fragment 15





小さな呻き声を上げながら、一護はゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ってきたのは、少し見慣れた従兄の整った顔だった。
心配そうな表情は一護が意識を取り戻したのを知って、安堵の表情に変わる。
「よかった、意識が戻った」
「…………りせい」
「うん」
実は理靜と会うのは、尸魂界に入る前が最後だったから、2週間も経たない時間だったのだが、一護は数年ぶりにあったように感じて、自分の感覚に思わず苦笑しながら起き上がろうとして、思わず胸を押さえた。
「つ…」
「かなり念入りに僕と夜一さんで治療しておいたけどね。とはいえ、いつ出血するか」
理靜の手を借りて起き上がれば、剣八との戦いで傷ついた自分の身体はあちこち包帯に包まれていた。
「…すまねえな、理靜」
「………謝らなくてはいけないのは僕のほうだよ」
少し項垂れながら、理靜は言う。枕元に置かれた器を一護に差し出した。
「薬。かなり苦いけど飲んで。内臓系の回復を早めるから」
「おう……って、何を謝るんだよ」
口に含んで、あまりの苦さに飲み下すことができなくなった一護を見遣って、理靜はくすりと笑って。
「ごめん」
「…ほれはいひけど、ほれあんほかなら」
「何がなんでも飲み下せ。ここで噴出されても、新しい薬はないわ。明日の朝には少しは動けるようになっておかなくてはならんぞ」
気づけば人型の夜一が静かに一護の枕もとに座った。
一護は涙目のまま、少しだけ悪戦苦闘して、それでもなんとか飲み下した。
それを確認して夜一が理靜に言った。
「千早が暴れまわっておるようじゃ」
「母上?」
「瀞霊廷の奥で本気、出しておるようじゃの。おそらく剣八とやりあう時でもあれほどの気迫、見せぬであろうに」
「………きっと焦っているんです」
理靜は小さく溜息をついて、一護から器を受け取り。
「少し前に、先肩が来ました」
一護の治療を施すために、夜一の『秘密基地』に飛び込んだ理靜と夜一だった。だが、それでも玄鵬家の隠密である先肩の目は誤魔化せなかった。
偵察にと夜一が姿を消してしばらくして訪れた先肩は、顔に掘り込まれた玄鵬雪輪紋を見せて、衝撃の事実だけを述べて去っていった。
伝言はないかと問われて、理靜は一瞬考えて。
「一護とともに行く、とだけ」
理靜は語る。先肩から告げられた、千早の話を。
がたん。
激しい音に、理靜が振り返ると一護がザンゲツを手に立ち上がろうとしていた。理靜が一護を支えながら、
「一護、まだダメだ」
「………こうしちゃあいられねえだろうが。あいつの、ルキアの処刑が始まるって…分かってて」
だが全身に走る痛みは相当なもののはずで、一護はザンゲツに体重を預けようとするけれども、その腕にも力は入らずずるずると褥に座り込んだ。
夜一はそれを黙然と見遣って、
「まだ無理じゃの」
「夜明けまでに薬が効けばいいんですけど」
「一護、少し横になれ。早く直したいのなら、少し身体を休めろ」
一護を押し倒すように寝かせながら、夜一が言えば理靜も頷いた。
「夜明けに起こすよ。それから……ルキアちゃんを助ける作戦を立てるから」
他の話もそれからだ。
そう言われて、一護は何か言いたげだったが横になり目を閉じれば、すぐに寝息があがった。






一護を夜一に預け、理靜は『秘密基地』から出てみる。
瀞霊廷から少しばかり離れた小高い場所から見下ろせば確かに瀞霊廷内で母の、感じたことのないほどに高まった霊圧を感じた。
尸魂界に属する者の霊力を視覚化すれば、赤い。
正確には霊力を生み出す魂魄と肉体を結ぶ霊絡と呼ばれる綱が赤いからだといわれている。
それはほとんどの場合、当てはまる。
だが、玄鵬家当主に近ければ近いほど、黄色を帯びた霊絡の色をしているのだ。
玄鵬一統筆頭である京楽遵凍のそれよりも、千早の霊力は橙色に近い。理靜のものも同じだ。
母の、赤橙色に輝く霊圧が、いつもより高まっている。
「聳弧、始解しているのか…」
母が所有する遺魄刀を始解するのは、極稀だ。息子の理靜でもあまり見たことがない。時折気まぐれに、せがまれて剣八と剣を交えるときに始解しているようだが、剣八の霊圧と千早の霊圧にあてられて動けなくなる死神が多いことから、いつだって二人の『対決』は鬼道衆が訓練を兼ねて張ってくれる結界の中で行われる。だから、剥き出しの母の霊圧に接することがはじめての死神が、ほとんどだろう。
「焦っておるなどとは、思いもしなんだ」
かけられた声に、理靜は眉をひそめる。
「…夜一さん。一護を見てくれるんじゃなかったんですか」
「あやつは寝入っておるし、怪しい奴の気配もないわ」
ふふんと鼻で笑って。
夜一は髪をまとめていた組みひもを解いた。長い髪がはらりと落ちる。
「千早ともあろう者がな」
「思いもしなかったのは、母の方でしょう」
理靜は近くの岩に腰をかける。視線は母が戦っているだろう、瀞霊廷の最奥を見つめたまま。
「母は……母の一番の目的は、次代霊王にこの尸魂界を余すことなく譲ることですから」
「それは千早に限ったことではないじゃろう」
我らも同じこと。
夜一の言葉に、理靜は小さな溜息を吐いて。
「夜一さんは……見えますか」
「ん? 何がじゃ」
「霊絡の色、ですけど」
一瞬黙り込んだ夜一は、しかし溜息を吐きながら言った。
「理靜。おぬしの言うは、霊色視のことか。霊色視と、遺魄刀との意思疎通は玄鵬家特有の能力じゃ。千早は言わなんだか?」
玄鵬一統が長いこと持ちつづけてきた、能力。
遺魄刀との意思疎通については千早からも聞いたことがあったが、霊色視の話は千早からも聞いたことがなかった。
「そっか。そうなんですか…聞いたことなかったな」
「霊色視がどうかしたか」
「……母に聞いたことがあります。霊王の霊絡は、黄金に輝くと」
ははうえ、ははうえのれいらくはきれいないろです。
あら、理靜。お前の霊絡も綺麗な赤と橙色ね。でもね、理靜。
幼い理靜に、母は微笑みながら教えてくれた。
霊王陛下の霊絡は、それはそれは綺麗な黄金色だそうよ。
決して霊査が得意ではない理靜が、霊色視を使うのもやはり得意ではないけれど、今日感じた霊絡は、間違えようもないほど黄金色に輝いていた。
まして霊査が得意な千早が、気づかないはずがない。
「霊王は既に、更臨してます。黄金色の霊絡を、僕は見ました」
「………………………なんじゃと」
「玄鵬家は、それを尸魂界に知らしめるために存在してるんでしょうか」
「理靜、本気で言うのか。それほどの大事を」
戦慄きながら告げられて、しかし理靜は穏やかに笑んで。
「だからこそ、でしょうね。母が感じたように、僕も彼が霊王であると思います」
告げられた名前に、夜一は愕然とした。






「ほんま、さわがしいわ」
うんざりした様子で告げて、立ち上がったギンを藍染は咎めた。
「まだだよ、ギン」
「そやかて」
「今は彼女が本気で八つ当たりしているからね。それに僕とギンが二人で本気になって向って行っても、倒されるかもしれないね」
藍染は、かつては見せなかった冷めた表情に笑みを加えて、
「だからもう少し、待とうか」
「藍染はんがそう言うんやったら」
ギンも笑みながら、椅子に座る。
「やけど、斬神、て渾名は伊達やなかったんやな」






息一つ乱さず。
髪も乱れず。
千早は聳弧を一振りした。
刀身についた血が一筋、飛ぶ。
ごくりと、生唾を飲み込んだのが傍らにいた自分の副官だと気づいて、復田は苦笑した。
「屋形さまの戦いを見たことがなかったか」
「あ、はい」
慌てて返事をして、若い副官は思わず呟く。
「すごい……」
「当たり前だ。我らが玄鵬の至宝、『斬神千早』だ。力を誇る方ではないことが、何よりも惜しいがな」
まるで舞うように。
素早い動きと、柔らかい太刀筋。
すべてが無駄がなく、峻烈なまでに敵の、そして味方の目に焼きつく。
千早は無言のまま、窓から夜空を見上げる。
細い月で照らされている、漆黒の空。
今だ深更にして、自分はここにいる。
「復田」
「はい」
「捜索範囲を広げましょう。清浄塔巨林と真譲原地区もよ。先肩で足らなければ、隠密機動に応援を。でも護廷衆は待機」
「伝えます」
足元で事切れていなかった警備兵が呻き声をあげるのをちらりと見遣りながら、
「早く運びなさい。武装解除して救護舎へ」
斬ってしまったけれど、命までは奪えない。
彼らは巻き込まれただけだという、意識が千早にあるからだ。
だがその思いは裏切られる。
累々と重なる警備兵の身体の下で、一人の警備兵が意識を取り戻す。
『殺すのだ』
そう告げたのは、誰だったろう。
だが警備兵の意識はそれを考えることなく、手にした刀を握り締め。
目の前にいる、それも背中を向けている千早に飛び込んだ。
少し離れたところで指令を出していた復田が気づいた。
「屋形さま!」






まもなく夜明けという頃、一護は理靜の声に起こされた。
「……朝かよ」
「もう少し、時間はあるけどね。身体はどう?」
促されて少し身体を動かしてみるけれど、思ったほど痛みはなかった。
「お、軽いぞ」
「そう、よかった。一護に使ったのは単なる治療薬じゃなくてね。治癒力を一時的にとてつもなく上げる薬なんだよ。まあ、死にかけている人が使うと本当に死んじゃうこともあるらしいけど」
一護は軽く顔を歪めて、
「さらっと恐ろしいこと言ってんじゃねえよ」
「でも大丈夫だったろ? 一護はこのくらいじゃ死なないよ」
「…ああ、まだ死ねないな」
一護は小さく溜息を吐けば、夜一が死覇装を差し出した。
「ほれ。喜助のものじゃが、入るじゃろう」
「浦原さんの?」
一護の着替えを手伝いながら、理靜が言う。
「ここは、喜助さんと夜一さんの遊び場なんだよ。僕も少し使わせてもらった」
「へえ……」
「早く着んか。それにこれじゃ」
夜一が一枚の布を投げて寄越して、理靜は瞠目する。
「これって、夜一さん!」
「わしや理靜は瞬歩を使うが、一護はまだ無理じゃろう。天踏絢という。四楓院家の至宝の一つじゃ。霊圧に応じて空を飛ぶ」
着け方を指示されて、一護は身に付けた。首周りにつけられた組みひもに、小さな木片がつけられそこに家紋のようなものを見た。
「四楓院家の家紋だよ。真向き月に四つ楓」
「大事なんじゃねえのかよ」
「あたりまえじゃ。返してもらうわ」
夜一は少し意地悪げな笑みを浮かべて。
「無傷で返すと約束するのじゃ。でないと貸さぬ」
「……………ああ」
「僕はこれを」
手渡されたのは、小さな鶉の卵ほどの銀色に輝く球体だった。
「僕の鸞加は水系の能力を持ってる。鸞加が分けてくれるものだよ、少しは使えると思う……双極が発動したら、必ず必要になるから」
「……それも返せとか言うのか?」
理靜は穏やかに笑い、
「無理だよ。これは一回しか使えないから。寧ろ…ルキアちゃんのためにね」
受け取って一護が問う。
「どう使うんだ?」
「持っていればいいんだよ。必要なとき、勝手に動き出すから」






そして夜明けが来た。






「朽木ルキアどの、出ませい」
促されて、ルキアはゆっくりと立ち上がった。
明日に処刑を早めると連絡を受けたときは、心が揺さぶられた。
かつて自分の腕の中で冷たくなっていった、志波海燕のことを思い出して涙がこぼれそうになった。
だが今は。
顔をあげて、向おうと決めた。
最後の場所へ。






「七緒ちゃんはつきあってくれなくていいのになぁ」
ぼそりと告げられて、七緒はちらりと京楽を見た。
「何を仰るんですか。私は副隊長です、あなたの副官です。三歩下がってついていきます」
玄鵬雪輪紋の先肩が告げた情報は、ある程度は千早と京楽が予想していたとおりであり、しかし予想を越える事実も含まれていて、京楽は数瞬沈思して、先肩に千早への伝言を伝えた。
「隊長」
「ん?」
「昨夜、先肩に伝えられた言葉。あれはどういう意味があったんですか」
問われて、京楽は肩を竦める。
我々は最後の手段に、打って出る。彼女のことは心配なきよう。
「意味も何も、僕らはこの事態を憂いていたから、ちょ〜っと手を入れようかなぁと」
「……前以て分かっていらしたんですか」
「七緒ちゃん」
咎めるような言葉に、しかし京楽は笑みながら応えた。
「こんな事態にしたくしてしたわけじゃあないよ。でもね、これを望んでいたのが誰だったのか、そこを知りたかったんだよ。でも」
ぐっと視線が強くなり、七緒は息を呑む。
見慣れない隊長の、横顔だった。
「これで分かった。どうあろうと、遠慮なく動かせてもらう」






「そう、遠慮なく動けるというものだ」
言ってから、浮竹はこほんと咳ぶいた。
話は先肩から聞いた。
話を聞いて、ようやく千早と京楽の動きに得心がいった。
他者に対する怒りよりも、何も感じなかった自分自身に腹が立った。
だがそれを押し殺して、準備を整えた。
「彼女を、救うために」
扉の向こうで、三席二人が密やかに時間がないことを告げている。
浮竹はにこやかに笑いながら扉を開けた。
「よし、行くぞ」
その手には、真向き月に四つ楓紋があしらわれた巨大な盾。
向うは、双極。






どさりと、倒れたのは警備兵。
口の端からごぽりと血の塊を吐き出して。
千早は無言のまま、聳弧を引き抜いた。
振り返りもせず、突進してきた警備兵を自分の脇越しに貫いた。
なんの迷いもなく。
「傷は浅いでしょう。運んで」
促されて一団が動き始めた。
千早は表情一つ変えずに、ホッと安堵の表情を浮かべた復田を呼んだ。
「朝が来たわね。とにかく急いで、愁壱斎どのぐらいは見つけないとね」
その時、一人の先肩が千早の足元に跪いた。
「屋形さま、安芸津さまを初めとする議員の方々、発見しました」
「そう。他は」
「いまだ」
玄鵬私軍を動かした第一の目的は果たしたけれど、目的に内包されたルキアの処刑中止は間に合わないかもしれない。
少しでも足止めになれば、と少し前に春水と話した手段がある。
本当は、したくなかった方法だった。
だけど、もう。
手段を選んではいられない。



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