ただいま帰りましたと、玄関で呼ばわれば。
いつもと同じように供人が笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、理靜さま。いらっしゃいませ、草鹿さま」
「ただいま………母上はいらっしゃるかな?」
庭の四阿で客を饗応しているとの応えに、理靜は小さく頷いてしかし少しだけ強い口調で言った。そのいい様に肩の上のやちるが少しだけ目を丸くした。
「話があると、伝えてくれないか?」
「しかし……」
言いよどむ供人に、理靜は重ねて言った。
「構わない。僕に無理に押し切られたと言っていいから。話があると伝えてほしい」
「……わかりました」
渋々取り次ぐと言った供人が踵を返そうとした時。
「俺も取り次いでくれ」
自分の背後から聞えた、幼ささえ感じる声に理靜は聞き覚えがあった。
「あ、ひっつんだ〜」
やちるの言葉に眉を顰めつつ、白の隊長羽織についた埃を払うような仕草をしながら、日番谷冬獅郎が供人に呼びかける。
「どうした。俺は千早に呼ばれたのだ。理靜もついでに通せばいい。俺は構わない」
「あ、はい……」
供人が素早いすり足で姿を消した後を追いかけるように、冬獅郎は玄関に上がりこんだ。
「どうした。お前の家だろうが。行くぞ」
「あ、うん」
理靜も慌てて玄関を上がった。
隊長になるまでの数ヶ月を過ごしたこともある勝手知ったる玄鵬家だ。冬獅郎は迷いも見せず、まっすぐに庭に向かう。理靜はそれを追いかけながら、
「呼ばれたって?」
「ああ。千早から急の知らせだと来たからな。ちょうど仕事も一息ついたあとだったから」
それより、と冬獅郎は自分よりも遥かに背の高い理靜を見上げながら、
「何かあったのか?」
「え?」
「随分、心許ない顔をしている」
足は止めない冬獅郎を見下ろして、理靜は自嘲するように笑った。
「ああ、そうかもしれない」
「現世へ行っていると聞いていたが。朽木家の騒動に巻き込まれたか」
「……………」
沈黙は肯定だった。
冬獅郎は理靜から視線を外し、小さく溜息をつきながら、
「理靜のことだ。朽木隊長の妹の助命嘆願でも、千早にするつもりか」
「………向こうで言われたよ。母上だったら、こんな騒動になる前に揉み消すのに、それをしないのは訳があるからだって」
「そうだろうな」
庭の中、池中の四阿へ下る階段に足をかけて、冬獅郎は振り返った。
「今度のことには、何か裏がある。それは俺も思う。もしそうだとしたら、誰が仕組んだことなんだろうな」
黙ってしまった理靜の肩からやちるが飛び降り、千早の名前を呼びながら階段を駆け下りて行った。
「それで?」
穏やかに、いつもと同じ笑顔のまま、母が続けた言葉に理靜は続ける言葉を喪った。
「それで、って……」
「つまりこういうこと? ルキアちゃんの助命嘆願を、あたしがするってことね」
「……ええ」
「肝心の白哉が何もしない、処分は中央四十六室に任せるとしたものを、玄鵬家当主が斥行しなさいって?」
にこにこと微笑みながら告げられる言葉は、辛辣だった。
理靜は眉を顰めながら、
「斥行ではなく、嘆願です」
「同じことよ。ことが重要なだけに、四十六室に一声かければ、それは斥行と同意になるわよ。あたしが当主になって以降、斥行が一度も行われていないことは理靜も知っているわよね?」
千早は耳横の牽星箝を弄りながら、しかし笑みを絶やさぬまま、
「550年、よ」
「分かってます」
背筋を伸ばし応える理靜の背中を京楽は微笑みながら、やちるは菓子を頬張りながら見つめていたが、冬獅郎は瞑目していた。
その口元は力強く結ばれている。
「分かっています。ですが、今回の事案は決して彼女の故意ではなく」
「ええ。隠密機動がすべての報告を上げてくれたわよ。能力譲渡は不可抗力と言えなくもない。能力回復を待っての原隊復帰を希望していたが、それ以上の速度で偽骸との適合率が上昇等の不幸な出来事が重なり……まあ、報告書を読めばそういう解釈を出来ないでもない…けど」
牽星箝がぶつかって僅かな金属音が響いた。
千早は深く嘆息して。
「規律は、規律といわれればそこまでなの」
「それでは!」
一瞬激しかけて、理靜は言葉を慎重に選んだ。
「母上は、玄鵬は何もしない、と仰るのですか。彼女は……黒崎家を救ったんですよ」
それは理靜にとって、最後の切り札だった。
母・千早が決して血の繋がりの濃いとはいえない黒崎一心を『兄』と呼ぶには理由がある。
ましてやその息子や娘たちをまるで我が子のように慈しみ、頻繁に黒崎家を訪れていることは玄鵬家では知らぬものはなかったし、理靜もそれを支持こそすれ、非難するつもりなどさらさらないのだ。
だがそれでも、千早の表情はほとんど変わらなかった。
「………そうなのよねぇ。ルキアちゃんがいなかったら、黒崎家は今ごろ大変だったでしょうね」
「だったら」
「だけど」
千早は静かに理靜を見上げて言った。
「だけどね、理靜。そうであっても、よ」
「………どうあっても、ですか」
「ええ」
「母上は、何を望まれているのですか」
息子の問いかけに、千早は目を細める。
珍しい。
息子がこれほど母の言葉に食い下がることなど。
だが仕方ないだろう。
人の命がかかっている。
理靜が初めて直面した、身近な人の危機だから。
千早は笑みを浮かべたまま、
「あたしの望みは一つよ」
「…………なんですか」
「玄鵬家当主として、この尸魂界を次代の霊王陛下に十全として、お渡しすることよ」
見本のような応えに、京楽が思わず手を叩いた。千早はそれに向かって軽く頭を下げる。
だが、理靜は応えず。
くるりと背を向けた。
「どこへ行くの?」
「……………」
「理靜、あなたにお願いがあるのよ。少ししなくちゃいけないことが出来たから、しばらくの間、当主代行をよろしくね。明日は一統会があるから」
「知りません」
背中を向けたまま応えて、理靜はその場を去った。
千早は苦笑しながら溜息を吐いて。
肩を竦めながら京楽に言った。
「反抗期、かしら」
「そうかもしれないねえ、あの理靜があんな態度取るなんて」
「仕方ないだろう。千早、お前が悪い」
冬獅郎がようやく目を開き、千早をまっすぐに見て。
「理靜の気持ち、汲むことは出来なかったのか」
「ん? ルキアちゃんのこと?」
「斥行まではせずとも、請求という形は取れたのではないか?」
千早は穏やかに、京楽は俯き加減に苦笑して。
「甘いよ、日番谷隊長」
「なに?」
「……今の四十六室には何を言っても通じないの。おそらく斥行しても、完全無視しても双極に送られてしまうのは間違いないのよ」
千早の言葉に冬獅郎は眉を顰める。
四面家、それも筆頭の玄鵬家当主の斥行が通じないとは。
「……どういう、ことだ」
『どうだよ』
電話がつながった途端に聞えてきた言葉に、喜助は思わず苦笑した。
「一心さん、普通は『はい、黒崎医院です』とか言うもんじゃないんですかね」
『………はい、黒崎医院です』
随分と低い声で返されて喜助の苦笑は続いた。
「心配なら、自分ですればよかったんじゃないですか? いくら千早さんから言われていても」
『……うるせえ』
くすりと笑ってから、喜助は表情を厳しくする。
「さすがというべきですかね。鎖結と魄睡、自己修復しちゃいましたよ」
『………半虚化まで行ったか』
「うちのテッサイが縛道、卍禁まで使ったんですからねぇ。それでも封殺できなかったんすから、見事な虚っぷりでしたよ」
『ふん。そういや、特盛姉ちゃんたちはどうしてる?』
織姫とチャドは、一護の意識が戻ったのを確認してから夜一に連れられて修行に向かった。喜助が時折霊査をしてみるけれど、目立った進歩はないような気がしていた。そのことを伝えると、一心からは意外な名前が出た。
『昨日なぁ、竜弦が電話してきやがった』
「へえ、竜弦さん? 久しぶりですね、あの人、滅却師やめたんじゃなかったんですか?」
『俺も聞いたよ、おんなじことを。そしたら』
息子が行方不明だ。
探してみれば、父・宗弦が修行場としていた里山で訓練に励み続けていたという。
何があったか知らんが、一応知らせておく。
俺は死神には二度と関わらん。そう決めているからな。
『……あいつらしいといえば、あいつらしいが』
「わっかりました、石田さんにも穿界門を開ける時は知らせることにしますよ」
ところで、と今度は喜助が切り出した。
「理靜さんから、連絡ありました?」
『いや、ないな。あいつのことだ。千早に噛み付いても、何せ坊ちゃんだからな。無茶苦茶に暴走はしないだろうな』
そういうところは、一護とは違うから安心できるがな。
一心の言葉に喜助も同意する。
芯の強い、青年ではある。
だが母親の育て方がよかったのか、決して母親を困らせるような行動は取らないのだ。
それゆえにかつて、千早が嘆いたことがあった。
『大人しい子に育てすぎたわ、あたし。もっと突き放せば、もっと覇気がある子に育ったかしら』
それは親の謙遜ではなかった。喜助も実質そう思っていた。
大人しすぎるのだ。
母しか知らずに育ち、決して不自由など感じないままに育ってしまった、幸せな子。
だが、言い方を変えれば不幸せな子だった。
そのことを千早は感じているけれども、理靜自身は感じていない。
だから千早は理靜を現魂界に送り出した。
少しでも『玄鵬宗家』から引き離すために。
自分が『玄鵬理靜』であることを忘れさせるために。
そうすれば、少しは何かが変わるかもしれないと、期待したのだろう。
だが、その期待とは裏腹に、大きく事態が動いてしまった。
『浦原? どうかしたか?』
「あ、いいえ。明後日には穿界門を開けますけど。本当に息子さん、送り出していいんですか?」
最終確認に、父親は笑って応えた。
『あいつが決めたことだ。あいつが行くって言うなら、そうしてやってくれ』
いつまで経っても、消えない焦燥感。
それは理靜の胸の中にくすぶり続けている。
ここ何日も、千早の当主代行で貴族の行事に参加してきた。
帰宅するたびに、千早の部屋に駆け込んだ。
ルキアのことを、何度も何度も掛け合った。
だが、母の応えはいつも同じ。
千早はいつも理靜の話を聞いてくれる。
決して中断することなく、穏やかに頷きながら聞いてくれる。
だがそれは応、ではないのだ。
柔らかく否定される。
理靜には、理解できない。
伯父一家を救ったのは、間違いなく朽木ルキアだ。
そうでなくても、彼女は間違ったことをしていないと思っている理靜にとっては、何もしない千早が信じられなかった。
とはいえ、面と向かって母を貶すことだけはしてはいけない気がして、次々に疑問を繰り出すことしかできなかったのだ。
それゆえか、理靜の焦燥感は弥増すことになる。
「なんとかしてやれんのか」
京楽と同じ内容を明かされた冬獅郎の進言を、千早は黙って首を横に振った。
「あれほど焦れば何をしでかすか、わからんぞ」
「分かってる……でも」
まだ核心に至れない、難問が残っていた。
誰かが、四十六室、そして中央霊議廷に関わっているのは分かった。
だけどそれが誰で、何が目的かわからない。
だから、これ以上誰かに進捗状態を報せるわけにはいかなかった。
「疑っているわけじゃない。でも」
「………まあ、どういう形で相手に話が漏れるか、わかったもんじゃあないからね」
春水が肩を竦める。
「理靜もそうだけど、こっちだって浮竹にもちびっとしか知らせられないから」
ルキアのことで頭に血が上っているのは理靜以上の浮竹には、春水が上手に解決策を提示させた。
もし双極で処刑されることになったなら、逃がしてやる方法を探った方が良いと。
とはいえそれは、二人の師匠でもある護廷衆総隊長・山本重國の怒りを受けかねない方法だった。
「せめて、誰が画策していれば分かればいいのだが」
冬獅郎が溜息を吐く。
その通りだった。
だが、千早もその誰かが分かるのは決して容易いとは思えなかった。
相容れることの、ないかもしれない。
理靜はゆっくりと双眸を閉じた。
傍らに置いた鸞加が理靜にしか聞こえない声を上げた。
目を閉じたまま、理靜は囁くように言った。
「鸞加」
閉じた時のように、ゆっくりと目を開ければそこにいたのは巨大な鳥。
羽根は銀に輝き、すらりと伸びた細い首、身体の割に小さな頭、双眸は蒼い。
『理靜』
声が脳裏に響いた。
蒼く輝く双眸がまっすぐに理靜を見つめる。
「鸞加、僕は君に謝らないといけない」
『…何を謝る。理靜の望みは、私の望み。私の望みは理靜の望みだ』
その言葉は、何度となく聞いた言葉だった。
まだ幼い頃に、現れた銀色に輝く鳥。
その大きな翼を広げ、理靜を覆い、守ってきた。
「うん。そうだけど。僕は……」
理靜は顔を上げた。
視線は庭を向いていた。
庭の先には、母の部屋がある。
「僕は、母上を裏切るかもしれない」
『………そうか』
「君は遺魄刀だから、母上に恩義があるなら」
『何度も言わせるな』
理靜の言葉を、自らの言葉で封じて巨大な銀の鳥が言う。
『私は理靜のもの。理靜に従いていく……あの日、お前を選んだときに決めた。それは永劫に変わらぬ』
「そう、か」
理靜はゆっくりと傍らの鸞加を握り締め、立ち上がる。
視線は母の部屋に向けられたまま。
「僕は、ルキアちゃんを、救い出す」
硬い決意の言葉。
だが、次の瞬間の出来事で尸魂界の時間が一気に流れ始めた。
ゆっくりと開いた、時空の狭間。
そこは開かれるはずのない扉。
吐き出されたのは4人の人間と一匹の猫。
書物を開く千早の手が、止まった。
西を見やって、小さく笑んだ。
「来た、ね……」
「まさか!」
見知ったその気配に、理靜は部屋から駆け出て、空を見上げた。
何も見えない。
ただ西に一護と夜一の気配を感じた。
あとの2つは一護のクラスメイトだという、少女と少年2人。
理靜はゆっくりと目を閉じる。
感覚を鋭敏に、そして一護たちのいる場所を探る。
「………西……流魂街か!」
瀞霊廷の最も奥にある玄鵬邸から一護たちの気配を感じる場所までは、理靜の瞬歩で急いでも一刻ほど。
だが理靜の迷いは一瞬だった。
手にしていた鸞加を持ち上げ、密やかに話し掛ける。
「鸞加……僕は決めたよ」
力強く鞘を握り締め、理靜は再び顔を上げた。
我が家から出ていく息子の霊圧を感じながら、千早は微笑む。
「……お前の信じる道を行きなさい…………理靜」