fragment 11





千早は冬獅郎からの急報で事態を知り、四番隊隊舎に駆け込んだ。
「どういうこと!」
「わかりません」
千早よりも早く事態に直面した卯ノ花烈は落ち着いた口調で、息を整える千早を一室に誘導した。
「どうぞ」
促されて入った部屋は少しひんやりしていて、部屋の中央に置かれた台には不自然なふくらみを覆うような白布がかけられていた。
千早はゆっくりとそれに近づき、白布を少しだけめくった。
そこにあったのは、確かに藍染惣右介の顔だった。
穏やかな、眠るような顔。
眼鏡は外されているから、いつもより若々しく見えた。
千早は深く深く嘆息して、名前を呼んだ。
「惣右介……」
決して、恵まれた人生ではなかったろう。
藍染、それは玄鵬一統の中で一二を争うほどの上流名家だった。特に従一位の八家を称して、玄鵬八家と呼ぶ。藍染家はその中でも一と称された家だったのだ。
かつては。
藍染の乱、と呼ばれる事件が起きるまでは。
それは玄鵬家『後嗣』、千早に対する暗殺未遂事件だった。
首謀者は藍染慎之介。
藍染惣右介の祖父にあたる。
それゆえに藍染家は千早が決して慎之介以外の一統に厳罰を処さなかったにも関わらず没落し、惣右介はその風貌が祖父によく似ていたことから、ひどい虐待を受けていたのだ。千早がそれを知り、真央霊術院に入学させることで藍染家から切り離すまでは流魂街に捨て子同然に捨てられたこともあったようだった。
千早自身は、藍染の乱の決着は慎之介を初めとした数名の厳罰処分で終わっている。
だが惣右介はそうではなかったろう。決して恨み言など口にしない男だった。寧ろ、拾い上げて真央霊術院に入学させてくれたことを感謝すると言っていた。
惣右介が隊長になったのも、千早の口添えなどなく実力だったのだ。だが、その出自ゆえにずいぶんと貴族たちに口さがなく皮肉られたことも千早は知っている。
祖父が孫の生涯を決めてしまったのか。
千早はゆっくりと藍染の頬に触れた。
冷たい。
「……かなりの出血があったようです。現場は血の海でした」
切切と卯ノ花が状況を語る。
発見したのは副隊長である雛森桃。
彼女の悲鳴を聞きつけたものたちが集まる中、いつものような笑みを浮かべていた市丸を錯乱した雛森が切りかかったところを、冬獅郎が留めたという。
「しかし、なぜこんなことに………玄鵬さん?」
藍染の冷たい頬に手を当てていた千早が卯ノ花の呼びかけに数瞬遅れて反応する。
「あ、ああ……ごめん」
「部屋を準備しましょうか? 葬儀を行われるなら」
「………そうね、部屋には及ばないけれど。少し騒がしくなると思うわ」
千早の言葉に頷いて、卯ノ花は部屋から出て行く。
千早は藍染の頬に手を当てたまま、藍染の静かな死に顔を見つめていた。
「なんや、千早はんも来はったん」
独特の口調。千早は振り返りもせず、応えた。
「だって玄鵬宗家が来ないわけにはいかないでしょう? 藍染家の者が死んだのに」
「まあそうやろけど。藍染の乱で放りだしても、死んだら責任持って葬儀は出すんやな」
きつい言葉に、しかし動揺をみせぬまま、千早はゆっくりと藍染の頬から手を離し。
振り返った。
「そうね。でも、藍染家に連絡しても誰も引き取りに来ないだろうから」
「ほんま、薄情もんやなぁ。貴族って」
「………そうね」
相変わらず薄ら笑いを浮かべながら、市丸は続ける。
「生きてても死んでても、自分たちの利ぃにならんのは、おってもおらんと一緒やて」
「そんなこと、あたしは望んでないって何度言ってもわからないでしょうね」
千早は今度は小さく溜息を吐いて。
「市丸隊長」
「ん?」
「少しの間、ここを頼めるかしら」
「それはかまへんけど……他の人が見たら何言うかわからへんよ? うち、藍染はんに嫌われてたから。雛森ちゃんにまでそれ、伝染しとったみたいやしね」
くくっと笑う切れ長の双眸を、千早は穏やかに見つめながら、
「本当にね。何があったのかしらね、かつては同じ隊の隊長と副隊長だったはずなのにね」
「ほんまや、まあ…最後のお勤めや思うて、おらせてもらいますわ」
「うん」
足早に部屋を出ながら、千早はちらりと市丸を見た。
市丸も静かに千早を見返す。
「いってらっしゃい」
「……お願いね」
一人、部屋に取り残されて市丸は藍染の遺体に近づきながら、小さな声で囁いた。
誰にも聞えないほどの、小さな囁き。
「なんや、気づきはったかなぁ…まあ、そんなことないやろ」
千早が覆い忘れた白布をゆっくりと藍染の顔にかけてやる。
「なあ、藍染はん」






瞬歩で駆けながら、千早は呼ぶ。
「聳弧」
「…なんだ」
「この前、極戎庫で妙なことを言っていた子がいたわね」
請われて人型を見せて、蒼い男は小首を傾げながら答えを返す。
「湛泡(たんほう)、だったな」
「あの子の能力、覚えている?」
「能力? 水と泡により撹乱させる能力だったと思うが」
「そう、そうよね……確か」
聳弧は瞬歩のスピードを落とさない千早について行くが、続いた言葉に思わず絶句して立ち止まりかけた。
「なん、だと」
「だから、遺魄刀同士が意識を共有することがあるなら、遺魄刀と斬魄刀の意識共有があってもおかしくないって言ったの」
極戎庫は遺魄刀のよりよい維持のために非常に霊子濃度が高い。霊子結合から生まれた遺魄刀は望めば自分の意志を千早に伝え易くなっている。聳弧が極戎庫の遺魄刀を『姦しい』と貶した理由もここにある。
だが極戎庫を出れば、遺魄刀は自らの意思を外に出すことは少ない。
まして、能力の高い遺魄刀同士でもだ。
だが千早が言うのは。
「…つまりこういうことか。能力が非常に高い斬魄刀が遺魄刀とつながったと?」
「意図的じゃないと思うわ」
何を根拠に問う聳弧に、千早は瞬歩のスピードを落としながら言った。
「偶然よ。そしてその偶然の相手が湛泡だっただけ」
玄鵬家の門が見えた。千早はゆっくりと地上に足を下ろしながら、いまだ中空に浮いたままの聳弧に告げた。
「聳弧。惣右介の斬魄刀、鏡花水月の能力を知っている?」
「………………いや」
「流水系の斬魄刀で、霧と水流の乱反射により敵を撹乱させ同士討ちにさせる能力があるのよ」
愕然とする聳弧。
千早は深く溜息をついて、踵を返し門をくぐる。
「これはどういうことなのかしらね…」






千早の手の中。
藍染の遺体から感じられるのは、その悲しい冷たさだけのはずだったのに。
かすかに感じたのは斬魄刀の、気配。






尸魂界の至宝を守護するのは、四面家でも四楓院家の役目だ。四楓院家の宝物庫は百を数え、厳重な警備がしかれ、隠密機動も元はその警備を行うための部署だったのだという。
だがそんな至宝の中で、斬魄刀、遺魄刀だけは玄鵬家が守護することと、昔から決まっていた。
その理由の一は、玄鵬家が剣戟を得意とする一統であったことなのだが、知る者がほとんどいない一番の理由は玄鵬家の当主、あるいは当主に近しい者だけが遺魄刀の声を聞くことができるからなのだ。
正確には違う。
玄鵬家の当主となれる資格の一つに、他者の斬魄刀の声を聞く能力を有することなのだが、この能力を千早が持っていることを知っているのはおそらく数名。
藍染の遺体の中から感じた斬魄刀の気配は、本当に小さな声で囁いていた。
『我が名は、藍染惣右介……』
思わず手元を確認した千早だった。
だが自分の傍にあるのは斬魄刀ではない。
藍染の遺体だったのだ。
そしてふと思い出したのだ。藍染惣右介の斬魄刀。銘は鏡花水月。その能力は水の乱反射による撹乱。実際千早も鏡花水月が水によって虚を翻弄するのを見ていたし、信じて疑わなかった。
もし、その能力が偽られたものだったら?
斬魄刀の能力など、その主の言葉でどうとでも説明できる。そしてそれを他者が証明することは非常に難しいのだ。
今の護廷衆の中でも、少しばかり斬魄刀の能力を偽っている死神はいる。だが、それは些細なことでありわざわざ公然と偽りを否定することもないと、千早は放置している。
だが、藍染の斬魄刀には気づかなかった。
そして聳弧によってもたらされた情報。
銀の鬣を持つ湛泡。
水と泡により撹乱させる能力。
だが、湛泡のもう一つの能力を千早は知っている。
泡による催眠効果。
湛泡の主は、四番隊隊長を務めた死神だった。痛みに苦しむ隊士のためにその能力が使うことがあったと、千早は湛泡から聞いたことがあった。だから覚えていたのだ。その能力は遺魄刀の能力を記された正式な書類には書かれていない。もし、催眠効果を持つ斬魄刀を持つことが分かったときの万が一の反応を主は恐れたのだと。
「もし、同じ状況だったらどうする?」
「……それはあくまで仮定の話だ。だがあれが卍解をしてみせた時、我も千早とともに見たぞ」
「そう、ね。見事にだまされたというべきでしょう……」
千早は深く溜息を吐きながら、足を止めた。
「…千早」
「もし。あれが惣右介じゃないとして。惣右介はどこにいる?」
「死んでいないなら、だが」
千早は左の人差し指を爪先だけ咥えて、しばし動かなくなる。聳弧は大人しく待った。それは千早の沈思のポーズであることを知っていたからだ。
「一人? いいえ、そうじゃない。一人じゃないなら……もしも催眠効果が高いなら……」
やがて、千早は顔を上げた。
そして徐に言う。
「護廷衆に、惣右介につながる者がいるわ」






「よう、起きたか」
問われて、理靜は頭を下げた。
「お邪魔しました」
「かまわねえ」
あっさりと応えられて、理靜は言葉を選ぶ。
「あの、夕べの話ですけど」
「あ? ああ、お前に手ぇ貸せって話だったな」
見慣れない下ろした髪を、失礼にならないようにこっそりと見ながら理靜が言う。
「お願いできませんか」
昨夜遅く、隊舎に現れた理靜は突然切り出したのだ。
懺罪宮に侵入したい。罪人を一人、連れ出したいのだと。
「さてな、ここで応とこたえれば、面白いことになるのは間違いねえんだけどな」
ぽりぽりと頭を掻いて、剣八はにやりと笑う。
理靜はまっすぐに剣八を見つめて、
「面白いこと、ですか」
「お前が知らねえはずがねえだろうが」
そうだ。
剣八が何かをするときの基準は、面白いか、面白くないか。
幼い頃から剣八を知っている理靜は、それを分かってはいるけれど、普通とは違う基準に改めて溜息を吐いた。
理靜が十一番隊隊舎に出入りするようになったのも、もとはといえば千早の一言だった。
『この子、見込みあるわよ。筋がいいもの。さすがあたしの子だわね』
母直々に剣戟を習い始めて、まだ幾分もたっていなかった頃だ。
『へえ、斬神千早の後を継ぐかよ。面白え、うちへ遊びに来いや』
剣戟習熟を家風とする玄鵬家で、なかでも千早は代々の当主の中でも一二を争うほどの剄さ故に『玄鵬に斬神千早、四楓院に瞬神夜一』と称される。今でも時折、『斬神』の名前を呼ぶ者がいる。
強さを求めること、人より強い剣八は、理靜が生まれる前から何かにつけて千早と剣を交え、いや寧ろ、千早の強さを求めることが剣八と千早の出会いを生み、いまだ続く交流の端緒となったのだと、理靜は千早から聞いていた。
だから出稽古ではないけれど、隊舎の道場に出かけて、剣八を初めとする十一番隊の隊士と稽古をすることも結構あったのだ。
だからこそ剣八の剄さを知っているし、その興味を惹かれる基準も身にしみて知っているはずだった。
「………分かっています」
「わかってんだったら、なおさらじゃねえか」
ふんと、剣八は鼻で笑って。
「お前の話は、だけどなぁ、いまいち面白さに欠けるんだ」
瀞霊廷内を一人で動くのは、むしろ問題ないだろう。
だが、あくまで味方のいない、一人だ。
どこかで理靜のためではなく、侵入してくる四人のために救援が必要になった時のことを考えれば、やはり助け手が必要だった。
そのために、理靜は考えたのだ。
護廷衆を一隊まるごと、動かせればいい。
だが、理靜の知る隊長格の中で、理靜の要望に応えてくれそうな人間は四人。
京楽春水、日番谷冬獅郎、更木剣八、浮竹十四郎。
だが母の所にいたことで、京楽、冬獅郎、浮竹の3名はおそらく協力を断るだろうと、理靜は思った。
それでも、理靜が生まれたときから兄のように可愛がってくれる冬獅郎は協力をかなり考えるだろうとは思ったけれど、隊士のことを大事に考える冬獅郎が悩みに悩むだろうことを思えば、そんな提案を持ち込んではならない、そんな気がした。
だからこそ、理靜には選択肢がなかったのだ。
だから、引き下がるわけにはいかない。
「まあ、もうちっとおもしれえ話になってくりゃ、いいけどなぁ」
ぽりぽりと項をかきながら、剣八はちらりと理靜を見た。
控えめな理靜の視線と絡んだ。
「……侵入するのは、僕だけじゃありません」
「へえ?」
理靜は一瞬口篭もって。
「旅禍たちが、彼女を助けに来ます」
剣八も一瞬黙り込んだ。
「……理靜、おめえ」
「助けたいんです、僕は。彼女は、ルキアちゃんは悪いことなどしていないのに」
「随分勝手な論理じゃねえかよ。まったく……」
珍しく溜息を吐いて。
剣八は呟くように言った。
「相変わらず、甘っちょれえな。玄鵬家の跡取息子は」
「甘くても構いません。僕は彼女に選んで欲しいだけです」
「選ぶ? 何をだ」
今度は遠慮ないまっすぐな視線を剣八に向けて、理靜は凛として言う。
「どう生きるか。誰かのために生きるのではなく、自分がどう生きたいかを選んで欲しいだけです」






それはルキアに向けた言葉というより。
理靜自身に向けられた言葉だった。
唯々諾々と母の言葉に従ってきた人生ではない。
促されるまま、手を引かれるまま今あるわけではないことぐらい、理靜も分かっている。
だが、父を知らぬ故に、『片翼』と卑下されても、結局は『玄鵬の総領息子』という血統故に、理靜を謂われなく卑下する者たちは自己完結するのだ。
理靜の中では何一つ解決していないのに。
静かなる湖に、一つ石を投げるがごとくに。
波紋は広がり続ける。
決して、自然には消えないのだ。
母に不満などない。
不満は、自分の中にある。
自分に向けられる不満だ。
よりよく、生きたい。
それゆえに、自分は何が出来て、何をしたいのか。
今の理靜は、ルキアと自分が重なって見えた。






「私は、ここで死ぬべきです」
ゆっくりと告げられた言葉に、理靜は目を細めた。
懺罪宮。
理靜を玄鵬家の者だと分かった監視人たちは、黙って理靜を懺罪宮へ入れてくれた。
格子越しに見たルキアの背中は随分と小さく見えた。
「ルキアちゃん」
「私は罪を犯したんです……今回のことだけでなく」
「海燕さんの話なら、君は間違ってない」
その名前に一瞬身体が揺れたけれど。
「…………いいえ。私は死して詫びねばなりませんから」
そうして、ルキアは決して理靜に振り返ることなく。
理靜はルキアの背中に静かに言う。
「君は、どうしたいの?」
「……私は」






私は。
ここで、死して多くの方々に詫びるのです。






それは、悲しい、だが決して選ばれた選択肢ではなかったはずなのだ。
だからこそ、理靜は思う。
強要された場所ではなく、ルキアが自由に感じる場所でこそ、生きる意味と理由を探し、選択すべきなのだと。






「お前なぁ……」
「旅禍の中に、一人、剄い子がいます」
剣八の顔色が変わった。
「剄いのか」
「朽木隊長に鎖結と魄睡を破壊されて、自己修復したそうです」
「ほお」
理靜の言葉に、剣八はにやりと笑った。
「面白えじゃねえかよ。で、そいつの名前は」
「……黒崎一護」






そして世界は動き出す。
四つに別れた流れ星を見上げながら、理靜は小さな声で呟いた。
「これから、だ」






窓際に立てば、男の視界にも四に別たれた流れ星が見えた。
口の端に、僅かに笑みを浮かべて男は呟く。
「これから、だな」
その声は誰にも届かない。






尸魂界が、動き始めた。



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