fragment 19





ルキアを呉れ、と千早に言われた時、どんなに言い繕っても心が揺れるのを隠せなかった。
それが何を意味するのか、理解できなかった。
昨夜遅くに現れた千早が、知る者が少ない真実を語る。
ある者から託された崩玉を、千早は浦原喜助に預けたのだという。
そして浦原喜助はその隠し場所としてルキアの偽骸を選んだ。
朽木家の者ならば、何かあっても朽木の者が、そして白哉が動くだろうと思ったのだという。
だが、藍染は喜助の思惑を読んでいた。
中央四十六室を使い、ルキアを捕らえさせた。
冷徹に掟を守ることを良しとする白哉が、四十六室の決定を跳ね除けることなどないと、読んでいたのだろう。
そして実際、白哉は最後の最後まで、逡巡する。
燬皓王が現れても、ともすれば飛び込みそうになる身体を、必死の思いで抑えた。
黒崎一護と戦うことで、叫びだしそうになる思いを自らの中に押し込めた。
だが、最後の最後で白哉は気づく。
何かが、おかしいことに。
双極にルキアの霊圧を感じて戻ったところで、市丸の神槍が始解するところで。
何も考えつかずに、ただ飛び込んだ。
『おかしな、ものよ……掟だ、朽木だ、と守りつづけた思いが、あの時ばかりはどこにもなかった……』
ただ、守りたい。
緋真が残してくれた、大切な娘を。
その思いだけが、白哉を動かしたのだ。
瞠目したまま、身動き一つせずに聞いているルキアに告げる。
『許せ、とはいえぬ。あまりにも惨い仕打ちをしてきたのだから……だが、母は、緋真は許せ。あれは、お前を捜し求めて命を縮めた』
永ければ数千年という自分の寿命の中で、緋真と過ごした日々はわずか十年にも満たなかった。
だが、あまりにも忘れがたき、追憶で。






『すまぬ………』






かつて、妻にも告げた言葉を。
我が子にも、告げる。






『少しずつ、間違ってたのよ』
千早の言葉に、ルキアは濡れた双眸を上げた。
穏やかに、とても優しい表情で千早はルキアの髪を撫でながら言う。
『みんなが、間違ってた。でもどこで間違ったかわからなくて、右往左往しちゃってる。このままじゃあいけないってわかってるけど、何をすればいいか、分からなくなってた』
わかる? と問われて、ルキアは頭を横に振る。
千早は苦笑しながら、
『白哉と緋真ちゃんの出会いは、はじめの一歩だったの。だけど、みんなが少しずつ勘違いしちゃった。悪いほう悪いほうに思いが流れてしまった』
『………千早さま』
『ん?』
『私は、どうすれば、いいんでしょうか』
『それは、ルキアちゃんが決めること。白哉を責めるのも、許すのも、ルキアちゃん次第』
『………母ならば、なんというでしょう』
千早は一瞬考えて。
『そうね。優しい緋真ちゃんなら、笑って言うわ。私は大丈夫ですからって………』
ああ、母はそうやって笑える人だったのだ。
ルキアはふと思った。






「お願いして鳳輦にしていただきました……その方が父上の、お体に触らないと思ったので」
ふと白哉が視線を泳がせて、瞠目する。
視線だけで、ルキアに今再びの呼ばわりを求める。
ルキアは穏やかに笑いながら、手を出した。
「どうぞ、父上。私も、鳳輦に随従させてください」
「………すまない」
白哉の声が、幾分湿ったものだったことを、ルキアはあえて問わなかった。






用意された鳳輦、玄鵬家の供人が十数人で担ぐ輿の中で、一護は落ち着かない様子だった。ゆったりと座っていた千早が首だけ振り返り一護に言った。
「どうしたの?」
「あ、いや……こういう乗り物、乗ったことないからさ」
「うん、私もそんなには使わないよ」
「そうなのか」
少しだけ安堵した様子の一護を見て、理靜は内心だけで苦笑する。
鳳輦は正一位以上しか許されない乗り物だ。つまり四面家以上しか乗らない、かなり正式な乗り物となる。
理靜も鳳輦に乗るのは数年ぶりだ。
千早は一護に、一護と理靜の体調を考えてと説明しているが半分は嘘だ。後続の幾分見た目の豪華さと担ぎ手の人数が劣る葱花輦も正二位以上の乗り物だから、本来は現魂界からの旅禍が乗る乗り物ではない。
「だけどすまねえな。これ、千早姉の父さんの着物なんだろ? 形見じゃないのかよ」
「そうだけどね。形見だったらもっといっぱいあるから。それは仕立てはいいから、やっぱり活かさないとね」
「……そんなものか」
「使える者がいるなら、使ってもらったほうがいいもの」
光沢のある漆黒の単、その上に羽織った袍も薄い紗の漆黒、薄い灰白の糸で縫い取られた玄鵬三雪輪紋が目立っていた。
俺、衣装に負けてるわと笑う一護に理靜は思わず言った。
「大丈夫、そのぐらいの衣装に負けるような顔してないから」
「……理靜、もうちっと言い方」
「ないよ。十分、褒め言葉だからね」






「わからない」
久しぶりに聞いた、チャドの言葉に同じ葱花輦に乗っていた雨竜と織姫が振り返った。
「なにが? チャドくん」
「……なぜ、一護があんな服を着せられる。なぜ、峻至園とやらに行く必要がある?」
「さあ?」
「僕たちに分からないんだ。多分、黒崎にも分かってないと思うよ」
溜息混じりにそう言ってみて。
雨竜は先刻のルキアの言葉を思い出していた。
『玄鵬三雪輪紋は、玄鵬宗家直系しか使えない。つまり今は、千早さまと理靜どのだけだ。それも理靜の祖父というのは先代当主、玄鵬燐堂の袍で。袍とは、準正装にあたる。とはいっても、正装は数年に一度しか着ることがない。準正装でも年に一度あるかないか、ぐらいの衣装だ』
『そんなのを、何で一護に着せてるんだ?』
結局ルキアは結論が出せなかった。
雨竜は考え込む。
動揺するルキアとは違い、理靜は落ち着き払って一護に衣装を着付けていた。ということは、理靜は衣装の意味も、一護が着させられた理由も理解しているのだ。
『峻至園って、不思議なところなの。統学院の頃、数回行ったが何もないのだ。瀞霊廷で最も高い丘の上にあるのが』
峻至園の話も思い出す。
何もない、ところだという。
広大な、空き地だと。
背の低い草が更地に生えているだけの。
そして不思議なことに、一つだけあるのが。
『階段があるのだ』
『……は?』
『だから、階段だ。5段ほどの石の階段が。だがその先には何もない。何もないのに、階段だけがあるのだ』
瀞霊廷の不思議の一つだ、とルキアは言っていた。
何もない、ただ意味不明の階段がある場所。
そこに、一護は千早と理靜親子に伴われて、赴く。
「………石田、井上」
「なんだ」
「なに、チャドくん」
「………何かあったら、一護を連れて逃げるぞ」
「え」
思いもしなかったチャドの言葉に、二人は驚くが、すぐに力強く頷いた。
「黒崎くん、まだ本調子じゃないし」
「……そう、だな。叔母や従兄とはいえ……」
敵かもしれない、という言葉はさすがに飲み込んで言えなかった。
「様子は、見た方がいい」
チャドの再びの言葉に二人は、再び頷いた。






「…………千早姉」
「ん?」
「…………ここ、なんだよ」
「あれ? 理靜が説明しなかった?」
「いや……峻至園ってところに行くっていうのは聞いてる」
「うん。だからここが、峻至園だよ」
「は?」
鳳輦から降りれば、そこには何もなかった。
「うわあ、綺麗に何もねえ」
「一護」
促されて進む。
何もないとは、建造物が何もない、という意味で。すぐに一護の周りには人垣が出来た。
いずれも一護が着ているような衣装で、だが少しずつ色が違っている。
驚愕と不審の視線を一護に向けていることだけは一護にも理解できたが、居心地の悪さだけが先行する。
「……理靜」
「気にしないで。瀞霊廷中の貴族が集まってきてるだけだから」
いつもの理靜の穏やかな口調ではなく、少しだけ固く感じたがすぐに千早に呼ばれる。
「一護。あたしの横を歩いてね」
「おう」
促されて千早の横を歩けば、小さなどよめきがあがる。一層の居心地の悪さに俯こうとする一護に千早はいつもと同じ口調で、
「一護、俯かない。あなたが萎縮する必要は何一つないんだから。いつもの、君でいること」
「……わかった」
「そうそう、少し小生意気なぐらいな方が一護らしい」
「あんだよ、そりゃ」
不貞腐れて辺りを見回せば、見知った顔を見つけて一護は思わず安堵の表情を浮かべた。
「なんだ、護廷衆も来てるんじゃないか」
「それはそうだろう。俺たちは玄鵬家直属だからな。千早どのの護衛も兼ねて、だ」
浮竹が千早に小さく一礼して、一護に話し掛ける。ルキアの直属の上司であるという浮竹は、一護の見舞いに来て、何度もルキアを助けてくれた感謝を一護に言ってくれた。
「身体の調子はどうだい、黒崎くん」
「あ〜、まあ普通にする分には」
「そうかい」
聞きなれた低い声に一護は肩を竦め、ゆっくりと振り返った。
「………おう、剣八じゃないかよ」
「おう。元気になったみてえだな」
自分より背の高い更木剣八を恐る恐る見上げて、一護はひきつった笑みを浮かべる。
「ま、まあな」
剣八も何度か見舞いに来た。
その上、見舞いの言葉まで決まっているのだ。
おい、元気になったか?
そうか、じゃあ俺と戦え。
その口調は、冗談には決して思えず。
「元気になったなら」
「今日はダメですよ、剣八さん」
意外にも理靜が剣八を制した。
剣八はじろりと理靜を見下ろし。
「別にお前でもいいがな。俺の暇潰しになるんだったら」
「いいですよ。でも、また今度です」
珍しく視線を交わす理靜に、今度は意外にも剣八が怯んだ。
「あ? なんだなんだ、理靜が乗り気だぞ。千早」
「ん?」
千早は首だけ振り返り、剣八に満面の笑みを見せる。
「あ〜、相手してやってよ」
「ええ。お願いします。一度」
ぐっと視線に力を込めて、理靜が続けた。
「ちゃんと、時間、取りますから」
その言葉に、近くにいた浮竹も春水も、一瞬言葉に詰まった。
『斬神の息子』と称されるのは、ただの七光りではない。
理靜も幼い頃から千早に鍛えられ、その素質は底知れぬと言われている。
数日前、二人の隊長を相手に回して戦っていたことからも、その強さは分かろうものだ。
だが決して争いを好む性質ではないために、剣八に剣を交えろと追いかけられれば、今までは逃げ回っていた。
どういう心境の変化か。
息子の言葉を背に聞きながら、千早は微笑む。
一瞬怯んだ剣八は、しかしそれだけでは終わらない。
「おい、千早」
「あとでね。まずはここでしなくちゃいけないことがあるから」
千早はまっすぐに進み、一護をある場所に誘った。
「………なんだよ、これ」
「うん。何に見える?」
「階段」
「そうよ、階段」
石で出来ている階段。
5段ほどの、階段だ。それ以上表現のしようがないほどの。
だが明らかに違和感があった。
辺りを見回しても、草原しかなくて。
何もない場所に、5段の階段があった。
一護は千早に促されてその階段に登る。
「えっと……」
「ほら上まで上まで」
言われるがまま階段を上り、振り返れば草原に数千とも思える人の頭が見えた。
そのすべてが、自分を注視していた。
護廷衆の隊長格が。
ルキアに支えられた白哉が。
空鶴と岩鷲が。
見慣れない衣装を身に着けた夜一が。
少し離れた場所から、チャドと織姫と雨竜が。
そして階段のすぐ下で千早と理靜が。
一護は慌てて階段を降りかける。
「一護」
足を止めたのは、千早の声だった。
「一護、心を澄まして」
「……え?」
「心を研ぎ澄まして。なにか、聞えない?」
言われるまま、心を落ち着ける。
ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥、心の奥に、円を描く。
それは岩鷲が教えてくれた方法だった。
大きな、できるだけ黒い円。






ぶん。
突然、一護の身体から沸き立った、甚大な霊圧。
多くの貴族が、霊力を持っているはずの貴族たちが霊圧に圧倒されて動けなくなる。
理靜がその様子を見て、声をあげた。
「母上」
「まだよ」
だが千早は平然と、瞑目したままの一護を見る。
何かを捉えようとしている。
やがて、ゆっくりと目が開いた。
千早は黙然とそれを見つめて、一護の言葉を待った。
「………何かが、呼んでる」
誰かが、息を飲んだ。
千早は動じず、穏やかに一護に言う。
「一護を?」
「ああ……」
「他には、何か言ってない?」
一瞬考えて、一護は応えた。
「開けて、って」
「うん」
「開けて、いいのか?」
「いいよ」
「………分かった」
それだけで、一護と千早の言葉はつながった。
一護は背筋を伸ばし、5段の階段の先にある、中空を見つめて。
ゆっくりと、両手を伸ばした。
そして何かを掴み。
それは何か、扉の取っ手を掴む仕草で。
ゆっくりゆっくりと手元に引き寄せ、自分の身体からゆっくりと引き離していく。
限界まで両手が引き離された瞬間だった。
峻至園と呼ばれるその場所に、突風が吹き荒れたのは。
あまりの風の勢いにほとんどの者が風に抗しようと、身体を飛ばされまいと身体をかがめる。
だが、その風に理由があることを知っている者は、吹き荒れる風の中で見た。
ガラス質の割れる音に続いて、峻至園に急激に広がっていった、今まで隠されていた巨大な建造物の姿に。
予想していた理靜も、風と音の勢いに負けて、一瞬目を閉じた。
その一瞬、その場所にその建造物は、完成された姿を見せていた。
風が止んで。
衝撃を伴う沈黙が訪れる。
何より呆気に取られていたのは、一護だった。
あまりのことに、言葉がない。
口を開き、水を失った鯉のような口の動きだと、理靜はふと思う。
目の前に広がっていたのは。
それまでなかった光景。
巨大な建造物が、広がっていた。
何もなかった峻至園に、今は違う光景。
峻至園を覆い尽くすように、広がった世界。
おそらく瀞霊廷のそれよりも、遥かに面積は多いはず。
いずれは瀞霊廷だけでなく、すべての機能をここに移すことを考えれば、瀞霊廷のささやかな機能では対応できないことを思い出して、理靜は思わず笑った。
理靜は小さな声、千早にだけ届くような声で呟いた。
「いいんですか、これくらいで」
応えはすぐに変える。
「今はこれでいいのだけれど」
理靜はぼんやりとそれらを見上げていた一護に言った。
「一護」
「………りせい」
「これが霊王廷だよ」
千早がゆっくりと跪く。右足を膝立て、背筋を伸ばした。左手を握り締め、床につけて。階段上に立つ一護を見上げた。理靜もそれに従う。
気づけば白哉も空鶴も、そして夜一までも同じ体勢で一護を見上げていて、一護は慌てて声を上げようとしたが千早の燐とした声が機先を制した。
「黒崎、一護」
「……………なんだよ」
「霊王廷は、霊王のみが出現させることのできる、霊王の館。霊王廷の復活を以って、あなたは尸魂界に示された」
「ちょっと、千早姉」
「5代、霊王陛下」
そして千早はゆっくりと頭を垂れた。
理靜も。
白哉も。
夜一も。
空鶴も。
それに促されるように、ルキアも岩鷲も、最敬礼を取って頭を下げる。
浮竹も、小さく舌打ちした剣八も。
そして峻至園にいた貴族たち、議員たち、すべてが跪き、頭を下げる。
「…………えっと、石田くん」
「……よく分からないけど、僕らはいいんじゃないかな。旅禍、だから」
「む…そうだな」
三人を除く峻至園の全員が跪く。
自分の目に入るほぼ全員が自分に向って跪いている。日常では絶対にありえない状況に、一護は軽くパニックに陥った。叫びだしそうな衝動を抑えて、一番近くの千早にこっそりと声をかけた。
「千早、姉」
「……」
「あのさ」
「……全員、最敬礼した?」
「……石田たち以外は」
「そう」
あっさりと頭を上げて。千早はいつもの笑顔で、
「どうかした?」
「いや、どうかした? じゃなくて、この状況。俺にも分かるように説明してくれないか? それに何より」
続いた言葉に、周りの者は最敬礼のまま動けなくなる。
「霊王陛下って、なんだよ」






なに?
どういう、ことだ?
誰かの心の叫び、だった。






「………理靜?」
「僕は説明した記憶ないですね」
「………夜一?」
「そうじゃの、理靜がしているとばかり」
「一心兄上がしているはずもないから……あらまあ」
千早は満面の笑みで、
「誰も、一護にこの話してなかったのね」
「なんじゃそりゃ!」
一護の叫びが、硬直して動けない人々の上を抜けていった。




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