022:困惑
こん‐わく【困惑】
どうしてよいか判断がつかず迷うこと。
「………………何の話だ」
「アタシも、びっくりしちゃったんですよ。その話、聞いた時は」
言葉の割に表情も変えず、彼の直属の部下はとてつもない爆弾発言をしたのだ。
冬獅郎の眉根の谷間がぐっと深くなる。
「………………松本」
「はい?」
小首を傾げる副隊長に向かって、冬獅郎は溜息混じりに言った。
「情報収集はもういい。だから、仕事をしてくれ」
けらけらと笑う、師匠に向かい冬獅郎は眉根に力を込めながら抗議した。
「冗談じゃない。なんで俺まで巻き込まれなきゃいけないんだ」
「まあま、仕方ないでしょ。君はいろんな意味で人気者なんだから」
千早は笑いすぎで目尻に浮かんだ涙を拭いながら、
「ホントに色々楽しませてくれるわねぇ。理靜、思わない?」
千早の腕の中で、小さな手を中空に漂わせながら赤子が笑う。
「あら、分かってるのかしらね」
「分かるはずがない」
憮然とした表情のまま、冬獅郎は千早に背を向けた。
「理靜はまだ、乳飲み子だろうが」
縁側に広げられた薄い毛布の上に寝かせた理靜は盛んに手を動かして、何かを掴もうとしている。冬獅郎はそれを視界の隅で確認しながら、溜息混じりに言う。
「まったく。なんでこの俺が理靜の父親、なんてことになってるんだ」
「本当にねぇ。よりによってだわね。きっと詮索するのも限界が来ているのね」
噂を作り上げる連中をそう揶揄して、千早はもう一度笑った。
玄鵬千早が何も明かさないまま、妊娠、出産に至ったために、尸魂界、特に貴族たちの間に数知れず立った噂。
理靜と名づけられた男子の父親は、一体誰なのか。
未だに何も語らない千早の様子に、口さがない者たちが出した『結論』。
『………なんだと?』
『さっき一番隊に書類を出しに行ったら、途中の鉦宋門の所に、貴族がいたんですよ。多分、四楓院家統だと思うんですけど』
鉦宋門の下で、二人の貴族が四楓院を表す紅葉色の紗の狩衣を着ていたから、乱菊はそう判断したという。軽く一礼して足早に通り過ぎようとした。
二人は乱菊のことが気づかないほどに何かを夢中になって語り合っていた。
そして聞えた言葉。
『凍りの百合は、真に玄鵬の片翼の父御と?』
『うむ、そういう噂はあるの』
『………なるほどの。あれは師弟以上の関係であったか』
聞き取れたのはそれだけ。
だが、その言葉が意味する先を、乱菊はすぐに理解した。
「凍りの百合、ね。素敵な表現じゃない」
千早の笑みに、冬獅郎の機嫌は一層悪化する。
「千早」
「ん?」
「否定しろ」
「何が?」
「俺は理靜の父親じゃない」
「うん。そんなの、わかりきってるよ」
肩を竦めてみせて、千早は中空を漂う小さな指先にそっと自分の人差し指を添える。
「改めて言った方がいい?」
一番は、千早が父親の名前を明かすこと。
だが、頑固な師匠が冬獅郎に促されたくらいで、父親の名前を明かすことなど考えられなかった。
冬獅郎はぐっと眉根を引き寄せる。
理靜を覗き込んでいた千早が冬獅郎を見やって、ついと手を差し伸べた。
「!」
「ダメだよ、そんなところに力入れちゃ」
わずかに触れる暖かさ。
千早はそっと、冬獅郎の眉間を撫でた。
「跡が残るじゃん」
穏やかに微笑みながら、指一本でゆっくりと眉間を撫でる。
少しずつ、冬獅郎の眉間の谷が消えていく。
もともと、穏やかな師だった。
剣戟を一から叩き込まれた厳しい師ではあったけれど、決して理由無く声を荒げたり、意味無く暴力を振るったりしなかった。
穏やかというより、優しい師だった。
何が変わったのか、それはわからない。
しかし、穏やかな微笑の裏で時折見せる、複雑な表情を千早がすることが少なくなったような気がした。
気がした、だけかもしれない。
子を産めば、千早はんかて、変わるんやないの?
いつか千早のことが話題に上った時のギンの呟きが冬獅郎の耳について離れなかった。
「………千早」
「ん?」
「眉間に気をつけるから、もう手を離せ」
「そう?」
冬獅郎は深い溜息を吐いて、千早から視線を外し、理靜を覗き込んだ。
機嫌のよさそうな理靜の笑い声が高くなる。千早も思わず笑った。
「あら、冬獅郎のこと分かるみたいね。さすがお父さん」
「おい」
「ほら、眉間」
言われてて、慌てて眉根の力を緩めた。
千早は穏やかに笑って。
「いつか、きっと分かるときがくるわよ。理靜にも、みんなにも、冬獅郎にもね」
今は違うの。
千早の微笑みながらの言葉に、冬獅郎は小さく嘆息して、それから渋々頷いた。
「わかった。好きにすればいい」
「冬獅郎?」
「何を言っても聞かないんだから、好きにしていいけど……」
冬獅郎は穏やかな視線を師匠に向けて言った。
「理靜を泣かすなよ」
「うん」
小さな声が響く。理靜のにこやかな声。それが、冬獅郎の困惑を溶かしていく。