011:薄氷
はく‐ひょう【薄氷】
薄く張った氷。うすごおり。
「あら、まだ氷が残ってます」
控えめな声に、白哉はゆっくりと指差す方を見た。
朝には幾分遅く、しかし昼にはまだ時間がある。
初春にしては寒い日だった。
だからだろう、妻の細い指が指す先に未だ溶けない氷が池に浮かんでいたのは。
「冷えるな……入ろうか」
「はい」
促されるまま、妻は庭から上がる。
庭から上がりながら、白哉はふと声を上げた。
「緋真」
「はい?」
先に上がった妻が振り返り、何の呼ばわりか分からずに小首を傾げる様子に白哉は静かに言った。
「明後日からしばらく、現世だ」
「まあ……それは大変ですわね」
静かな答えに、白哉は一瞬言いよどむ。
「……大丈夫、か?」
「はい?」
『おいおい、大丈夫かい? お前さんところ、まだ揉めてるんじゃないのかい?』
隊首会で、山本総隊長に現世行きを命じられた白哉に声をかけたのは京楽だった。白哉は目を細めて答えた。
『何の話だ?』
『家の話だよ。オカアサマと、オクサマだよ』
『………緋真は問題を起こしたりはしない』
『そりゃそうだ。噂によれば、ずいぶん温柔な人柄らしいじゃねえか。それはいいんだよ』
京楽が密やかに耳元に囁く。
『だから、いない間にオカアサマのヨメイビリが』
『……あったとしても、兄には関係の無いことだ』
密やかに、しかし強く言い放たれて、京楽は肩を竦めて去っていった。
だが、京楽の残した言葉は白哉の心配でもあった。
緋真を妻に迎えるとき、朽木一族の中でもっとも反対したのは母だった。
流魂街出身者を四面家である朽木家の、それも総領の妻に迎えることなど、自分自身も大貴族の娘であり、総領の妻にと望まれて朽木家に嫁いだ母は理解できなかったのだ。だから、大人しい緋真を時折嘲っていることは知っていた。
だが緋真から、そんな報告や母に対する非難を聞いたことがなかった。
だから時折母をそれとなく諌める程度だったのだが。
ながきに渡り、家を空けるとなると。
「そなたが望むなら……玄鵬家に身を寄せても」
玄鵬家当主千早は、緋真を気に入っている様子で時折尋ねてきたりする。今度の白哉の任務が決まったあとも、それとなく声をかけてきた。
『緋真ちゃんが望むなら、しばらくうちに来てもらってもいいけど? 名目は四面家同士の交流を深めるため、でもなんでもいいから』
「白哉さま」
珍しく強い口調で呼ばわれて、白哉は顔を上げた。
「大丈夫、ですわ。白哉さま。私はここで、朽木家で白哉さまのお帰りをお待ちしております」
たおやかで。
だが、その実は決して折れることのないようなしなやかな竹のような、心の強さ。
その緋真の強さに、白哉は心打たれた。
「そうか」
「はい。ですから、心置きなく励まれますよう」
深々と頭を下げた緋真の、白い項を見つめながら白哉はゆっくりと言う。
「わかった……」
そうして、白哉は現世に向かう。
緋真と再び見えるまでに、いくつもの痛嘆が横たわることも知らぬまま。