fragment 16





持ち上げられているという感覚すらなかった。
背にした磔架も、見えないせいか存在すら気にならなかった。
ルキアはゆっくりと、目を閉じる。
もう、充分だ。
私は生かされたのだから。
頬を伝う涙に、ルキアは気づかないまま。
小さく呟く。






ありがとう。
さよなら。






表情を押し殺し、見上げていた白哉がその両の拳を握りこんだ。
強く、強く。
玄鵬私軍から送り込まれる負傷者の差配を三席の伊江村に任せて、副隊長の虎徹勇音と極刑を見届けるために現れた卯ノ花は白哉の異変に気づいた。
だが、声はかけない。
黙然と、白く白く変わっていく、白哉の拳を見つめていた。






そして、巨鉾から現れた、朱焔の聖獣。
「あれが、燬皓王…」
七緒はかつて京楽から聞かされた名前を呟いた。
もっとも重い罪を犯したと判断され、なおかつ強い霊圧を持つ者だけを双極の丘の磔架にかけ、普段は巨鉾に封印されている聖獣、燬皓王の炎熱によってこれを処刑する。
それが極刑。
極刑を受けたものの魂魄は、二度と転生することなく、霊子単位まで砕け散るのだという。
燬皓王は一声上げて、まっすぐにルキアを見つめる。
巨大な燬皓王にしてみれば、なんと小さい存在だろう。
その赤い双眸に、ルキアの姿が小さく映り。
一声上げて、燬皓王はルキアにめがけて飛び込んだ。






はずだった。
訪れない衝撃に、ルキアはゆっくりと目を開けば。
肌を焼く熱と、風が目の前の薄茶色の外套をはためかせる。
「よう。ルキア」
聞きなれた声。
かつて拒絶したはずの、声。
頬を伝う涙をそのままに、ルキアはその声の主の名前を呼んだ。
「い、ちご……」
「大丈夫か? しっかし、こいつ、あっついな」
緊張感もない一護の声に反応するように、一護の懐に入っていた何かが一護とルキアの頭上に飛び出した。
「なんだ? あ、理靜にもらった」
鶉の卵ほどの大きさのそれは、二人の頭上に浮き上がり。
突然、弾けた。
中から液体が飛び出し、二人は頭からそれをかぶってしまう。
「うわ」
「な、な……」
変化はすぐに訪れた。
火傷するかと思うほど熱いはずなのに、温度を感じなくなったのだ。
「あ〜、水系の能力ってそういうことか。理靜、ナイスだ」
その名前にようやく我に返ったルキアが声を上げる。
「この莫迦者が!」
「うわ、助けに来た奴にそういうこと言うかよ」
一護が、小さく笑った。






理靜が双極の丘についたとき、既にあちこちに戦いが分散し始めていた。
「理靜、わしは砕蜂を止める!」
一声叫んで、ともに駆けて来た夜一は姿を消した。
理靜はまっすぐに双極の丘に向かった。
最初に気づいた変化は、
「………磔架が」
「あなたの従弟どのが一撃で破壊してしまいました」
慌てて振り返ると、穏やかな表情で卯ノ花が数名の負傷者を手当てしているところだった。
「卯ノ花さん」
「燬皓王まで砕いてしまって。まあ、砕いたのは浮竹隊長と京楽隊長でしたけど」
手際よく負傷者の手当てをしながら、卯ノ花はちらと理靜を見た。
「事態は聞きました」
「……そうですか」
「まったく無茶をします……玄鵬一統は」
卯ノ花は自らの斬魄刀を鞘走り、静かに告げた。
「私はこの者たちを救護舎へ。あなたはどうしますか。あそこでは旅禍と朽木隊長が戦っていますが」
振り返れば、そこには空気が渦巻くほどの霊圧と霊圧の戦いで。
理靜は一瞬それを睨みつける。
「朽木隊長の妹は、あの旅禍が阿散井副隊長に託しました」
静かな言葉に、理靜は小さく頷いて答えた。
「では、僕はここに残ります」
「……よろしいのですか」
「ええ」
いっそ爽やかにすら見える表情で、理靜は言った。
「彼を守らなくてはいけませんから」






「申し訳ありません」
両肩を支えられて、蹌踉きながら現れた老人はがっくりと千早の前に膝をついた。
千早は同じく膝をついて老人の顔を上げさせた。
「愁壱斎どの。あなたが謝ることはないでしょう。寧ろ、ここまで放置した私が責められるべきでしょう。あなたという補佐を、牙城に放り込んでしまった」
ほろほろと泣き崩れる老人の肩を軽く叩いていると、復田に報告が入った。
「真譲原地区に多数の議員を発見しました。ほぼ全員いるようです」
「……議員だけね」
「はい」
「わかった」
千早は立ち上がる。
近くのものに愁壱斎の手当てを頼んで、一声あげた。
「目指すは、清浄塔巨林!」
どよめきを背に、千早は駆け出した。






衆牢から脱走した雛森を追って、冬獅郎は清浄塔巨林に行き着き。
「雛森……!」






「藍染!」






「僕の副隊長は、最初からずっとギンだよ?」






「吼えると、弱く聞えるよ」






千早が清浄塔巨林にたどり着いた時、その場所は冴え冴えとした空気を内包していた。
その空気は、氷輪丸が卍解した空気だった。
千早は目を細める。
氷輪丸が凍らせた世界に、横たわる少年の姿を見つけて。
「……冬獅郎」
「おや。玄鵬宗家当主までお見えとは」
嘲笑にも聞える言い様。
だが千早は驚かずに、その声の主の名前を呼んだ。
「惣右介」
気づけばすぐ脇に、卯ノ花ともう一人の姿が見えた。
そして藍染の後ろには、市丸の姿も。
動揺を押し殺して、千早が低く言った。
「惣右介」
「ああ、その先は聞きたくないね」
穏やかに、しかしその中に侮蔑を含んで。
「どうしてこんなことを? かな。それは愚問だね」
「愚問? そう、じゃあ聞かないわ。だけど、あなたが何を望んでいるかは、分かるつもりよ。それがとてつもない見当違いだってことも」
「…………ほお」
藍染の表情が崩れた。
笑んでいるはずなのに、辺りの空気は一層冴え冴えとしてくる。
卯ノ花の背後に立つ勇音が思わず萎縮しているのが、横目で見えた。
「燬皓王で破壊して、手に入れるつもりだったんでしょう? 朽木ルキアの、ものを」
「さすが、玄鵬宗家当主。お見通しか」
「千早さん」
「卯ノ花隊長。冬獅郎を。それに奥にもう一人、気配があります」
「へえ、すごいなぁ。こんなちっこい霊圧までわかるん」
市丸が驚きの声を上げるが、誰もそれに反応しないまま、卯ノ花は黙然と冬獅郎に近づいた。
「息はあります」
「そう、よかった」
安堵の溜息をついた千早の目前に、藍染は不意打ちに瞬歩で移動し。
「!」
「見当違いとは聞き捨てならないね」
千早は素早く反応して、半歩下がりながら聳弧の柄を握った。
しかし、抜かない。
その様子に、藍染は目を細めた。
「それは余裕なのかな? それとも温情?」
「どちらでもないわ。少し話をしたいだけ」
「そんな顔じゃあないけれどね」
藍染の言葉とともに、背後で笑みを浮かべたままの市丸の様子も気にしながら千早は言った。
「そんな顔よ。惣右介。あれは一つでは意味を為さない」
「………なんだと」
「あれは一つではただのエネルギー体でしかない。もちろん制御できる者は、今はいないのよ。ルキアちゃんの中にあるものはね」
藍染の笑みが消えた。
「どういう意味だ」
藍染が背を伸ばせば、逆に市丸が背を縮め、斬魄刀に手をかけた。
千早も聳弧に手をかけたまま、
「言葉のとおり。だけど『あれ』を所有し、使用できるものがどうやら生まれたようね…今回の騒動で」
「所有、使用? は、『あれ』は」
嘲笑しようとする藍染を、しかし千早は重ねて言う。
「そして、お前がなりたいものに、なったものもいる」
「!」
眼鏡の奥で、一瞬瞠目して。
しかしすぐに立ち直ったのはさすがというべきか。
「………あなたでは、あるいは息子でもなかったということか」
「あたりまえ」
今度は千早が笑う。
「あなたも玄鵬一統であるなら、あたしが違うことなど、ましてや理靜が違うことなど、分かろうもの」
「相応しからぬ者……片翼の息子に」
明らかに千早の怒りを誘発するように、紡がれた言葉だった。
ギンは変わらず笑みを浮かべていたけれど、卯ノ花と勇音は後者の言葉で、侮蔑的な意味を持つことと、それを紡いだのが温和であったはずの藍染であったことに衝撃を受ける。
だが、千早は動じる様子も見せず笑い飛ばした。
「だからなに? あなたも随分な物言いをするようになったものね。そんなところが、あの人にそっくりだわ。藍染慎之介にね」
逆に僅かに動揺したのは、藍染だった。
その視線に毒をこめて、吐き捨てるように言った。
「…………その存在が、まったく無意味なものだということを、わからないことに虫唾が走る」
「そう。そんなセリフは600年前に言われたわよ。あなたのお爺さまに」
『あなたは、無意味な存在だ』
『無意味どころか、害を成す』
『玄鵬一統の千年万年のために、お命、いただく』
そう言って、最初の一太刀を千早の上に振り下ろしたのは、藍染慎之介。
身近な者に裏切られた衝撃と恐怖で、動けなかった幼い千早を動かしたのは、年上の知音の声と視界を覆う鮮血。
『千早、生きろ……』
ふと脳裏を横切ったのは、兄と慕った知音の一人の、事切れる前のかすかな声。
千早は聳弧をゆっくりと、鞘走らせる。
蒼い刀身が鈍く輝く。
「駆けよ、聳弧」
仄かに蒼く輝き始めたそれを、千早は藍染と市丸に向ける。
「ねえ、惣右介。何度も言うけど、あなたは間違ってる。方法や手段もだけど。ルキアちゃんの中にある、『崩玉』を手にしても。あなたは霊王にはなれない」
今まで一度も告げられなかった名前に、藍染は満面の、しかし昏い笑みを浮かべて。
「そうかな」
「霊王になりたいの? 世界を変える、変革者にそんなになりたいの?」
「………自分を過小も過大も、見誤った覚えはないが」
市丸がゆっくりとその懐に手を入れたのを見て、千早が声を上げた。
「卍解、天雷召獣聳弧」
氷輪丸で凍った空気が、一層温度を下げる。
千早の周りに、帯電された空間が収縮を始める。
ぴしり。
わずかな雷光が光った。
「あら、これはあかんなぁ」
のんびりとした市丸の声。
千早は感情を押し殺すように、言う。
「世界の変革は、こんなことで始まるんじゃない」
「あなたの理想は聞き飽きた」
藍染の答えも、感情は見えなかった。
「どこにあなたの理想が、具現化された例がある。霊王のもとで平和な世界? だが、それは理想であって幻想でしかない。あなたの。玄鵬宗家という権力を持った、愚者の」
「………」
「誰が霊王になろうと、私には意味がない」
藍染は再び嗤う。
「新たなる霊王を倒して、私が霊王になればいい」
それがあなたのいう、世界のためだ。
藍染が告げれば、市丸が懐から素早く何かを取り出した。
長く、白い布帛。
まるで藍染と市丸を覆うように蠢き始めて、千早はそれが何を意味するか理解する。
そして聳弧を最上段に振り下ろしながら、叫んだ。
「行かせない!」
その瞬間、蒼く輝く刀身に帯電空間から一斉に雷撃が集中する。
雷撃は強烈な稲光と、衝撃音を招いた。
思わず卯ノ花は冬獅郎を、勇音は雛森を自らの身体で庇った。
衝撃はすぐに訪れたが思ったほどではなく。
身体を起こせば、千早が藍染と市丸がいるはずの空間を睨みつける姿だけがあった。
「………逃げた、か」
千早はふうと息を吐いて。
思わずその場に座り込んだ。
勇音が駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!」
「うん、大丈夫。身体というよりね、違うところがしんどいだけだから」
卯ノ花によく似た穏やかな笑顔を見て、勇音はほっと溜息を吐いた。
「そう、ですか…」
「勇音」
振り返れば、厳しい表情の卯ノ花が言う。
「転移先を突き止めなさい。あなたなら出来ます」
「あ、はい。では、『掴趾追雀』を行います」






「無茶をする」
横たわる一護の傍らに座り、理靜はそう言った。
肩で息をしながら、一護が言う。
「……それが頑張って戦った従弟に言うセリフかよ」
「なんだ、他に聞きたいのかい?」
動きたくないと訴える身体を無理に起き上がらせて、一護は苦笑する。
「そうだな、まあ、聞きたいセリフなんか、ねえか」
「いや、よくやったと思うよ。本当に、君は。だから相応しいだろうね」
さらりと告げられた、意味不明の言葉に一護は眉をひそめて、問い返そうとすれば。
「ああ、この霊圧はわかりやすいな。岩鷲くんだ」
「へ?」
「なんていったかな、君の友達もいるね。雨竜くんも」
それから、やちるの気配も。
理靜は微笑みながら、一護が立ち上がろうとするのを手伝った。
「すまねえ」
「まあ、頑張って戦った従弟に、これくらいはしてあげないとね」
「………お前って、やっぱり千早姉の息子だわ。千早姉とおんなじこと、言ってるし」
息の荒い悪態を聞いていると、声を上げながら駆け寄ってくる一団があった。
それよりも早くたどり着いたやちるが、にんまりと笑いながら理靜の肩に飛び乗った。
「りせいだ〜」
「やあ、やちる。剣八さんは?」
「うん。わんわんと、かなめくんと遊んでる」
にこにこと告げたセリフの恐ろしさに、理靜はすぐに気づく。
「……狛村隊長と東仙隊長?」
「うん」
遊ぶ=戦うなので、隊長格が3人で戦っていることになる。
とはいえ、瀞霊廷の東端で浮竹と京楽が山本と剣を交えているようだということは、疎い理靜でも分かったので思わず溜息を吐いた。
「……全面戦争じゃないか」
「ん?」
織姫の治療を受けていた一護が小首を傾げた。
「どうした、理靜」
「君たちは、すごいね」
「あ?」
岩鷲が眉を顰める。
「なんだと?」
「君たちが瀞霊廷に入った途端に、何人もの隊長格が動き出したんだからね」
「それは違うだろ」
一護の答えは明確だった。
「動き出すきっかけを俺たちに探しただけじゃねえかよ」
「そうかもしれないけど」
もともとは、戦闘集団である護廷衆だ。
戦闘が行われば、その様相は一気に変化する。
とはいえ。
動きすぎるほど、動いている。
理靜は黙って、一護の横顔を見た。
あの朽木家最高の当主と呼ばれた朽木白哉を、内なる虚の暴走があったとはいえ戦いで退けた。
白哉の卍解を見たのも始めてなら、自ら負けを認めたのも初めて見た。
去り際、白哉は一瞬理靜を見て、呟いた。
「間違いない、な。こやつなのだろう?」
理靜は小さく頷いた。
間違いない。
母もそう言うだろう。
白哉との戦いの中で、また一護の霊絡は変化していく。
より明るい黄色へ。
それは理靜の、知識の中だけにあった事実。
母はそれを予想して、中央霊議廷制圧という暴挙に打って出た。
その思いは無駄にしてはならないのだ。






「双極です!」
勇音によって告げられた場所に、千早は眉を顰めた。
俊足の千早について来れなかった私軍の面々がようやく姿を見せたのを確認して、千早は叫んだ。
「全軍で中央霊議廷の完全制圧を最優先! 先肩は遵凍に連絡!」
「屋形さまは」
千早は瞬歩で姿を消す寸前に、静かに言った。
「双極へ。来れる者はあとでもよい、来なさい」






理靜は不意に視線を泳がせて。
慌てて顔を上げた。
「…これは」
低い声に全員の足が止まった。
「理靜?」
その時、全員の耳元で一人の女性の声が響いた。
『四面家の方々、護廷衆各隊の隊長格の方々、並びに旅禍のみなさん』
「え?」
「旅禍のみなさんって、俺たちの」
「静かに」
理靜の言葉に、全員が耳元の女性の声に耳をそばだてた。
『こちらは護廷衆四番隊副隊長、虎徹勇音です。緊急につき、可能な限り必要な方々に縛道にて連絡網を作りました。これは玄鵬宗家当主玄鵬千早、ならびに四番隊隊長卯ノ花烈による緊急電信です。これからお伝えすることは全て、真実です』




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