輝石 03






『へえ、大総統閣下も見る目があるって言うべきかな』
聞く者が聞けば、反逆罪だと騒がれそうな台詞を聞いて、しかしアルフォンスは思わず笑ってしまう。
「ウィンリィ、仮にも」
『わかってるわよ。仮にも一国のトップで、エドの旦那で、でも、エドに毎日泣かされてる弱っちい大総統でしょ』
結局そういうオチがついているのか。
もう苦笑する以外なかった。
アルは本題に話を戻す。
「で、どう思う?」
『う〜ん、その子の状態を見てからじゃないとなんとも言えないけれど。一度中央に行くんでしょ』
「そのときに、僕が検査しようと思ってるけど…必要な検査があったら入れておくけど」
『じゃあ』
受話器の向こうから淀みなく聞こえてくる専門用語を、アルフォンスは迷うことなくメモして。
遠く東の地に住む幼馴染みに言う。
「じゃあよろしくね」
『うん。検査結果が出たら連絡ちょうだい』
あっさりと電話が切れて、アルはまた苦笑する。
相変わらず、さばけた幼馴染み。
けれど、最初に今回のことを知らせた時に彼女が言った台詞。
『あたしが手足つけてあげたら、その子、喜んでくれるといいけどね』
優しさまでもが、変わっていなかった。



夏とはいえ、ドラクマは極北の世界。
冬に比べて遙かに暖かく、部屋に吹き込んでくる風はさわやかさを感じる。
父は、深く溜息をつく。
「どうしても…行くか?」
「父様を……一人にしてしまうね」
静かな息子の言葉に、父は思わず言葉と哀しみを飲み込んだ。
「ハリム…」
「父様、ごめんなさい。僕のわがままを聞いてくれて」
息子が座るのは、特製の車いす。不便だろうと、国王が職人を大公家に送り、職人がハリムの身体に合わせて作ったものだ。
ハリムは右手一本で操作できるように作られた車いすを動かして、バルコニーに出た。大公もあとにつづく。
「僕は、この家を継ぎたいんだ」
「……ハリム。大公家を継いだところで、国王にはなれないとわかっているだろう?」
大公は3代前の国王の末子。ドラクマ王位継承権はある。だが、第1位継承権は既に成人した王太子が、続く継承権も先代国王の王子、そして大公の兄たちも控えている。大公に継承権があるのは逆に不幸な出来事だと、市井では思われていた。
ドラクマ南方軍司令官は、いずれ出世する。それ故の名誉職に近かった。先代徂落の際の混乱で、権力を得ていた王子がその地位にあったことからも分かる。その跡を襲った大公は、その知性故に国王の側近中の側近と目され、実際そうであり、現在もそうだ。
だが王位継承権を持つ者に、現国王は権力を集中させなかった。自分の登極に際しての混乱が、どうしても忘れられなかったのだろう。
そして、貴族や民間出身者を登庸することが多かった。そんな中で唯一の王族がカララト大公だったのだ。
国王の相談役と呼ばれても、実質的な権力は何一つ持たない。
大公自身はそれでも良いと思っても、くちさがない世間は憶測を生む。
大公が継承権を返上すれば、国王はもっと要職に大公を立てるだろうに。
大公自身も同じことを考えたことはあった。
だが、実行出来なかったのだ。
理由をあえて語らないのは、その理由が愛してやまない妻と、子供たちにあったからだった。
「国王なんかになりたいと思ったことなんて、ない。ただ……権力があれば、出来ることがあると思うんだ…そのための技術を僕はアメストリスで手に入れてきたい」
「………そうか」
1年前、この部屋のベッドで横たわる息子の薄茶の双眸は、消え入りそうなほど弱々しかったのに。
バルコニーでさわやかな風に吹かれながら、自分を見上げる同じ双眸は、どうしてここまで力強いのか。
「父様。僕はわがままです。ごめんなさい…」
「…いや」
苦笑しながら、大公は首を横に振って、息子の頭を撫でた。
40代半ばで、恋をした。
身分違いと、身を引こうとする自分より20歳も若い娘を妻として迎え、娘をそして息子を授かったのはまもなく50歳になろうかという年齢だった。
上の娘よりも、妻の面影を色濃く残す息子の頬を大公はさらりと撫でて。
慈愛の微笑みを以て言った。
「お前は成したいことをすればいい。それは、ナタリアも同じだ」
「………………」



手にしていた白い花を湖面に浮かべると、花は簡単にバラバラになって、沈んでいく。
ナタリアは座り込んだまま、緩やかな波で湖の奥へと運ばれていく白い花を見つめていた。
母の遺体が発見されたのは、花が向かう方角。
いつもより幾分冬が早く終わった。
晩冬の湖で、ナタリアは泣き叫んだ。
あっという間に黒ずんでしまった弟の片手両足と、
姿を消した母を思って。
あれから1年。
母の遺体は、春になって打ち上がった。
ずっと氷の中にあったせいか、眠ったように湖畔に打ち上がっていたという。
『お前は悪くない!』
泣き叫ぶナタリアを抱えて、父は諭すようにナタリアの耳元で囁き続けた。きっと父も泣き叫びたかったに違いない。母を喪い、息子の四肢を喪って。だが父の哀しみを奪うようにナタリアは慟哭し、大公は慰めることで哀しみを忘れようとしているように見えた。
「母様…」
侍女も分かっているから、見えるところにはいない。きっと木陰から、ナタリアが何か『間違い』を起こさないように見張っているだろう。
ナタリアは呟く。
「母様。私、決めました。ハリムと一緒に、アメストリスに行きます。アメストリスでハリムが機械鎧を研究してくるって言うから、私はその助けになりたい。だから…錬金術を学びます…少しの間、父様を一人にしていくけれど…お願いしていいかな?」
柔らかい陽光を、湖面がちかちかと反射させる。それが母の返事のように感じられて、ナタリアは笑った。
久しぶりに。
「母様、父様、お願いね。すっごく疲れてるの。母様、夢の中だけでも、父様を休ませてあげてね」
遠く湖面に差し込む一筋の陽光が、まるで天上からの階段のようで。
まるで母が下りてくる道筋を示しているように、ナタリアは感じて。
祈る。
父を母が、救ってくださいと。



母の発表はいつだって、突然だった。
食卓に夕食が並び、食べようかと父が言い出した時に、
「あ、みんなにお知らせがあります」
アレクの言葉に、ナイフとフォークがピタリと止まった。
双子は互いの顔を見合わせて、ここ何回か聞いた【発表】を思い出した。
『双子に弟か妹か、出来たからね』
が2回。
『あたし、出世したからね』
が1回。
『ロイが大総統になるから、またまたまた忙しくなります!』
が1回。
可能性からすれば、最初の発表だろうか。
だが、予想とは少しばかり違っていた。
アレクはにっこりと微笑んで、イオとリオに言った。
「二人はお兄ちゃんとお姉ちゃん、欲しい?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃん?」
「………………え?」
真剣に悩んでいる下の二人とは違い、かなり分別がある上の二人は違う理由で考え込む。
イオとリオより年上。
それはつまり…。
ちらりとアルを見つめてみれば、微笑んでいた父親は視線に気付いて、小首を傾げる。
「ん? どうかした?」
「いや、なんでもないです…」
ありえない。
『どうせフェル以外にも余所に生ませた子供がいるんじゃないか!』とケンカの度に奥さんに怒鳴りつけられるどっかの父親なんて、うちの父さんに限って考えられない。
「そこの双子〜、アルがどっかでお母さん違いの兄妹作ってるんじゃないかとか、考えないようにね」
……ここでも母は鋭く、厳しい。
「違うんだよね」
「そんな心配してたのかい。違うよ。来週、母さんがドラクマに行くんだ。そのとき、ある姉弟と一緒に帰って来るんだけど、その二人、うちで預かることになるからってこと」
穏やかに伝えられた言葉に、双子は眉を顰め、イオは小首を傾げ、リオは満面の笑みでアレクに問う。
「お姉ちゃんとお兄ちゃん?」
「そうそう。上のお姉ちゃんが12歳で、ナタリア。下のお兄ちゃんが11歳で、ハリムって言うんだって。あのね、王様の親戚なんだよ」
「おうさまのしんせき?」
リオは首を傾げる。【おうさまのしんせき】が何かは分からないけれど。
「お姉ちゃんが出来る〜」
「はいはい」
リオにとってはそれが一番大事なのだ。末娘のリオには、同性が母のアレクしかいない。まして、アレクは父のアルよりも家にいないから、【姉】というものに、あこがれのようなものを懐いているのだ。それを知っているアレクとアルが顔を見合わせて微笑んだ。
その一方で、眉を顰めた年長組は。
「王族ってやつ? メイさんみたいな?」
「う〜ん、メイよりももっと王様には遠いかな」
「………どうするんだよ、うちみたいなボロ家に住むって」
「ボロ家って…」
アレクはわざとらしく泣いて見せて、すぐに立ち直り、
「実質住むのは上のナタリアだけだよ。下のハリムは機械鎧をつけるために、アメストリスに来るんだから。検査がすんだらすぐにラッシュバレーにアルが連れて行く」



数日後。
早朝の中央駅のプラットフォームにエドが見送りに現れた。アレクは思わず軍服姿を見て言う。
「エド〜、休みの日ぐらい、大総統夫人らしくしてなさいよ」
「………見送りも仕事の一つだから」
相変わらず少し気怠そうに、しかし長年しなれた敬礼の所作はしなやかできびきびしく。
「アレクサンドライト・ミュラー・エルリック准将、任務完遂と無事の帰還を祈念します」
「マスタング少将、わざわざの見送り、感謝します」
敬礼を解いて、エドはいつもの表情に戻り、すぐ隣にいたアルに声をかける。
「すまないな、奥さん借りて」
「ま、アレクもたまには遠くで息抜き、してきた方がいいかなとも思うよ。それは姉さんも言えるけどね」
「………確かに、ロイから遠------------く離れたい時はあるな」
「ママ、気をつけていってらっしゃい」
「リオ、パパの言うことをよく聞いてね」
エドがくしゃりとアルが手をつないでいるリオの銀色の癖毛を撫でた。
「やっぱり娘は可愛いよな。俺も娘、生んでおけばよかった」
「まだまだじゃない。もう一人ぐらいがんばりなさい。あたしは4人がんばったんだから」
えっへんと汽車の中でアレクがふんぞりかえり、苦笑するアルが聞いたのは出発の汽笛の音だった。
「アレク」
「ん」
交わされた別離の軽い口づけにエドは思わず視線をはずし、見慣れているリオの顔を隠す。
「エドおばちゃん、なになに?」
「いや、情操教育上…お前ら、いい加減落ち着けよ」
「エドが落ち着き過ぎなの。ロイはまだまだがんばるよ?」
何を頑張るのかは、アレクはあえて指摘せず。にへらと笑って、
「エド、がんばりなさい」
「………………余計なお世話だ!」
顔に朱を散らして言い返す義姉をけらけらと笑い飛ばして、走り始めた車内から幾ばくか身体を乗り出し、アレクは叫ぶように言った。
「アル!」
「ん?」
「うちの3匹、よろしく!」
「ああ」
そして去った汽車の遠くに聞こえる汽笛を聞きながら、エドが聞く。
「アル」
「なに?」
「うちの3匹って?」
「レオ、テオ、イオの3匹」
「………………子犬か、お前たちの子供は」



ブリッグス山脈を越えたのは、初めてだった。
天嶮と、あるいは国境として機能するのも分かるほど、ブリッグス山脈は遙かにそそり立っていた。剣たる合間を軍用トラックで抜けて、ようやく辿り着いた南のはずれの街には用意された御用列車が待っていて、アレクたち一行は贅を尽くした歓待を受けた。そしてそのまま、王都ドライエドに入ったのだ。
とはいえ、アメストリスより遙かに広い領土を持つドラクマである。よって、主要な鉄道の特急列車でも王都まで2週間以上かかった。
「つ、かれた………………」
深い溜息とともに、アレクは用意された部屋のソファベッドに座り込んだ。
これほど、アメストリスの整備された鉄道網がありがたいと思えることなど滅多にない。
軍国主義国家の名残か、アメストリスのほぼ中央に位置する首都セントラルから、鉄道網は蜘蛛の網の目のように張り巡らされ、どんな僻地でも1週間かければ大体中央にまで出てこれる。2週間あれば、中央からクセルクセス鉄道経由で最果ての地、中継都市ラフォーヌまで到達できる。
だが、ドラクマではそうもいかず、最優先の御用列車を飛ばしに飛ばして、ようやく16日かかってここまで来た。その上、這々の体で到着したアメストリス大使一同を迎えたドラクマ外交大臣の一人は気の毒そうに、
『申し訳ないが、式典は急遽繰り上がり、明後日行われることになった。よって今宵から2日間に渡ってパーティーが催されるので、出席していただきたい』
指定された時間まで4時間。
アレクはアメストリス外交省から派遣された大使と相談して、ぎりぎりまで寝た。そしてきっかり3時間半後に起き出してアレクは軍礼服を身につけた頃、シュミット大尉が現れた。アレクは小さく溜息をついて、
「大尉、寝れた?」
「ええ、少しだけですが」
アレクは手慣れた様子で軍礼服を整えながら、シュミットに問う。
「なんで式典が繰り上がったと、大尉は思う?」
「そうですね…」
50代になっても、シュミット大尉は相変わらず周囲からはアレクと同じ年くらいに見られる美男な顔に少しばかりゆがませて、
「さっぱりです」
「なのよねぇ……シンもそうだけど、王政っていまいち理解できないっていうか」
ようやく起き出して準備に走り回る若い士官たちを見遣って、大尉が言う。
「ともかくです。今は全員があと15分以内に準備できるようにしてやらなくては」
「大尉は? あ、出来てるね」
「はい。准将も問題ないようで」
「うん。さて、準備出来てないの、誰かなぁ」
楽しそうにあら探しをする上司を、シュミットは苦笑しながら見ていた。
決して憎めない、上司だ。
最初、若干16歳で国家錬金術師となり、入隊した女性士官の話を聞いたとき、下につくものは気の毒だと、心底思った。数年のうちに、その気の毒な人間に自分がなったけれど、思ったほど気の毒ではないことにすぐに気付いた。
アレクサンドライト・ミュラーは意外にも、優秀だったのだ。



本人はたいした出世を望んでいなかったのだろうが、その優秀さと、共にある【ロイ・マスタング】のために、彼女は出世し、シュミットも大尉にまで登った。士官学校出身ではない自分がここまで来られたのは、まちがいなくアレクのおかげなのだ。
だが、アレクはそう言った感謝を受け入れない。
だから、シュミットも言わない。
横顔を見れば、すぐに視線に気付いて小首を傾げる。
「なに?」
「いえ…お互い、老けたと思いまして」
「………………54歳の大尉に言われるのは、どうも受け入れがたいわね」
「そうですか? あなたももう十分」
「あ--------------------------------それ以上は聞かない」
こんなところは、いつまでたっても子供だ。
シュミットはやっぱり苦笑するしかなかった。



外交官が紹介するのに合わせて、アレクはゆっくりと敬礼する。
今まで名前でしか知らなかったドラクマ国王ムサ・カムド2世は、一斉に敬礼をした蒼の軍服の集団に一瞬眉を顰めたが、鷹揚に頷いてみせて、通訳に何かを囁き、通訳が声を上げた。
「急に式典の日を変えたことを、詫びよう。占い師によれば、本来式典を行う日だった日に、王妃の出産があるであろうと」
「然様でございましたか」
あまりの理由に外交官もそれ以上のことは言えなかった。
この国はまだ占いが専行しているのだと、アレクは特に感慨もなく、敬礼したままそう思った。
うわさでは聞いていた。北の国では、自然が厳しい。ゆえに、自然崇拝が根強く、自然を象徴する神に力を借りた占い師が、存在すると。
パーティーは国王の列席に始まり、国王の退席で、その雰囲気を変えた。
少し緊張した雰囲気が国王の退席で一気に緩んだ。
「まったく、あの国王はなかなかの食わせ者ででしてな。即位の混乱の所為かもしれぬが、疑心が強いことが問題のようです」
アレクに耳打ちするのは、外交官の一人だ。
アレクが大総統の義妹だと分かっているから、軍人に伝えるべき情報以上の話を、アレクに耳打ちしてくれる。アレクは適当に頷いて、周囲を見回す。
女性たちの華やかな色合いのドレスは、アメストリスと大して変わらない。変わっているのは明らかに軍人と呼べる恰好の人間がいないことだった。
それもアレクは理由を知っている。
ドラクマにおいて、王族貴族において軍人となることは義務であり、私財を擲ってでも軍人としての義務を全うするように教え込まれている。よほどのことがない限り、赴任地を離れることもない。
つまり、このパーティー会場にいるのは軍を退役した王族貴族か、あるいは休暇を取って来ている側近中の側近か。そのどちらかだから、軍服をパーティー会場で見ることなどまずないのだ。
「見習いたいよね、こういうの。できればあたしも、こういうの出席しないですむのに、越したことないしね」
「…准将、言葉が過ぎますよ」
「うん、気をつける」
あっさりと謝られて、大尉は苦笑じみた微笑を浮かべる。
大尉が選出し、アレクが随行を許した部下の全員がドラクマ語を理解する。もともとドラクマ語はアメストリス語によく似ている。理解するのは簡単だった。アレクもまだ東方にあったころ、祖父の方針で数ヶ国語をそつなくつかいこなせるように教育されている。理解できないと思い込んで、ドラクマのご婦人たちが声高に話すドラクマ語も、一言一句間違えることなく、理解できた。
『伯爵夫人、あそこにいるのがミュラー准将ですわよ』
『まあ、女性なのに軍人なんて、何を考えているのかしら。婦人は銃後の守りをしてこそ、その真価を問われるというのに』
『さすがは伯爵夫人ですわね。私ども浅学で…でも、女性の軍人はおかしいということは分かりますわ』
要するに、伯爵夫人に取り入れたい取り巻きたちの会話のネタにされたということは分かったけれど、アレクはいたく気分を害した。
アメストリスにあっても、女性軍人は珍しい。
未だに老人たちには、女性は家にあって家族を守るのが仕事だと一喝されることがある。アレクのように、家のことは執事のマリウスやメイドのヘンリエッタ、何より夫のアルフォンスに全てを委ねて仕事に専念することなど、妻失格だと貶されても仕方ない。だが……こんな異国で、まして【銃後の守り】など、ブラッドレイ時代にもなかった勇ましいというより、あまりにも他人行儀なせりふに、怒りを感じた。
銃後の守り。
まるで、表で戦ってくれてもいいけど、自分を巻き込むなと言わんばかりのその響きがアレクは嫌いだった。
戦争を起こすのは、男ではない。
人間なのだ。女だから、関わらないでいいという論理は、成り立たない。
アレクは小さく溜息をつく。
彼女たちに激して、何が変わるというのか。
そんな時。
かつん。
軍靴の音に顔を向ければ、すぐ側にどこかで見た記憶のある、初老の男性が立っていて。
アレクが振り返れば、笑顔で、そしてアメストリス語で答えた。
「久しぶり、ですね。私のことを、覚えていますか」
その問いかけに、アレクは静かに答えた。
「もちろんです。カララト大公殿下」



初老、といってもいい男だった。
アレクは覚えている。
『----------------中佐、良い上司を持ったな』
そう言ってくれた、40代半ばの黒いドラクマの軍服を着ていた男。
穏やかに告げられた称え辞に、アレクは胸を張って是と答えた。
今から、14年前。
だとするならば、カララト大公は60歳になったばかりのはずだ。だが、それよりも明らかに老けて見えた。髪は白きものが混じり、顔に刻まれた皺は深く、多い。
実年齢より10歳は老けて見えた。
大尉の耳元で席を外して貰うように言って、アレクは二人きりでバルコニーにまで出てきた。
「何か、飲みますか?」
「いいえ、結構です」
誘いにやんわりと断って、アレクは微笑む。
「本当に大公殿下に再会出来るなんて、思っていませんでした」
「ああ、私もそうですね」
穏やかに微笑み返す様子は、かつて見たものと変わらない。
対顔したのは、僅かな時間。
だが、アレクはともかくカララト大公はアレクのことを鮮明に覚えていた。そのことに、アレクは意外に感じた。
「殿下は、なぜ私のことを覚えておいでですか?」
意外なことを聞かれた、という表情を浮かべて、大公は答える。「どうしてと言われても……あなたは、輝いて見えたからですよ」



忘れることなど、出来ない。
おそらくその容貌はドラクマでも、美人と呼ばれる部類に入る。
だが銀髪紺眸の、その女性を際だたせていたのは容貌でも、軍人の中で数少ない女性であったとか、そういう理由ではなかったような覚えがある。
大公は鮮明に覚えていた。
強い意志を秘めた、眸というべきか。
まっすぐに大公を見つめていた濃紺の双眸は、『ロイ・マスタング准将』の名前だけで柔らかく解れて、まるで肉親を慕う末子のように、幼けな輝きを放ったことを。
そして、忘れることが出来なかった。
アレクサンドライト・ミュラーという、国家錬金術師の容貌と、眸の力とを。
まさか我が子を預ける者として、現れるとは思っていなかったけれど。
「そうですか…そういうご記憶でしたか」
アレクは思わず苦笑する。
そう言われてみれば、かつて大公に、つまりは敵に初めてロイのことを褒めてもらえた。誇らしい気持ちになったことを覚えている。
まったく、子供だったな。
かつての自分に苦笑しながら、アレクは続ける。
「ロイ・マスタング准将が今は大総統になられたことはご存じですね?」
「ああ、聞いているよ」
「私は彼の幼馴染みでもあり、彼の妻の弟の妻…つまり、義理の妹にあたります」
「ほお?」
興味深いことを聞いたと、大公は眉を上げた。アレクは苦笑のまま、
「ですから、大総統がお褒めの言葉をいただけたことが、私にとって本当に嬉しかったのですよ。私にとっては兄に等しい存在でしたから」
「そうか、なるほどね」
穏やかに微笑む、異国の女性軍人を見て、大公は不意に感じた。
大丈夫。
この女性になら、二人を預けられる、と。



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