fragment 12





「屋形さま!」
呼ばわりに振り返れば、珍しく農左が慌てたようで駆けて来るのが見えた。
千早は目を細めて、問い掛ける。
「何事? 農左」
「…見苦しいところをお見せしました」
素早く縁側で服装を整えながら正座する老執事を、しかし千早は急がせるようなことはしなかった。
息を整える老人がようやく口を開く。
「安芸津の愁壱斎どのと連絡が」
安芸津とは玄鵬八家の一つ、その当主たる愁壱斎は中央霊議廷の議員の中でもっとも玄鵬家に近い存在であり、ここ数週間、千早が連絡を取りたくても取ることが叶わなかった相手だ。
千早の表情が険しくなる。農左は小さく頷いて続けた。
「清浄塔巨林の最奥からの通信です。微弱なもので、判読するのに時間がかかりました」
「内容は?」
「はい、ここに」
農左が差し出す紙を受け取り、千早はゆっくりと広げた。
次第に目が細くなり、左手の人差し指が口元に運ばれる。
「………………この内容を知っているのは?」
「私と朝居、それから受信した隠密機動の通信士です。これは朝居の従弟とかで、こちらに留め置いております」
「わかった。そのまま、朝居に身柄管理を任せて」
矢継ぎ早に指示を出しながら、千早は庭から縁側、廊下、そして居室に進む。農左もそれに従いながら、附いて行く。
「これによれば、他にも数名いるわけね」
「はい。ですが、誰による指示かは明記されていません」
千早は溜息を手元の紙に落とす。
我ら、虜囚の身。
中央霊議廷、常にあらざるや。
それは中央霊議廷議員の、必死の叫び。
「………農左」
「はい」
「玄鵬私軍で隠密機動と同等に動けるのはどれほどいる?」
「第一大隊の先肩、二個小隊といったところでしょうか」
「……準備にどれほどかかる?」
千早の言葉に一瞬言葉を止めた農左は、しかしすぐに答えを見出した。
「一刻もあれば」
「わかった」
足を止めない千早の後姿に農左は問い掛けた。
「何をなさります」
「炙り出すのよ。死んだはずの亡霊を、ね」
千早は首だけで振り返り、微笑んだ。
「こんなこと、誰が思いついたのかな」
「……」
「うん。わかってる」
千早は背筋を伸ばして、髪をゆるく結ぶ髪紐を解いた。
腰を遥かに越える豊かな髪がさらりと落ちる。
「だけど、これはあたしから始まったこと……そんな気がする」
蘇る記憶。
遡る感覚。
刺さるようにさえ感じた、痛々しい視線。
『僕は、なぜ、生まれたの?』
問い掛けられても、答えなどないのに。
窶れ、こけた頬に伝う涙を千早は拭ってやることしかできなくて。
だけど、それ以上のことなんて、何が出来たのだろう。
何度思い返しても、思い至れなくて。
後悔という痛みとともに思い出す、記憶と感覚だった。
「農左」
「はい」
「………これからしてもらうこと。もしかしたら、たくさん人が死ぬかもしれない」
一瞬瞠目した老人は、ゆっくりと問い掛けた。
「何のため、でしょうか」
「続く時代のため。尸魂界のため」
「ならば、お気に留めてはなりませぬ」
再び振り返れば、老人は微笑みながら、自分より遥かに若い女主人に言った。
「千早さま。あなたは為さねばならぬのでしょう。瑣末なことに気を向けてはなりませぬ。ただ一事にお向かいください」
千早は再び微笑んだ。
「……やっぱり農左は残酷だね」
「玄鵬家別当として、補佐を長らくしてきた老人の、わずかばかりの忠告ですかな」
父の跡を襲ったばかりの幼い娘に、農左は語った。
自分の手足となって死ぬ者の最後は見ても、それはそこまでのこと。
哀しみ暮れるのは、家族の役目。
主の役目ではない、と。
その頃の千早は、多くを失い、頼るべき父すら病床にあった。
心細い千早を農左は、決して手厚く扱わなかった。それは理由があったのだが、幼い傷心の千早には、敵も農左も同じにさえ見えたのだ。
「そうね。農左の言葉は半分当たってる」
羽織の紐を解きながら、千早は言った。
「ここで立ち止まっていても、何も始まらない。ううん、喪うもののほうが遥かに大きい」
「……」
「だけどね、農左」
脱いだ羽織を農左に渡しながら千早は微笑んだ。
「立ち止まったとき、後ろを振り返っても誰の笑顔もないのよ。それはとても悲しいわよ……」
理靜さまは、それでもあなたを非難なさりませんよ。
老人の言葉に、千早は微笑んだまま、居室に入っていった。






「交代しまひょ、東仙はん」
呼びかけられて、盲目の男は無言のまま立ち上がった。
「どうですか、上手いこといってる?」
「………貴様にはそう見えるのか」
憮然とした答えに、市丸ギンは小さく笑った。
「いややわ、答え分かっててても、社交辞令? 聞くのが礼儀やないの」
「ここでそれが必要か」
東仙は見えないまま、顎でしゃくってみせた。
見るべきものを。
中央霊議廷、大議場。
朗々と響くのは、論議すべき案件を読み上げる議員の声。
東仙と市丸がいる場所は幾分高い場所で、読み上げる議員の顔まで分からないが、擂鉢状の議場の最も低い場所に置かれた巨大な椅子、そこに座る男の姿はしっかりと見えた。
市丸が小さく呟いた。
「うわ、あんなとこに座ってはるやん」
「あそこが指示が出しやすいそうだ」
東仙が静かに言った。
市丸は肩を竦めて、椅子から立ち上がり身を乗り出して、男に軽く手を振れば、中央の椅子に座った男が気づいて、手を上げた。
立ち上がり、次の瞬間には二人の横に立つ。
「ギン、どうした」
「え? そろそろ交代した方がいいんとちゃうかなぁって。上のほうでは旅禍が賑やかやし。なんや、玄鵬さんところも動き出したみたいやし」
玄鵬の名前に、男は眉を顰めた。
「まあ、気づかれたとは思えないが」
「悠長やなぁ」
ギンはゆっくりとその名前を呼んだ。
「藍染、はん」
藍染惣右介。
死んだはずの男は、小さく微笑んで。
「もう引き返せないところまで来てしまったからね。ほら」
視線で促されて、ギンは大議場を再び見下ろせば。
さきほど何かを読み上げていた男が再び声を張り上げている。
耳を澄ませば、中央四十六室に懺罪宮に留置されている極囚の即時処刑を促す議決を採ろうとしていた。
「うわ、えげつな」
「そうかな」
かつて、隊長格の中でもっとも温厚でもっとも理性的だといわれたその微笑で、藍染惣右介は告げる。
「朽木ルキアを、一刻も早く処刑してしまったほうが、都合がいいのだけれどね」






「まったく、どうしてよりによって貴方なんですか!」
「ふん、減らず口を叩くようになったか、わッぱ」
見つけたのは、小さな黒猫一匹。
とはいえ、その正体を知る理靜はがっくりと力を落とした。
そして剣八との戦いで傷ついた一護を、秘密の隠れ場で訓練を施していることを聞いて安心したのも束の間だった。
帰ってきた答えに憤る。
「どうせ、あなたに比べたら子どもですよ、僕は!」
「まあ仕方ないの。年齢だけはいつまで経っても追いつけるものではないからの」
当たり前のことを言ってみせて、夜一は身軽く理靜の肩に乗った。
「さて、相変わらず霊査が得意ではないのか」
「…………母上ほどは」
なぜか、そこだけは母に似なかった。
現世に下りれば、一護たち旅禍の霊圧は明らかに他者と違うために見分け易いが、尸魂界では一護たちの霊圧を探し当てるまでに隊長格など多くの霊圧を認識しなくてはいけない。熟練した霊査者ならともかく、霊査を苦手とする理靜には無理だった。
「そういう夜一さんはわかるんですか」
黒猫は理靜の肩の上でふふんと鼻を鳴らしてみせて。
「わしを誰じゃと思うておる」
「正一位四楓院家当主、夜一どのですよ。なんなら明確な年齢を数えてみましょうか? 十指どころか足指入れても、足りません。指一本に二十をかけるか、三十をかけるかまでは追及しませんけど」
「…………そういうところは千早似じゃわ」
夜一はちらりと辺りを見回して、
「まあ、こんな状態では誰が誰だか、わしでもわからぬわ」
「そうでしょう?」
「何を胸を張る。考えてもみんか、わしは百年、尸魂界とはご無沙汰なんじゃぞ。知らぬ霊圧も山ほどあるわ……お、これは京楽か。相変わらずじゃの……理靜、京楽のところじゃ」
理靜はその整いすぎた容貌を幾分歪めて、
「……春水さんですか」
「京楽のところに、チャドがおるわ」
その言葉に、理靜の表情が変わった。それに気づかないまま、夜一が揶揄する。
「行きたくないか、京楽のところなど」
「行きますよ」
理靜は小さな声で言った。
「つかまって……ああ、面倒ですね。懐、入っちゃってくださいよ。その方がよほど動けるから」
黒猫が素早く懐に入り込んだ刹那だった。
一瞬にして、世界が高速で動いた。
懐に入り込み、小さく丸くなった夜一が呟く。
「ふむ、さすがというべきかの。これほど見事に瞬歩を使いこなせるようになるとはの」
「舌、噛みますよ」
理靜の言葉に、夜一は猫語で答えた。






もう何年も、この衣装の袖を通していなかった。
だが、袖を通すだけで。
背筋が伸びる思いがした。
かつて、この衣装の上に重ねていた羽織。
もう着る事は無いと、心定めて山本総隊長に送り返した、十の字が入った羽織。
隊長羽織を、自ら育て上げた冬獅郎に新しく新調したとき、自分が冬獅郎に告げた言葉。
自分のためだけでなく。
守りたい者を守れる、身体の強さを。
心の強さを。
常に心にとめておくこと。
今日、もしかしたら、その言葉の本当の意味を、自分は知るのかもしれない。
千早はそう思った。
そして。
背中に感じた気配に、振り返る。
そこに現れた、幻像の男。
小さく、名前を呼んだ。
「ザンゲツ?」
『千早』
もう何年も聞いていなかった、男の声だった。
サングラスをかけ、乱れに任せた姿。
『千早。聞えるか。私はここにいる。尸魂界にいる。あいつは選んだ。私を、世界を。自分の生き死によりも、守ることを』
「それって……」
千早は思い至り、瞠目する。
『私はあいつとともに、進むことにする。立ち止まることは、もうない。新たな、輝きを私は、得た』
そして幻像はゆっくりと、消えていく。
「ザンゲツ……」
項垂れた千早の口元には、しかし笑みが浮かんでいて。
「…そう、ザンゲツも選んだのね。そして、ようやく…」
その時が、来た。
待ち望み、その一方で来なければよいと思っていた、その時。
新たな、導き手。
新たな、世界の、導き手が生まれたのだ。
「霊王陛下、更臨された、か…」
千早は微笑みながら、部屋の障子を開けた。






「お静まりくだされ」
どよめきの中、静かに告げられた農左の言葉に、その広間に集められた全員がぴたりと黙り込んだ。
「坂城どの、仮にも我らは玄鵬八家と称される家。我らを呼応し、それでも屋形どのが姿を見せぬとは何事か」
ゆったりとした、しかし確かにそれは叱責だった。
正一位の称号を持つ玄鵬家の分家として栄え、中でも続く従一位の称号を持つ八家統を総じて玄鵬八家と呼ぶ。
農左は千早の命で玄鵬八家の当主たちを集めたのだ。当主たちを呼集すれば、必然的にその分家たちも一緒に集まるため、広間は玄鵬一統を示す黒い紗の羽織をまとうものたちで埋め尽くされている。
とはいえ、千早の姿がないこと、それ以上何も告げられないことに、八家の当主たちは苛立ちを隠さない。
「屋形どのは支度の最中にて。こののち、皆様にご挨拶ののち、赴く場所があると」
「なんと」
「八家をさしおいて、とはいかなる所業か」
非難の声を再び静めようとした農左は、しかし顔をあげて、遅れて現れた人物を見つけて鷹揚に頷いた。
「これはこれは、遵凍どの」
「遅参したわ。千早も急な呼応とは、俺の身体に優しくないことをする」
彼の声が聞えれば、広間に狭しと座る玄鵬一統が、心得たように農左までの道を開いた。
決して早いとはいえない歩調で、男が農左のもとで進み、ゆっくりと膝を折って座ろうとするのを見て、農左が声を上げる。
「遵凍どの。椅子を」
「構わぬ、屋形さまが俺にまで呼応をかけたというのなら、至極大事なことだろうが。椅子に座って悠長に聞けるか」
先ほどまで苦情を申し立てていた一統が口をつぐんだ。
体躯は恵まれており、見事に鍛え上げられた肉体は、しかし軽やかとはいえない様子で広間に座った。
彼の名は、京楽遵凍。春水の長兄にして、現在の玄鵬八家の筆頭、京楽家の当主を務める。
そしてかつては、千早の幼馴染、知音として傍に仕えていた。
だが事故のため、左足が義足である。それ故に、玄鵬八家の集会にもほとんど姿を見せることもないのだが、そんな遵凍ですら、顔を見せたのだ。
この広間で何かがあるのだ。
玄鵬八家の誰もがようやくそれに気づいた。
「さて、農左。お前が知りうるべきことだけでよい。正確であれば、なおのことだ」
弟の春水よりいくらか精悍に見える遵凍は、義足の左足を投げ出して胡座をかきながら、顔をあげた。
「語るべきことを、語れ」
「ならば」
軽く一礼した農左が小さく咳ぶいて。
「屋形さまより、命を受けております。玄鵬八家を初めとする皆様に、このたびの事態をもって、玄鵬家が取るべき道を定めた旨、お伝えするように、主、玄鵬千早より承っております」
続いて深々と一礼し、続いて告げられた言葉に、広間は静まり返った。
与えられた衝撃から、最初に立ち直ったのは、遵凍だった。
「………農左」
「はい」
「それは………ち…屋形さまの真意か」
「無論」
農左は再び繰り返した。
「玄鵬家は中央霊議廷、ならびに中央四十六室に与えた統帥代理権の行使力を否定し、これを剥奪。護廷衆の玄鵬家の帰属と、四楓院家の代行者として鬼道衆、隠密機動の四楓院家帰属を宣言します」
静まり返った広間に、やがて響いたのは小さな笑い。
誰もがその笑いの主を探したが、主は隠れもしなかった。
遵凍はくつくつと笑いながら、農左を見つめる。
「随分と。随分と思い切った策を取ったな。千早らしからぬと言うべきか…」
「遵凍どの」
「あれが動く時には、必ず理由と練りに練った策があるはずだ。あれは、千早は今どこにいる」
あまりにも親しげな呼びかけに、黙っていた玄鵬八家の当主の一人が声を上げた。
「京楽どの。いくら知音とはいえ、屋形さまに対して無礼な物言いは差し控えられた」
「そういうことに気をかけている場合か?」
ぎろりと睨まれて、当主の一人は言葉を飲んだ。
「おい、皆の衆。わかっているか? 千早が統帥代理権の剥奪ってことは、玄鵬家は場合によっちゃあ中央霊議廷に反逆者一統って烙印を押されることだってありうる。中央霊議廷ははいそうですかと、護廷衆鬼道衆、隠密機動を返すと本気で思ってんのかよ」
「………確かにそうだが」
言い返した当主の一人は、すぐに顔色を変えて。
「だが、玄鵬家ですぞ。次代霊王の出自を約束された」
「霊王の芽を絶ったとでも、理由はいくらでもこじつけられる」
貴族だから、と安穏な生活が一生約束されているほど、俺たちは恵まれているのか?
問い掛けられては、答えもなかった。
尸魂界に貴族という存在は、しかし起こるべくして起きた。
霊王の代理を務める四面家。
霊力の強い者こそが、持たぬ魂魄の行く末を決めてきた。
貴族が為政者であって、流魂街に住まう者たちは支配される者でありつづけてきたけれど。
中央霊議廷が遵凍の言うようなことを行えば、その図式は根底から崩れる。
実際、中央霊議廷の大多数は流魂街の各地区代表者であり、それを許してきたのが玄鵬家であり、千早であったことを広間の誰もが思い出していた。
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