「俺が霊王っていうのになったってことだけは、分かった」
座り込んだ一護の第一声だった。
千早と理靜が思わず吹き出す。
くつくつと笑う母子に一護が眉を顰めて、半ば怒鳴るように言った。
「あんだよ、それだけじゃあダメなのかよ」
「いや、そんなことはないよ。寧ろ、その理解が一番難しいんだから……って母上、もう許してあげてくださいよ」
理靜が宥めるが、千早はふるふると身体を震わせながら笑う。
「…やっぱり、一護らしいわ」
「だから、なんなんだよ!」
霊王だってことは分かったけど、その先はどうなんだよ。
一護に問われて、今度は理靜がきょとんとする。
「その先?」
「だから、その先。これからどうするんだよ」
「あ、ゲームだと勇者が決まったら悪者退治に行くんだよね」
むぐむぐと茶菓子を頬張っていた織姫が思い出したように言った。
笑い泣きの涙を拭った千早も、ぽんと手を打って、
「ああ、桃太郎の鬼退治ね」
「喩えが古いです、母上」
「う〜ん……とりあえずは、すぐにしなきゃいけないことはないかな」
あっさりと答えられたことに、一護はそれが答えと理解できず。
「………は?」
「ん? そうだね、みんなを一度現魂界に戻して……戴冠式の準備でもしようか?」
「………ちょっと待て」
「あ〜、ここの引越し! う〜ん、玄鵬私軍、こんなことで動いてくれるかな? 引越しの荷物運び? 遵兄に怒られそうな気がするし……」
「だから、ちょっと待てって!」
完全に叔母と甥の二人漫才になったのを、ルキアが見つめて白哉に言う。
「…仲、良いんですね」
「うむ。そのようだ」
「お茶、おつぎします」
「頼む」
怒りがくすぶる一護と宥める理靜、状況がイマイチ飲みこめない雨竜、チャド、織姫と状態が良くない白哉、付き添うルキアがとりあえず、と霊王廷を出た。
空鶴も用事があると、岩鷲を連れて姿を消した。
「千早」
「ん?」
振り返れば、見苦しくない程度に礼装を着崩した夜一が笑う。
「儂は先に現魂界へ。少しでも一心どのと喜助に状況を説明してやったほうがよかろう」
「あ〜、そうだね」
「じゃあな。あとのことは、家のものに任せるゆえ」
「うん」
夜一が姿を消せば、とてつもなく広い広間に、千早一人が取り残された。
硝子の器に、再び茶を淹れて一人飲む。
天井を見上げても、燦燦と陽光が差し込むだけ。
「静かだね……」
「そうだな。だが、人が住むようになれば、ここも賑やかになる」
「護廷衆は入り口に近いところがよろしかろう。いざ出動という時に、動き易い故に。鬼道衆に命じて穿界門を拵えなくては」
「中央霊議廷はもう少し時間を置いて動かしたほうがよいかな」
不意に現れ、得手勝手に意見を述べる重鎮たちに千早は思わず苦笑した。
「まったく、玄鵬ってまとまりないわね」
「何を言う、屋形さま」
最初に毛氈にどかりと腰をかけたのは安芸津愁壱斎。
「屋形さまの一声で、玄鵬私軍全軍が動けた。このようなことは玄鵬千早、あなたでなくては為しえなかったこと」
「お世辞も上手いね、愁じい」
くすりと笑い、千早は愁壱斎の前に硝子の器を置いて、茶を淹れた。
「遵兄も、重じいも座ったら?」
「うむ」
「いただこう」
死覇装の山本は毛氈に、遵凍は千早に促されて、先ほどまで白哉が座っていた座椅子に腰掛けた。
千早が差し出す茶を一服楽しんで。
「……しかし、こうも広いとは」
「そうか、重じいはこの中で一番の長生きさんだから、もっといろんな話を先の人から聞いてるのね」
山本は茶菓子に手を伸ばし、一つ平らげてから笑んだ。
「峻至園に霊王廷が眠るという話は、聞いたことがあったがこれほど壮麗とは」
「とはいえ、ここに瀞霊廷全部を詰め込むとなると、ちぃっと」
遵凍が高い天井を見上げながら、
苦しいなと呟くのを千早は頷いた。
「そうね」
「………しかし、黒崎から霊王が生まれるとはよもやと思わなんだ」
愁壱斎の言葉を、遵凍が笑い飛ばす。
「そうか? 安芸津のじいさま、そりゃあ一心の親父の話か、お袋の話か?」
「そのようなことは申しておらぬわ。ただ」
玄鵬宗家から、霊王は更臨されると思うておった。
愁壱斎の言葉に、山本も頷く。
千早はずっと微笑を浮かべていたけれど、小さく溜息を吐きながら。
「あたしは……あの子なら、世界を委ねていいって思ったの」
「屋形さま」
「あんなにも他人を守ることに、必死になれる、一護なら」
遵凍が苦笑を隠さないままに、言った。
「あの一心の息子だからな」
「そうね」
千早は一人ごとのように、呟いた。
「本当に、そうね………」
藍染は、その男の言葉を聞いて、嗤う。
「峻至園に霊王廷、かい。で、それを成し遂げたのが」
「………黒崎、一護というものだそうです」
感情のない言葉に、藍染はその口の端に冷酷にも見える笑みを浮かべて、
「黒崎一護……聞いたことがある名前だな……」
「藍染さま、あの折に切り捨てられた旅禍の少年です」
「旅禍?」
東仙に言われて、藍染は一瞬視線を泳がせた。
朽木ルキアの魂魄から崩玉を奪った時、確か……。
「ああ、阿散井くんと一緒にいた」
「あの子が霊王やったの?」
純粋に驚いたように声を上げるのは、市丸だった。
細い目で、淡々と報告する男の顔を覗き込み、
「それ、ほんまの話? ウルキオラ」
「……そうです」
「ふ〜ん、じゃああの子、玄鵬一統やったってこと? 道理で、理靜くんが必死になってはったわけや」
『ルキアを離せ、藍染!』
いつになく低く、吼えるように告げられた、玄鵬理靜にしては激しい言葉。
あれは、朽木ルキアを守るためだけではなく。
「あ〜、そういえば藍染はん、あの子、ばっさり斬り捨てはったなぁ。だから理靜くん、動かれへんかったんか」
市丸がふむふむと頷く。
藍染は静かに嗤い、
「どうでもいいことだ。私にとっては」
ゆったりと立ち上がり、すぐ傍の窓から広がる景色を見つめる。
「霊王など、意味がない」
世界は私が壊して、
私が創出するのだから。
壊れる世界の王になったとて、意味などない。
藍染の言葉に、ウルキオラと呼ばれた男と東仙は軽く頭を下げて敬意を表し、
市丸は肩を竦めて、笑った。
「ほんま、藍染はんは恐いわぁ」
千早は、四阿で杯を傾ける。
今後の相談を山本、愁壱斎、遵凍として帰って来たのは深更だった。
千早付きの供人が慌しく夕食と就寝の支度をしてくれたので、千早は四阿で一献傾けることにしたのだ。
程よい暖かさに暖められた酒は、千早の手にも喉にも心地よかった。
柔らかい酔いが身体を包み始めた頃、理靜の霊圧が家から離れていくのを感じて千早は苦笑する。
「なんでこっそり出て行くかなぁ」
密かに出て行かなくても、千早には理靜の行き場所がわかっている。
夕べ、背筋を伸ばして、まっすぐな視線を向けて、息子は問うた。
初めての、問いだった。
千早は決めていた。
いずれ息子に問われれば、答えようと。
だが、息子が自分以外にそれを問えば、答えることのないように、周囲には強く口止めしてきた。だが、口止めを強いた者達に問うても、理靜がその問いを誰かに投げかけた様子はなかった。
だからこそ、千早は嬉しかった。
まっすぐな視線で、問う息子の姿が。
『母上。僕の父親は誰ですか』
だから千早は答えた。
理靜の父親の名前を。
千早はすべてを語った。
どうして理靜を生んだのか。
どうして理靜に父親の名前を告げなかったのか。
『……理解して、とは言えないわ。これは、あたしの我儘なんだから。それを……あなたに強いてきただけ』
ただ黙って息子の顔を見れば。
責めることも、激することもなく理靜は受け入れて。
黙って、力強く頷いた。
今思えば、それが理靜にとって精一杯の答えだったろう。
『あの人と、話してきます』
そう言っていたのは夕刻。
だから父親の元に向うつもりだろう。
決して優しいとは言えない、男だ。
だが、久方ぶりに会う千早が胸に抱いた赤子を、『理靜と名づけた』と告げただけで、その赤子が自分の息子であると理解し、受け入れた男。
『言わないでね。あの子があたしに聞くまで』
そう言えば、千早の好きにすればいいと笑っていた男。
今宵、あの男が理靜の言葉にどう答えるか、少し気になりながら千早は杯を傾けた。
そして階段をゆっくりと下りてくる足音に、千早は声を上げた。
「眠れない? 一護」
「………おう」
「じゃあ一杯やる?」
「………いらねえ」
「そう。じゃあ、お茶でも用意しようかしら」
千早が供人を呼び寄せ、数人の供人がてきぱきと準備を整える様子や、物珍しい周りの風景に一護は興味深そうに見つめていた。
「すごいな、ここ。半分池の中かよ」
「強化硝子って言うの? 霊圧を永久的に含む板を間に挟みこんだ硝子でできているそうよ。体が弱かった母の慰めにって父が作らせたんだって」
来た時と同じほど密やかに供人たちは姿を消した。
一護に茶杯を差し出して、
「どうぞ。寝る前に飲むお茶だから、目が冴えることはないと思うよ」
「じゃあもらう」
一口すすって、一護は数回瞬きする。
「匂いは甘いのに、甘くないんだな」
「うん、果物の匂いをつけてあるのよ。霊王廷でも似たようなものを飲んだでしょ。芳香茶って言うの」
千早の言葉に、一護は一瞬動きを止めて。
「………千早姉」
「うん」
「聞きたいことがある」
「うん」
「……笑わずに聞いてくれ」
「うん」
「俺は、その、霊王って奴は本当に何をすべきなんだ?」
千早の答えは明確で。
「一護が今までしてきたとおりでいいのよ」
同じ答えを霊王廷でも返したが、一護は決して納得しなかったのだ。
「今までって、そんな」
「ねえ、一護」
今度は千早が問う。
「じゃあ聞くわ。あなたはあたしに言った。死神代行をなんでしているか、答えたわよね」
「………ああ」
「死神代行、霊王。立場が変われば、することも全く違ってくるのかしら」
「…………」
「先の霊王が長逝なさって、すでに5000年。瀞霊廷最年長の重じいですら、2500歳。先の霊王の姿を直接見たものも、もちろん霊王たるものの心得など、誰が知っているというの?」
「ないのか」
「一護、霊王にマニュアルなんてない。むしろ、あたしたちは霊王がどこから生まれるか、それについては聞かされてきたけれど、霊王が何をすべきなのかは、漠然としか分からないのよ」
千早は一護を見つめて。
「ねえ、一護。あたしは言ったよね。霊王とは穿界門を維持する者。穿界門は世界を隔てるもの。世界がなぜ、隔てられているのか。それをよく考えて」
「虚が入ってくるからじゃねえか」
明確な一護の答えに、千早は首を横に振った。
「違う」
「…………」
「だって、穿界門があっても虚は尸魂界に入ってくるでしょ」
なあ、千早。
虚は、悪いだけの存在なのかもしれないな。
幼い千早を膝の上に乗せて、父は呟くように、そして自らに語りかけるように言った。
千早は小首を傾げて、父・燐堂の顔を見上げた。
どういう意味? 父上。
ん? そうだな。もともと同じ魂魄から生まれるのに、たった一つ歯車がずれただけで虚になるか、整の魂魄として尸魂界に来るか、そこに大きな違いがあるだろう?
……わかんない。
それはそうだ。
燐堂は笑って、千早の頭を撫でた。
自分よりも幾分栗色の強い色合い、艶やかな髪を撫でながら燐堂は呟いた。
霊王でなくては、真に理解できないことだからな。
「答えは、霊王でないと見出せないのよ」
「………よくわかんねえ」
「そうね。それに虚界にある虚は、愚かで救いようのない存在だけではないわよ」
あまりにも確信に満ちた言葉に、一護は眉を顰めた。
「知ってるみたいだな」
「うん」
千早さん、あなたはあたしが会った死神の、誰にも似ていないわね。
微笑んだ、女性の頭を覆うのは、虚の徴。
千早も微笑み返して、答えた。
あなたもよ。あなたみたいな虚に、あたしは会ったことないもの。
久方、会っていない。
だが、千早はふと彼女の姿と声を思い出して、眉を顰めた。
藍染と市丸、東仙を守るために、尸魂界に侵入してきた、反膜。
反膜が放たれた先には、世界の割れ目が見えていた。
そして見えた、蠢く存在。
そこが虚界であることは、一目瞭然だった。
だったとしたら。
藍染は、虚界にいる。
それも、反膜を放つことができるほどの存在を味方にしている。
虚界の変化。
千早の表情の変化に、一護が問う。
「千早姉」
「ごめん、嫌な考え思いついたから」
「……藍染、かよ」
一護の答えに千早は頷く。
一護は憮然としたまま、茶杯を口に運んだ。
「あいつは、何をしたいんだ? よくわかんねえし……」
「そうね、まだ瀞霊廷のあっちこっちで何かをしていたみたいだから。それをちゃんと調べてみないと、惣右介が何をしたかったのか、わからないわ」
私は天に立つ。
さようなら、私を理解しなかった人。
反膜に包まれた藍染の、最後の言葉は千早に向けられたものだった。
まるで千早の思いは全て無駄だったのだと、否定し、卑下し、揶揄するような。
だがそれでも。
千早は、藍染惣右介を否定することは出来ない。
そうしてしまえば、同じだから。
かつての、藍染慎之介と。
「惣右介はね、可愛そうな子どもだった」
ぽつりと言われて、一護が憮然と返す。
「かわいそう?」
「うん。昔、あたし、殺されそうになってね。惣右介のおじいちゃんに」
さらりと告げられた、重い過去に一護が絶句する。
「な……」
「だから、惣右介のおじいちゃんには死んでもらわなくちゃいけなかったの」
千早が罪を問うたのは、手を下した本人だけ。
なのに。
罪を償うのは、本人だけではなく。
家族も、身内も、すべての者の上に重くのしかかる、罪の意識と、縁者を排除しようとする思い。
そして没落した藍染家の中で標的とされたのが、幼い惣右介だった。
僕はどうして生きているの?
涙を一筋零れ落ちたことに気づかないまま、幼い惣右介は千早の顔を見上げていた。
「だけど、すべてを守ることをあたしは出来なかったし、しなかったの」
玄鵬宗家が藍染家に関わるのはおかしいと、藍染家やその他の家から非難された。
保護することは簡単だった。
だけど非難もあって自分の手元には置けず、惣右介の希望もあって寄宿舎もある真央霊術院に入学させた。
その頃護廷衆十番隊隊長だった千早は、何かにつけて統学院を覗きに行くようにして、月に一度は惣右介の様子を伺えば、大人しく自分から話すことが稀だった少年が次第に闊達に成長していく様子が見受けられて、本当に嬉しかったのだ。
「なにか、あったんだと思うの」
「………千早姉は優しいな」
「ん?」
「………殺されかかったんだろ、あいつのじいちゃんに」
「そうね」
「俺なら、殺されかかった奴の孫なんて」
「一護。あたしは、玄鵬宗家の嗣の姫をやってたことも、当主代行もして、今は屋形さまって呼ばれているんだよ。個人的な感情を押し殺して、自分に嘘をついてでもしなきゃいけないこともある」
穏やかに話す叔母の、おそらくは抱えていた感情の嵐を思い至って、一護は首を振った。
「………そういうの、全部飲み込むのが大人かよ」
「そうよ。そうやってあたしたちは、四面家を維持してきた。白哉も、夜一も、空鶴も。その四面家の当主の上に立つのが」
あなたよ、一護。
千早の言葉を聞きながら、一護は茶杯を口に運ぶ。
甘い香りの芳香茶は、しかし喉の奥に何か苦さを残しているような、そんな錯覚を覚えた。