019:無音





む‐おん【無音】
音がしないこと。音が聞こえないこと。



何も、ない。
何もない、世界。
常闇の世界に、男はいる。
そこが、男の世界。
男の世界の、全てだった。



「あ?」
『お前はバカか』
『少しは思考するものだ』
同時に二人…二匹にとどめをさされて、恋次は言葉を飲み込む。
「……なんだよ、そりゃあ」
不意に起きた疑問だった。
斬魄刀の、世界を知りたかっただけなのだ。
宵闇の、余興に過ぎなかった。
ふらりと具象化した自分の斬魄刀、蛇尾丸を見て思ったことを口にすれば、

『何もない』
『何があると思ってんだよ』
すげもなく返されて、混乱すれば頭の狒々と尾の蛇、二匹に思い切り貶された。
「ちょっと待てよ、意味わかんねえ」
『……我らが主はこれほど、とは』
『おい、狒々。俺は面倒くせえよ、教えてやれよ。このバカに』
『……仕方あるまい』
言われように不貞腐れてしまった恋次だったけれども。
『浅打から、我らは主の霊圧を得て、成長する。そこに初めて……姿を得ることができる。それは簡単に言えば、霊子の結合だ。それゆえに……具象化以外に本来は姿を持てぬ』
「へ? そうなのか?」
『………意識はある。声もある。だが、姿は持たぬ。それ故に、世界はここにしかない』
動物の姿ゆえに、その顔に表情は見えない。
ただ、狒々の顔に幾ばくか悲しみが見えたのは、なぜだろう。
『意識を得た、斬魄刀はほとんどの場合、自ら主に話し掛ける…如何せん、それに気づく主は少ない。か細い声を成長させるには、主の高い霊圧が必要だからな』
「へえ、じゃあ俺がお前らの声を聞いたのは、どっちだよ」
恋次が揶揄するように言えば、狒々が応える。
『我らは常には声を上げていない。主がそれに達したとき、初めて声を上げた』
『あん時のお前の反応、まだ覚えてるぜ』
くつくつと蛇が笑う。恋次は渋面になる。思いもしない時、場所で不意に『声』を聞いて、激しく狼狽したことを思い出したからだ。
「悪かったな」
『姿も無く、声をかける故にほとんどの主は気の所為と、最初は気にもとめぬ。だが、主はよく我らの声だと気づいた』
それほどに、我らの世界は狭いのだ。そこは常闇にすぎないから。
狒々の言葉に、恋次は小さく溜息をついた。
「そうか」
『だがな、その常闇に耐えて待つ者もいる。自らの名前を呼ぶ主を待つことを、心にかけて』
それだけを心の支えに。
永遠とも思える時を、常闇の底で過ごす者を狒々は、蛇は知っている。



男は、目を閉じる。
だが目を閉じても、開いても、見える世界は同じ。
もうどれほど、このぬばたまの世界を見てきたか。
未来永劫、かもしれない。
だが、かつてのように自分を引き上げてくれる、力強く名前を呼ぶ者がいるかもしれない。
『お前は諦めるなよ、ザンゲツ』
そう笑いながら、かつての主が息を引き取ったのは、遥か昔。
その言葉を、信じて時を待つ。
いつか、自分の名前を呼ぶ者を。



ザンゲツは、未だ眠る。
音もない色もない、世界に。



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