「遵凍の言うとおり」
凛とした声が、広間の思い空気を切り裂くように聞えてきて。
誰もが救われたような表情で顔をあげた。
広間の入り口、供人たちが開いた扉からゆったりと入ってきたのは、千早だった。
その姿を見て、広間のあちこちからどよめきが聞える。
「なんと」
「あの装束は」
「玄鵬だけでなく、四面家すべてにふりかかった災厄だわね。今度のことは。だから私は動きます。次代の霊王に、十全な尸魂界をお渡しするために」
普段は耳横で二束ほど残した髪に牽星箝をつけ、残った髪は高く結い上げ、それでも薄茶の長い髪を背中に流している千早の髪型は、牽星箝を外し、背中にひとまとめにして黒い布帛できつく何度も巻き上げている。
何よりも久方ぶりに見たその装束に、遵凍は目を細めた。
黒い上衣、黒い袴。襟元に見える下衣の重は、絹白と蘇芳。
「死覇装、か」
「ええ。いつもの格好では、動きにくいから」
静かに答えた千早は、再び遵凍に言う。
「どこまで農左は語ったの?」
「中央霊議廷に喧嘩を売る話」
「そう」
千早は小さく息を吐いて、顔をあげた。
見渡せば、救いを求める顔が広間中にあった。
答えを。
いまや尸魂界にたった二人しかいない、四面家当主の一人として、広間に集まった貴族たちに行く末を導かなければならない。
千早は深く息を吐いて。
「皆、よく聞きなさい。5代霊王陛下が更臨されました」
告げられた言葉と意味を理解するのに、遵凍ですら数瞬要した。
千早は言葉を続けた。
「よって玄鵬家は、準備を十全に整えておかなくてはなりません。しかるに、中央霊議廷が霊王陛下に粛々としてその統帥代理権を返還できるかといえば、ここ数週間の混乱をもってして明々白々」
千早は辺りを見回す。
呆気にとられている顔が8割。
明確に聞き取ろうと、意識を集中している顔を覚えようとした。
状況の変化に順応できるもの。
それが今、必要な『駒』だから。
「中央霊議廷、ならびに中央四十六室に与えた統帥代理権の行使力を否定し、これを剥奪する。護廷衆の玄鵬家の帰属と、四楓院家の代行者として鬼道衆、隠密機動の四楓院家帰属を宣言すると同時に」
千早の表情が一瞬にして険しくなる。
「玄鵬私軍をもって、中央霊議廷に侵入。中央霊議廷にあって、混乱の真因となっている者を、玄鵬家当主としてこれを排除する」
「おいおい、千早」
遵凍の言葉を取り消そうとするものはいなかった。
砕けた口調のまま、遵凍が続けた。
「つまり明確に、誰が混乱させているのか、分かっているっていうのか」
「ええ」
千早は遵凍を見下ろしながら、しかし広間に響き渡る声で告げる。
「護廷衆5番隊隊長、藍染惣右介を筆頭とする一味というべきかしら」
空気が凍る。
静まり返った広間は、一層冴え冴えとしているように、思えた。
遵凍がようやくの体で、言葉を紡ぐ。
「藍染、だと?」
その名を知らぬ者など、この広間にはいない。
かつて、玄鵬家の行く末を案ずるという憂国の表向きを以ってして、玄鵬宗家嗣の姫を弑しようとした玄鵬八家筆頭。
藍染家。
そしてその当主であった玄鵬慎之介。
弑されそうになった嗣の姫こそ、広間の中央に立つ玄鵬千早だった。
玄鵬一統にあって、『藍染』の名はいまだ禁忌に近い。
嗣の姫であった千早が当主になったのち、没落した藍染家を救い、また虐待されていた藍染惣右介を保護したのちも、『藍染』の名は、口に出すのも憚られてきた。
「だが、なぜだ。藍染惣右介といえば」
続く言葉を、千早は首を振って留めた。
「理由はわからないけれど、事実は事実です。安芸津の愁壱斎どのが自らと、何名かの議員が幽閉されていることを知らせて来ています。くわえてこちらの調査で、死亡とされたはずの藍染惣右介が中央霊議廷、ならびに清浄塔巨林に潜伏していることが確認できています」
「中央霊議廷の混乱が、藍染の目的なのか」
「遵凍。それは現状でしかありません。目的、理由、ありとあらゆるものが不明です」
よって。
千早は胸を張った。
「二個小隊は既に先遣隊として侵入を試みている。一個大隊をもって、中央霊議廷ならびに中央四十六室の開放、愁壱斎どのをはじめとした議員の解放を第一として行動を起こす。指揮は私が取る」
「……それゆえの、その死覇装か」
遵凍がゆっくりと身体を起こし。
千早は黙然と遵凍の様子を見つめていて。
遵凍は義足の左足を折り、右足を膝立て、背筋を伸ばした。
左手を握り締め、床につけて。
ゆっくりと頭を垂れる。
「我らは、玄鵬一統。玄鵬家の御心のままに。京楽遵凍、ここに臥します」
それは尸魂界で行われる最敬礼。
沈黙は、一瞬だった。
遵凍の周りに座っていた玄鵬八家の当主たちも、それぞれに居住いを正し、遵凍に続く。
さまざまな口上とともにゆっくりと波が広がるように敬礼が行われていく。
いくばくかそれを見ていた千早が頭を下げたままの遵凍に声をかけた。
「遵凍」
珍しい呼びかけに、遵凍はゆっくりと顔を上げる。
千早はいつもと何一つ変わらない、穏やかな表情で告げる。
「頼みがあります」
「…何なりと。屋形さま」
「玄鵬八家筆頭として、ここに残り、玄鵬私軍をまとめてください」
しかし遵凍は眉を顰めた。
「理靜どのはいかがした」
千早は一瞬言葉を選んだ。
少なくとも遵凍にはそう見えた。
「理靜は、戦っているんですよ。あの子はあの子なりに」
その理靜と対峙していたのは、遵凍の弟、春水だった。
「よいしょと」
理靜がたどり着いた時、その場所での戦闘は終わっていた。
「あれ、理靜くん? どうしたの?」
いつものとおり、飄々とした様子で京楽が声を上げる。
険しい表情を浮かべたまま、理靜は低く構えた。
その左手は腰に佩いた鸞加に添えたまま、静かに問う。
「それ。春水さんがやったんですか」
「ん?」
肩に担ぎ上げた大男をさす言葉だと、春水は数瞬考えて思い至る。
「あ〜、チャドくんのこと?」
「あなたが、やったんですか」
「やったって」
「玄鵬どのといえども、失礼でしょう」
凛とした声を上げるのは、傍らに立つ伊勢七緒副隊長だった。
眼鏡の位置を直して、いまだ低い姿勢のままの理靜に厳しく言った。
「この旅禍は、京楽隊長が投降を呼びかけたにも関わらず、刃向かったのです。しかし、隊長は死なせるには惜しいとして」
「ちょっと、七緒ちゃん」
「隊長は黙っていてください! 玄鵬どのとはいえ、まるで隊長が無体なやり方をしたような言いようです」
「無体でしょう。仮にも隊長ともあろうものが、花天狂骨まで引っ張り出して」
理靜は静かに、鸞加を鞘走らせる。
銀の刀身が揺らめいた。
厳しい視線のままの七緒の肩に、京楽の手が置かれる。
「七緒ちゃん」
「ですが、隊長」
「四番隊に使いを。隊長権限で、旅禍を拘束。重傷であるために、処置を頼みたいと」
使いを走らせるには、自分がこの場所から離れなくてはならない。
七緒はちらりと京楽と、構えたままの理靜を見た。
「……七緒ちゃん」
再度の促しに、七緒は心を定めた。
「分かりました。伝えてきます」
「うん」
足早に去っていく腹心を、視線だけで見送ってから京楽は肩に担ぎ上げたチャドを掛け声とともにゆっくりと下ろし、横たえた。
構えたままの理靜の懐から飛び出た黒猫に、京楽は眉を顰める。
「なんだい、帰ってたのかい……四楓院の主どのは」
「故あってな。しかし、随分と思い切りやったの」
春水は横たわるチャドの横に、どっかりと座ってチャドの厚い胸板に上がり座ってしまった夜一に言う。
「これが礼儀さ。俺にとってな。この青年、俺が剣を引けといえば、自分のために戦っているのではないから、引けないという。だから、始解して勝負をつけた。それが……礼儀だろう」
侮るではなく、嘲ることなく、力があるならば、それを見せる。
それは初代霊王の時代から剣戟で名を馳せた玄鵬一統の心得だ。
「やはり、お主も玄鵬一統であったか」
諦めのような、苦笑を浮かべて京楽は笑う。
「骨まで染み込んで、なかなか楽させてくれねえんだよ。お前のおふくろさんは」
いまだ鸞加を構えたままの理靜をちらりと見遣って。
「ここで俺を倒すのかい、この兄さんの仇かい?」
「…………それは無駄なことです」
理靜は鸞加を鞘に戻した。
「…………僕も玄鵬一統ですから。春水さんのやったことは間違いじゃない」
「ずいぶんとものわかりがいい」
「だけど、教えてくれませんか。母は決して、僕には言わなかった。なぜ、朽木ルキアを助けないのか」
ゆっくりと進んで、チャドの前に跪き傷の様子を伺えば、出血の割に深い傷ではないとすぐに分かった。
「朽木ルキアを助けないんじゃなくて、一つを動かせば、他の物事まで留めてしまう。その可能性が高かったからだ。母上は、ぎりぎりまで駆け引きをしたんだよ。朽木ルキアの命と、世界の平安を」
「…………詳しく聞いて、教えてくれますか」
「それは言えない」
いつになく強い口調で告げて、春水が立ち上がる。
「理靜、いいか。すべては、玄鵬のためではなく、尸魂界のために、千早さんは動いている。そうなるまでにどれほど悩んだのか、苦しんだのか、考えたことがあるか?」
続いた言葉に、理靜は言葉を喪う。
「お前の母君は、一度完全に存在を否定されたんだ。それでも尸魂界を愛し、守る。その矛盾を、息子のお前が理解せずにどうする」
立ち上がった春水は、呆然とする理靜を見下ろした。
「何を思おうと、自由だ。俺を咎めても構わない。おそらく千早さんも自分を罵るのは意に介さないはずだ。だが、理靜。お前は考えなくてはいけない。千早さんがどうして、この世界を守ろうとするのか。それは誰のためなのか」
「駆けよ、聳弧」
その声に、蒼い刀身は一層蒼く輝いて。
千早は軽く振った。
中央霊議廷の入り口である華表門は、大きな音ともに無残に姿を消す。
だが。
「……警報が鳴りませんね」
拍子抜けた様子で、私軍軍団長を務める復田旋が千早の背中に言う。
千早は聳弧を鞘に戻しながら、
「先肩を出した?」
「ええ」
「じゃあ、進みましょう。おそらく大議場にいるわ」
千早は一度空を見上げた。
心を澄ませば、戦っている気配を感じる。
少し前まで、剣八と一護が戦う気配を感じた。理靜が霊圧を上げた傍には、春水がいた。おそらく夜一もいる。
一護とともに尸魂界にやってきた滅却師と、二人の人間の霊圧も消えていない。
まだ、戦っている。
だけど、それをとめることは千早にはできるけれど、あえてしなかった。
これは、新たなる霊王が生まれるための、最後の試練。
世界が、新たな『調整者』を受け入れるための、最初の準備。
傷つき、血を流すことは必要ではないかもしれない。
だが、千早はこれ以上の方法を思いつかない。
そこに我が子がいたとしても。
千早の左腕には、黒い薄絹の布帛が結ばれている。
玄鵬家を出る前に、玄鵬一統の総意として遵凍が巻いてくれたものだ。
漆黒は玄鵬一統の色。
玄鵬一統は千早の意思に遵うことを意味する。
「屋形さま?」
「……ん、今行く」
千早は踵を返しながら、理靜の霊圧に心の中だけで呼びかける。
理靜、これはお前の戦いでもあるのよ。
「理靜、どうかしたか?」
不意に立ち止まった理靜の懐から顔を出した夜一は、理靜の顔の向きから、瀞霊廷の最奥で千早の霊圧があがったことを感じた。
「これは……なんじゃ」
「わかりません。ですが、懺罪宮とは方向が違います……行きましょう」
懺罪宮の手前で、剣八の霊圧があがるのを感じた夜一はチャドの処置を京楽に委ねて、一護のもとへと急いでいた。
そんなとき、感じた千早の変化だった。
「この霊圧は……始解しているのか」
誰と戦うというのじゃ、斬神ともあろうものが。
夜一の言葉に答えず、理靜は歩を進める。
「理靜」
「母は母の道を行きます。僕は僕の道を行きます。そう、決めたんです」
「それで…よいのか」
「よくはないですよ!」
一瞬激昂しかかった理靜は、しかし歩みを止めない。
よくはない。
袂を別つようなことを、したくなかった。
今でも、心乱れる。
優しい母は、決して理靜を否定せず、理靜の選択を受け入れてくれるだろうけど。
だが、悲しい視線は決して理靜には向けない。
するりと懐に忍び込んで、夜一が静かに言った。
「おぬしは優しいの」
「………それって褒め言葉ですか」
「そうじゃ。その優しさは、千早譲りじゃ。あれも、優しすぎて自分を傷つけてばかりじゃ」
嘆息を聞きながら、理靜はスピードを上げた。
「どうなっている」
冬獅郎の言葉が、すべてを表していた。
情報が錯綜している。
少し前開かれた隊首会で、3人の旅禍が志波岩鷲の手を借りて侵入、瀞霊廷内で潜伏していることだけが分かっていた。
隊首会が終わる頃、飛び込んできたのは六番隊副隊長阿散井恋次の負傷。
意識もないほどの重傷だった。
だが、散発的に行われる戦闘で、どうやら十一番隊が壊滅状態に陥っていること。
絶滅したと思われていた滅却師と十二番隊隊長涅マユリが戦闘、涅が負けたこと。
しかし勝った滅却師も懺罪宮の傍で九番隊隊長東仙要によって確保された。
そこまでは分かっている。
だが、それ以上は旅禍の目的も、何もわからない。
五番隊隊長藍染惣右介殺害に関連していると思われているけれど、それもあくまで仮定の話だ。
「阿散井」
「………わかりません。自分も。ただ」
ようやく意識を取り戻したという話を聞いて、冬獅郎は情報を知りたくて、副隊長の松本乱菊を伴って、恋次の病室に駆け込んだのだが。
否定のあと、続いた言葉に冬獅郎が目を細めた。
「ただ?」
「………俺には二つだけ、分かります」
「二つ」
「はい」
顔だけを冬獅郎に向けて、恋次が言った。
「一つは、あいつは、朽木ルキアを連れ戻しに来たってことです」
「………朽木の妹か」
「はい。それからもう一つ。あいつは、黒崎一護はとてつもなく、強い」
ぴくん。
冬獅郎の肩が僅かに動く。
「黒崎、一護か」
「はい」
「旅禍はそう言う名前なのか」
「隊長?」
「答えろ、阿散井。橙色の髪の」
恋次は不審に感じながら頷いた。
「はい、あいつはそう名乗りました……知っているんですか、日番谷隊長」
「……少しな」
本人に会ったことはない。
だが、何度も聞いた名前だった。
黒崎一心、黒崎一護。
師と仰ぐ、千早の親しき者。
なぜ、その名前がここで出るのだ。
冬獅郎の眉根の谷間がぐっと深くなった。
「名前はわかった。他に、阿散井の気になることを言ってみろ。藍染のことでもいい」
促されて、恋次は一瞬考えて。
「あの………こういうこと言っていいか、わかんねえんすけど」
「なんだ」
「亡くなる少し前に、俺、藍染隊長とサシで話をしたんす」
「…………何の話をだ」
『阿散井くん、君は朽木くんの妹と個人的に親しいんだよね』
切り出されて、特に隠すことでもないので、恋次は大人しく頷いた。
どうせ同期の雛森が藍染に教えたのだろう。
『流魂街からの幼馴染です』
『そうか。じゃあ、君に聞くのが一番だね。朽木ルキアという死神は、罪を犯すような死神かい?』
その問いかけに、恋次は小さく項垂れた。
罪。
重い言葉だ。
だが、断罪されるべき罪と憂慮されるべき罪があるはずなのだ。
恋次は素直にそれを口にした。
藍染は温和な視線を恋次に向けて。
『じゃあ、何かあるね』
『何か、ですか?』
『四十六室の動きが速すぎるんだよ』