016:虚無





きょ‐む【虚無】
何物もなく、むなしいこと。空虚。



血の臭い。
紅い、世界。
それだけが、幼い彼女の世界のすべてだった。
それがあまりに小さな、そして悲しい世界であることを、彼女は知らなかった。



そんな彼女に、新しい世界を、名前を与えたのは、一人の猛々しい男だった。



「やちる?」
「……そうだ。やちる、だ。お前の名前にすればいい」
俺の、こうありたいと思う、奴の名前だ。
不敵に笑いながら告げられた名前に、桃色の髪の少女は小さく頷いた。
そして与えられた名前を呟く。
「…やちる」
「ああ」
「……あたし、やちる」
満面の笑みで、感謝を告げれば。
男は困ったように笑って、くしゃりと頭を撫でてくれた。
「俺と一緒に来るってやつに、名前もなにもないのは不便すぎるからな。お前が気に入ったなら使え」
「うん。あたし、やちるになる」



昏々と眠りつづける剣八を、千早は見下ろす。
その顔には、何かを押し殺したような表情しか見えない。
そんな千早の袖をひいて、やちるが言う。
「ちはや、ちはやも剣ちゃんと遊んであげてね」
あどけない言葉に、千早は黙然とやちるを見つめる。
桃色の髪、深青の双眸の少女は言葉のようにあどけない表情を、千早に向けた。
「ちはや、剣ちゃんのこと、好き?」
「………わからないわね」
「そうなんだ」
「……やちるは、好きなの?」
「やちるは」
さっきまでのあどけない表情はどこへ行ったのか、決然と少女は顔を上げる。
「やちるは、剣ちゃんに新しい世界を貰ったの」
「新しい、世界?」
「名前を、もらったの。だからどこまでも剣ちゃんと一緒にいる」
強い言葉に、千早はふんわりと笑った。
「そう」
「うん」
「なら、やちるはきっと幸せなのね」



幼い少女は、知らなかった。
名前がない、ということは。
その存在自体が否定されているということ。
空虚な、モノでしかないのだ。
そんな存在に、猛々しい男は名前を与え、世界を与えた。
それがどれほどの意味を持っているのか、きっと知らない。
少女は、世界を得たからこそ、男について行く。
そこにさらにひろがる世界を見たからこそ。



お前の名前は、八千流。
やちる、だ。



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