丈夫だと思いますよ」