023:静止
せい‐し【静止】
じっとして動かないこと。
あの日も。
こんな満月だった。
あの時見た光景を、山本は忘れない。
鮮明に覚えている。
無残にもばらばらに短く切られた黒髪の、少女。
白い肌。
だがそれ以上に、その世界を埋めるのは、赤。
血塗られた世界。
少女はまるで手負いの獣のように、咆哮していた。
かき抱くのは、彼女を守ろうとした者。
事切れた者も、虫の息の者もいる。
『なにを、している!』
完全に停止していた世界が、山本の叱責で動き出した。
矢継ぎ早に指示を出すけれど、山本の視線は少女から動かせなかった。
『嗣の姫(つぎのひめ)』
呼びかけても、少女は呆然と足元に横たわる者を見つめるだけ。
『嗣の姫』
彼女を守って、死んでいった者。
だが次々に倒れていき。
そこに残ったのは、しかし最も剄い者。嗣の姫はどれほどの弑逆者を撃退したのだろうか。足元に転がる死者の中には、覆面をした者も多い。山本はそれらを踏みつけぬようにしながら、少女の下にかけより、両肩を掴んだ。
『千早どの!』
びくん。
跳ねるように身体が動いて。
やがて、止まっていた少女の表情が動いた。
『………………重じい』
満月の宴。
杯を傾ける山本は、酌をするために傍らに座った千早を見て、思わず微笑んだ。千早はそれを見逃さない。
「なに、重じい?」
「いやなに、昔のことを思い出しただけですじゃ。嗣の姫」
久方ぶりの呼ばわりに、千早は苦笑しながら、山本が掲げる杯に酒を注ぐ。
「懐かしいわね、その呼び方」
「今の理靜どのほどのお年であられたか」
「………そうだったわね」
千早もふと、思い出す。
自分の血はほとんど流すことはなかった。
なのに、心のどこかが泣いていた。
血を流していた。
何より、千早以外の多くの者の血が流れた。
あの、満月の夜に。
「………」
呟くような千早の言葉を聞き逃し、山本は眉をひそめた。
「何か仰ったかな」
「……理靜には、あんな思いさせたくないのよ」
「親ならば、そうでしょうな」
「………理靜だけじゃない。今ここにいる、全員に対して、ね」
千早の言葉に、山本は深く頷いて。
杯を傾けた。
満月を見れば思い出す。
血塗られた、少女の姿。
赤い世界の中に、佇む少女の悲哀を。
だからこそ、山本は思うのだ。
願わくば、再びの混乱が起こらぬことを。