「………………すまない」
それが、必死に搾り出された兄の言葉だった。
ルキアはその双眸にみるみる涙を浮かべて、大きく頭を横に振った。
白哉はそれを見ながら、自分が差し出した左手をしっかりと包み込むルキアの手を見つめた。
「私は………掟に、縛られすぎていた」
「兄上!」
「ルキア………私はお前に告げなくてはならない………もう永いこと、迷ってきたのだ。お前に告げるか、告げまいか……」
そうして告げられた真実に、ルキアは言葉を喪う。
呆然と座りこんだルキアの意識を引きずり戻したのは千早だった。
「ルキアちゃん? 大丈夫?」
「…………千早さま」
「白哉は救護舎に入院させるから、今日はうちにいらっしゃい。理靜も一護も、それに旅禍のみんなもうちに泊まってもらうからね」
「千早さま!」
勢い告げられた自分の名前に、千早は数度瞬きする。
「ど、どうしたの?」
「さきほど兄上が……私に仰いました」
それだけで千早は白哉がルキアに何を告げたのか、理解する。
満面の笑みで、項垂れてしまったルキアの頭をゆっくりと撫でて。
「そう、聞いたのね。じゃあなおのことだわ。ゆっくりとうちで話、すればいいから」
白哉は卯ノ花が動かせる状態になるまで治療を施し、少し前に救護舎に運んでいった。双極に訪れた騒乱はようやく静まりつつあった。
「千早」
振り返れば、夜一が空鶴を伴っている。
千早は肩を竦めて、
「あら。白哉もさっきまでいたから四面家、大集合なんてめずらしいわね」
「そんなことを言ってる場合か」
空鶴が頭に巻いた布帛を無造作に取りながら、愚痴るように言った。
「気になってきてみれば、あいつがなってやがった。まったく、世の中、どうなってるんだ」
「どうもなってないわよ、空鶴。あの子はなるべくして、なったんだから」
千早は朗らかに言う。その言い様に空鶴は一層渋面で続けた。
「俺は千早か、理靜かって思ってたんだけどな」
「……あたしは違ってたわよ。生まれた時から」
珍しい自嘲の言葉に、夜一も空鶴も口を噤んだ。
数百年を生きた者ならば、玄鵬家の『藍染の乱』を知らぬものはいないし、それにどれほど千早が苦しめられたか、近しい者ならばなおのことだ。
「千早」
「まあ、そんなことはいいのよ。空鶴、あなたに謝らなくてはいけないわね」
「………崩玉のことか。仕方あるまい。とはいえ、あれだけ奪っていっても意味など」
「いや」
空鶴の言葉を遮ったのは夜一だった。
「千早、喜助から伝言がある。万が一、崩玉が奪われるようなことがあれば伝えて欲しいと」
「……………うわあ、嫌な予感がするなぁ」
浦原喜助は長いこと、崩玉を研究してきた。
だからこそ知りうることがあるだろうと、千早は夜一に応えを促した。
「崩玉は使い方によっては、虚の死神化を促すことができる、と」
千早は深く溜息をついて、空を見上げた。
藍染が消えた、空の裂け目を探すけれどもちろん、見つからない。
小さく呟いた。
「…………どこまでも、因果はついて回る、か……」
深更。
空に瞬く星を見上げて、千早は小さく溜息を落とした。
怒涛の、三日間が過ぎた。
藍染が空に消えて。
だがそれはただの嚆矢に過ぎなかった。
玄鵬家が行った中央霊議廷の統帥代理権の剥奪を、正当な理由をもって説明しなくてはならず、千早は玄鵬私軍に剣を納めさせ、待機を命じる一方で安芸津愁壱斎と京楽遵凍を率いて、中央霊議廷に乗り込んだ。
中央霊議廷は、玄鵬私軍に対する弾劾動議で紛糾した。
統帥代理権を否定された中央霊議廷で如何なる動議が行われようと、それは本当ならば何の意味もないが、千早はあえて根気強く大議場で議員たちの説得を試みた。
統帥代理権の剥奪は、5代霊王の更臨のため。
中央霊議廷の存在すべてを否定するものではないが、中央霊議廷自体が正常に機能していなかったことを可及的速やかに是正する必要に迫られたゆえの、玄鵬私軍の介入だったこと。
玄鵬私軍、ならびに護廷衆、鬼道衆、隠密機動は本来四面家に属する存在で、霊王が更臨された以上、霊王に付き従うのが本来の正しい姿であること。
だが中央霊議廷の議員たちは、最初千早の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
仕方ない、とは理解する。
与えられた権力の大きさと、それを自在に使うことの甘美。
一度知ってしまうと、麻薬のように心の奥底にまで浸透してしまう者もいるのだと、千早はかつて父が語っていたことを思い出す。
中央霊議廷は意味のない動議を繰り返すが、やがて山本総隊長の登場となる。
『あなた方は、何を見た。何をした』
普段は好々爺な山本がぎろりと鋭い視線を向ければ、議員たちは小さくなる。
『ここは、誰がための席か』
大議場の中央、すり鉢状のもっとも低い場所に置かれた縦に長い椅子は、一人が座るには幾分大きかったけれど。
もう何千年もそこに据えられることのなかったものだ。
その場所に座ることができるのは、たった一人。
尸魂界の主、霊王であるはず。
だが、藍染はそこで悠然と笑みながら中央霊議廷の議員たちに指示を出していた。
『尸魂界のため、という。だが、真にそうであるか? 問うがいい、自らの心に。問うがいい、あなた方の身内に、友に。その身を全て擲って、霊王陛下に許しを乞うことこそ、肝要とは思わぬか』
その言葉に、中央霊議廷は膝を折った。
一つだけ、条件を千早に提示して。
昼は中央霊議廷、夜は玄鵬家を初めとした四面家につながる貴族たちの陳情……。
さすがの千早も今日の夕刻は表情が硬かった。
『そも、霊王が更臨されたのであれば、何ゆえその証を我らに見せてくださらぬのか』
言い出したのが玄鵬八家の当主の一人ならば、なおのこと。
げんなりと、千早が言う。
『昨日も先刻も申し上げた。霊王はこの度の戦いで傷を負った。よってこれを癒してから、証そうと思っているのですよ』
『ほう、霊王は怪我をなさるのか』
一つ一つ揚げ足を取る言い様に、慣れたとはいえ千早はうんざりとした様子を隠そうともせず、
『霊王とて、我らと同じ。怪我もすれば、感情もある。同じですよ』
『好い加減にしたらどうだよ』
傍らにいた遵凍が制するが、当主は動じない。
『それはまこと、霊王ですか。屋形さまの曲解などとは』
『それ以上仰られては、屋形さまに対する愚弄とみなされますぞ』
さすがに愁壱斎の言葉は効き目があったようだった。
千早は小さく溜息を吐いて、告げる。
『いいでしょう。証せというなら、証してみましょう。明日、正午。峻至園に玄鵬一統、ならびに四面家につながる者、あるいは中央霊議廷に席を置く者、すべてを集めなさい』
『峻至園?』
その地名は遵凍も愁壱斎も意外だったようで千早の顔を見つめる。
当主は小さく鼻で笑って。
『あそこには、何もないではありませぬか。ああ、階段はありますか』
『そうね、その前に集まればいいわ』
その後、山本総隊長にも同じ旨の命を飛ばした。
「母上」
気づけば傍らに、理靜が立っていた。千早は思わず苦笑する。
「あら、いつ来たの……」
「母上、伺いたいことがあります」
聞いたことのないほど、決意に満ちた言い様に、千早は目を細めた。
「聞く、わ」
一護にあてがわれた部屋には、理靜に呼び集められた旅禍たちとルキアが待っていた。理靜が告げた地名を、ルキアが思わずきょとんとした表情で繰り返した。
「峻至園? 何もない場所ですよ、あそこは」
「うん。分かってる。今は、ね」
理靜が抱えた山ほどの畳紙を丁寧に下ろした。
畳紙を広げると、綺麗に整えられた着物が現れた。理靜はそれを一つ一つ確認して、仕分けしてゆく。
「これがルキアちゃんと、織姫さんの分ね。ルキアちゃん、織姫さんの着付けよろしく」
「……はい、わかりました」
「雨竜くんは、僕の丈でいいんだけど。チャドくんは、今剣八さんに貸してもらえるように手配してるから」
「わかった」
「………む」
理靜は穏やかに微笑みながら、呆然とした表情を浮かべている一護の前で手を振ってみる。
「お〜い、一護」
「なんだよ、そんなわざとらしくしなくても、起きてる」
昨日、ようやく床から起き上がれるようになった一護は、とはいえまだ本調子とはいかないようで身体を動かすたびに眉を顰めている。理靜はそれを覗き込むながら、
「まだまだ鍛え方が甘いねぇ」
「……理靜こそ、大丈夫かよ。随分酷かったじゃないか」
僅かな時間とはいえ、隊長格二人を敵に回して戦った理靜の傷は一護ほどにないにしろ、かなり酷かったけれど一護とは違い、翌日には一護を見舞いに訪れるほどの快復を見せていた。理靜はにやりと笑って、
「だから、鍛え方が違うからね。まあ…まだ痛むけど、大したことじゃない」
「そうか」
不意に視線を外す従弟の、実は心配したことが照れくささを招いたことを理靜は口にはしないけど理解している。最後に残された畳紙を開いて、理靜は言った。
「はい、一護のはこれ。自分で着付けなんて出来ないだろうから、僕がするよ」
「これは、理靜どの」
ルキアは、畳紙を開いて現れた漆黒の着物を見て、驚く。だが一護たちはその着物がどうやら豪華そうなことはわかったけれど、それ以上の意味は分からない。
「?」
「……随分豪華そうな着物だね」
「む、確かに」
「あ、これって玄鵬さんの家紋だ」
織姫が無邪気に指差した家紋を見て、ルキアの顔色は蒼白になる。
「り、り、理靜どの………」
二羽の鵬が向いあい、車輪梅の一枝を咥える意匠を、太細の二重の雪輪紋が包み、その外側をもう一つの透かし雪輪紋。
「なんだ、この家紋? この前見た、えっと……玄鵬私軍の紋と違うぞ?」
「うん、そうだね」
畳紙から着物一式取り出す理靜の背中に、ルキアがおそるおそる言う。
「理靜どの、この着物は、どなたの……」
「ん? ああ、僕の祖父のものだよ。母上が大事に残しておいてくれたからね。僕のものは身丈が一護には長すぎるだろうからって、出してくれたんだよ」
「へえ、千早姉、物持ちいいんだ」
あっけらかんと言う一護の視界から外れるようにルキアは一人呟いた。
「………玄鵬三輪紋、それもよりによって先代、燐堂さまの着物を……玄鵬八家の分家でしかない、まして跡を襲ったわけではない一護に? どうなっているのだ?」
「あのさ、朽木さん」
ルキアに雨竜が呆れたように言う。
「教えてくれないかな、その独り言。第一、黒崎と理靜さんは」
雨竜は理靜によって閉められた障子を、ちらりと見遣って。
「もういないんだしさ」
「む………」
チャドも、異議と疑問を一言に込めて、大きく頷いた。
数度瞬きをすれば、淡蒼の双眸が急激に力を得る。
「藍染!」
「………もう終わったよ」
飛び起きたことで全身を貫く痛みに冬獅郎は思わず呻いた。千早がゆっくりと肩に手を置いた。
「な、んだと…どういう、ことだよ……千早」
「終わったのよ。藍染は逃亡した。市丸と東仙を伴って、ね」
枕もとに置かれた椅子に座っていた千早は動けない冬獅郎の身体を宥めながら、なんとか横たえさせた。
先肩から情報を聞き、乱菊とともに山本総隊長の指示を受けていたその場に飛び込んできたのは、衆牢に収監中の五番隊副隊長雛森桃の脱走だった。
総隊長の許可を得て、一人で雛森の霊圧を追って清浄塔巨林に飛び込めば。
嫣然と笑う、藍染の姿と。
足元に崩れ落ちた、雛森の呆然とした表情。
怒りに体が震えた。
雛森を傷つけた藍染と、市丸と。
雛森を守れなかった、自分に。
怒りに震えながら、卍解したことは覚えている。
勝負は、一瞬だった。
覚えているのは、卍解の前に聞いた、藍染の言葉。
『吼えると、弱く聞えるよ』
「……くそ……」
「ひどい傷だったんだからね。卯ノ花さんが処置してくれて、本当によかった……桃ちゃんも助かったからね」
「そう、か……あいつ」
助かったのか。
安堵のため息に、千早は小さく頷いて。
痛みでこわばりそうになる筋肉。だが、千早がゆっくりと撫でてくれることで少しだけだが緩んだ。
「もう少し、眠りなさい……ゆっくり寝て……まだ、次の幕はあがってないから」
「次の幕……?」
千早の言葉を反復して、冬獅郎は気づいた。
千早のまとう、その衣装に。
それは玄鵬家の準正装にあたる衣装だった。
漆黒と灰黒色の紗と銀色の帯。
穏やかに、いつものように微笑んで千早は言う。
「そう、次があるのよ。次が、ね」
「………兄、上」
戸惑いながらの呼びかけに、しかし白哉の意識は急激に覚醒する。
ゆっくりと目を開ければ、喜び半分、戸惑い半分のルキアの表情があった。
「時間か」
「はい。ですが、大丈夫なのですか……」
ベッドからゆっくりと降りる白哉の介添えをしながら、ルキアは問う。
白哉は幾分険しい表情のまま、呟くように言う。
「無論、と言いたいが。輿の準備は出来ているのか」
「はい。先ほど出来ました」
決して癒えたとはいえない、戦いの傷。
無理もない。数日前まで起き上がることも出来ないほどの重傷であったのに、いや、今だとて痛みはさほど変わらぬはずなのに、兄はなぜ立っていられるのだろうか。
ルキアは溜息を吐きながら、促されるままに帯を渡す。
そんなルキアを見て、白哉が静かに言った。
「ルキア」
「はい、兄上」
「……………」
その呼びかけに、異論を唱えたいのだとすぐに分かったけれど、ルキアは思わず口を左手で覆った。それから恐る恐る、謝る。
「すみません、あの………」
「いや、仕方ない。無理に直すことはない……」
だがその横顔は寂しげで。
あの日。
藍染との戦いの中で傷ついた白哉は、だが苦しい息の下で、ルキアを呼び寄せた。
そして告げた。
今まで覆い隠しつづけた、真実を。
『ルキア。お前の母は朽木緋真、父は………私だ』
四面家の一、朽木宗家の当主である白哉と、流魂街の片隅にいた緋真が出会ったのは偶然で。
二人が恋に落ち、白哉が反発する自らの母を説得して緋真を妻に迎えたのは、瀞霊廷でも流魂街でも稀な珍事だった。
だが白哉の母は、緋真を決して嫁とは認めなかった。
それ故に、白哉が現魂界に滞在している間に緋真を放逐してしまうことになる。
緋真の行方はふつりと途絶えた。
長らく探しつづけ、その捜索に千早も加わったけれど、行方は杳として知れず。
やがて緋真を厭い続けた母が逝き、母に仕えた侍女が逝く時、残した遺言に白哉は驚愕する。
白哉の留守の時、流魂街の者から恐喝じみた付文が来たのだという。
当主の娘を返して欲しくば、幾ばくかの金銭を。
母はそれを焼き捨てた。
侍女にも硬く口止めし、何もなかったように装った。
『娘がいた……親でありながら、我はそのようなことも知らずにいたのだ』
やがて、流魂街の片隅で病み衰えた緋真の姿を千早が見つける。しかし緋真は白哉の元に戻ることを、激しく拒んだ。
自らの妊娠に気づいて、だが朽木家にも戻れず、緋真は貧困の中で娘を何とか産み落とした。
たった一つ、朽木家から持ち出せたもの、白哉に贈られた朽木の紋、違い月輪に枝付き桜紋が刺繍された手ぬぐいを娘の懐に忍ばせていたという。
その手ぬぐいとともに、娘は失踪したという。
『おそらくは金銭目当ての誘拐だろう……千早どのはそう推測していた』
緋真は娘を探しつづけた。
貧困と、病。
そしてようやく差し出された千早の手も、振り払う。
娘を見つけるまでは、白哉に顔向けできない、と。
だが千早は白哉に緋真の行方を告げた。
数年ぶりに見た妻の変わりように、白哉は愕然とする。
共に娘を探すと説得して、朽木邸に連れ帰ったけれど緋真は日毎、娘を探して流魂街に出かけてゆき。
そのことで病を悪化させて。
『春を待たずに、緋真は逝った……ただ一つ、遺言して』
娘の行き方を探して欲しい。そして見つけたならば。
私を母と呼ばせないで。
私は母と呼ぶには、本当に何もできていない。
過ちばかりを犯してしまったから。
病み衰えて、細くなった妻の手。
白哉はそれを握り締めて、泣いた。
自分が朽木白哉でなかったなら。
愛する者をこれほど悲しませ、姿を知ることなく失うことなどなかったかもしれない。
零れる涙は、二度と開かなかった緋真のやつれた瞼に落ちた。
まるで緋真が泣いているように。
『それゆえに、我は決めた……もし我が娘が見つかったとしても、我が子として迎えることはない……緋真が母として名乗らぬ以上、父もいないのだ』
事情を知る千早は、決して白哉を咎めたりはしなかったけれど、ただ一言問うた。
それでよいのか、と。
よくはない、と白哉は応えた。
良い筈などない。だが、それが、母の思い、緋真の思いを気づかなかった、我が家の諍いを気づかなかった自分への罰だと。
『やがて見つかったお前は……』
なんと、緋真に似ていたことか。
その風貌は、緋真に瓜二つ。
なのに、その目に宿る強い意志は間違いようもなく白哉のもの。