輝石 05
「ナタリア・ナルド・デル・カララトです」
「ハリム・ナルド・デル・カララトです。どうぞ、よろしく。色々と…ご迷惑をかけると思いますけど」
完璧なアメストリス語で挨拶した少女と車いすの少年に、エルリック家の全員が釘付けだった。
「ナタリア、ハリム。じゃあ、私から紹介するわ。彼が夫のアルフォンス・エルリック」
アルが微笑んだ。アレクが続ける。
「アルはマスタング大総統夫人の弟なの」
「はい」
「で、うちの長男次男。テオジュールとレオゼルド。双子だから顔がそっくりだけど、いずれ区別つくと思うから。それから三男のイオドリックと、長女のリオライト」
双子はぶすりと、イオとリオは笑顔で挨拶をして。
「あと家のことをお願いしているマリウスとヘンリエッタね」
少し後ろに控えていた二人が深々と頭を下げた。
「これで全員だよ。ようこそ、エルリック家へ」
「……アレク」
「ん?」
振り返るとアルが少し残念そうな顔でいて。
「それ、僕が言おうとした台詞だったのに……」
「あ、ごめんごめん」
悪気はないんだよ〜と、穏やかになだめる妻。
僕が言いたかったのに…と、いじける夫。
エルリック家にとっては見慣れた光景だが、そうではない二人がいて。思わず互いの顔を見合わせて、
「あの……」
「……気にしなくていいよ。これがいつものうち、だから」
アレク譲りの察しの良さを誇るレオが苦笑しながら、【夫婦漫才】を始めてしまったアルとアレクを解説した。
「そうなんですか」
「うん。あ、そういえばお供の人とか連れて来なかったの?」
「え? はあ、まあ…」
ちょっと期待したのにな。あっけらかんと言ってレオは同じように興味津々なイオとリオの首根っこを押さえている。
「こら、興奮しない」
「だって〜」
首根っこを押さえられてじたばたしている下二人に言い聞かせるようにレオが言う。
「あのな。しばらくは家にいるんだから」
「う〜」
「テオ、荷物」
「ああ。でも…これだけ?」
シュミット大尉たちがエルリック家の玄関に置いていった荷物は、予想よりも少なくて。車いすの上でハリムが言う。
「それだけです」
「…公子って言っても、質素なんだな」
小さなテオの声は、だが背筋を伸ばして世辞笑いを浮かべていたナタリアの耳にも届いて。
一瞬曇った表情がすぐに戻ったのは、さすが叩き込まれた貴族根性とでも言うべきか。
いつの間にか夫婦漫才を終えていたアレクが軽くテオの頭を叩いた。
「こらぁ。油売ってないで、二人をお部屋に案内しなさい」
「痛いって」
「ほらほら〜」
「膝裏をつつくな!」
その部屋は、二人にとって十分な広さがあった。
ナタリアとハリムは、公子公女と呼ばれてもかなり質素な生活を送っていた。それは父である大公が家族が手の届く空間で生活したいと望みを持っていたことと、民間出身の母が決して民間に降りることがあっても、生活観念の齟齬があってはいけないと願ったためで。
だが、ナタリアは口にする。
「ここは…クローゼットですか?」
一気に部屋の温度が下がった。
全員がそう感じた。
ナタリアの発言の真意を理解している者3名。
単なる冗談だと思った者2名。
よりによって兄の前でそんなことを言い出すか…と隣を見遣った者1名。
簡単に激昂した者1名。
「悪かったな! どうせうちは狭いさ!」
「あら………失礼しましたわ。きっとクローゼットだと思ってしまって。このくらいのスペースで生活するのも乙といえば、乙ですわね」
ころころと笑ってみせるが、エルリック家で唯一、瞬間湯沸かし器と言われたエドの気質を受け継いだテオジュールが言う。
「乙ねぇ〜、どうせならもっと狭いところで住むか?」
「どこですの?」
「うちにはいないけどな。隣のハボックさんちにはあるよな。犬小屋」
「………………」
ぴくり。
ナタリアの眉が密やかに動いた。
レオは小さく溜息をついた。
よりによって、こんな時にこんなことを言い出さなくてもいいじゃないか、テオ、それにナタリア公女様。
そう言いたかったけれど、簡単に部屋の温度は上がる。
ゴツン。
派手な音を、テオの頭が立てた。
いや、正確にはアレクの握り拳がテオの頭で立てたというべきか。
「こら、うちのバカムスコ」
「……いってぇ」
思わず頭を抱えて座り込んでしまったテオをリオが覗き込む。
「テオ兄、大丈夫?」
「………………あんま、大丈夫じゃないような」
「仮にも一緒に住む家族に、そんなこと言う子供に、育てた覚えはな〜い」
語尾が相変わらず冗談じみていて、ここまでバカにされると笑うしかない。
「……この」
「アル。レオとテオって双子なのに、なんでここまで違っちゃったの? レオはアルそっくりなのに、テオはあの暴れん坊夫人になんでここまでそっくりなんだろうね」
わざとらしくしくしく泣いてみせて、アレクは横目でちらりと双子を見た。
「まあ、しかたないね。両方エルリックには変わりないから」
そうして、ナタリアとハリムのエルリック家滞在は始まったのだった。
「すごい、家だと思わない? 姉さん」
「そう?」
「うん。大総統の家族なんだよ」
「う〜ん…確かに聞かされた時はびっくりしたけれどね」
気のない返事をしながら、ナタリアはアレクに渡された錬金術入門書をパラパラとページだけをめくっている。だがそのスピードからして読んでいる様子は見られない。
そんなナタリアには構わず、ハリムは夢見るように続けた。
「すっごい晩餐だったね」
「ただのお食事会、でしょ?」
エルリック家のダイニングテーブルはエルリック家の全員が座ってもまだ余るほどの大きなテーブルだった。
だが、それを置いてある理由はすぐにわかった。
2日前、中央に到着した姉弟はしかし、強行軍でブリッグスを駆け抜けたために、ハリムが疲労感からベッドから起きられなくなっていた。そのためにアレクだけが大総統府に出かけていったのだが、今日の夜、エルリック家に現れた一行を見て、すました顔をしていたナタリアも思わず表情を作ることを忘れてしまった。
「やあ、君がハリムか? 寝ていなくていいのかね?」
自分の父親より幾分若いその男の顔を、ハリムもナタリアも、新聞の写真で見たことがあった。我に返ったナタリアが最敬礼をしながら言う。
「大総統におかれては……」
「む? ああ、そういうことはまた、今度にしようか。今日は久しぶりにアレクがディナーを作ってくれたのでね。アレクは凝り性だからな」
「まあ、錬金術は台所から生まれたって言うくらいだからな」
続いて現れた女性は、姉弟は見たことはなかった。だがその艶やかな黄金の髪と、見たことのない黄金の双眸に驚く。黄金の女性はハリムの顔を覗き込み、額にひんやりとした右手をのせて。
「熱はなさそうだな。大丈夫だ。見た感じ、体力もありそうだな。ウィンリィなら今すぐ手術してやるって言いそうだな」
「今すぐはむごいだろう。アルフォンスがしばらく様子を見るのもいいかもしれないとも報告してきたが」
ハリムは気付いた。
黄金の女性が、少しだけだけれどもここ何日か一緒にいるアルフォンス・エルリックに似ていることを。
そしてエルリック家滞在初日に、アレクが言ったこと。
アルはマスタング大総統夫人の弟なの。
「……失礼ですが、ご夫人、ですか?」
年少者にしてはあまりにも弁えた問いかけに、ロイとエドは瞠目したけれど、すぐに微笑み返す。
「ごめんな、自己紹介してなかったな。そう、俺がエドワード・エルリック・マスタング。で、こいつが」
二人の背後にいたのだろう、その気配も感じなかった少年がエドの手でぐいとハリムの前に押し出された。
「ちょっ、母さん」
「うちの息子。フェリックス・マスタング」
「…どうも」
「はい、よろしくお願いします」
その日の晩餐に集まったのは、特級錬金術師が4人、中級錬金術師が2人、初級錬金術師が1人。
全部で14人。その人数が収まるためには、エルリック家の住人の倍、座ることのできるダイニングテーブルが必要だった。ましてこのような集まりが週に1度はあるのだという。
大総統に少将に、准将。
とにかく高位の軍人が一堂に会している光景を、ハリムは見たことがなかったから少し興奮していた。
ロイ・マスタング。
エドワード・エルリック・マスタング。
アルフォンス・エルリック。
アレクサンドライト・ミュラー・エルリック。
マース・ヒューズ。
彼らがいわゆる【マスタング組】と呼ばれていることを異国から来た姉弟は知らない。
ハリムが幾分興奮気味でナタリアに部屋に引きずり込まれる様子を見ていたロイが苦笑する。すかさずエドがつっこんだ。
「なに?」
「いやな……昔のエルリック姉弟を見るようだなって」
「しっかり者の弟と、瞬間湯沸かし器の姉」
「………………言うな」
じろりと睨まれても、義妹がそれを気にすることなどなく。
「うん、瞬間湯沸かし器はうちのテオが受け継いだみたいだからねぇ」
アレクの飄々とした様子とは別に、がっくり落ち込んでいるのはアルで。
「アル?」
「義兄さん…ようやく姉さんのお守りがすんだと思ったら、今度は自分の息子が同じなんて、これってなんかの呪いの気がしてならないんですよ」
「……ア〜ル〜〜〜」
低い制止の声にも、弟は怯まない。
「ねえ、これってやっぱりご先祖様に何か悪いことしでかした人がいるとか? その呪いだとか?」
「アルってば、意外にネガティブなところ、あるんだよねぇ」
「アルフォンス。だが、他の子供たちは瞬間湯沸かし器ではないのだろう? それを幸だと思うべきではないのかね?」
「……やっぱり、高望みってダメってことですか?」
「こら、いい加減にしろよ」
エドが眦をきりりと上げて抗議しても、夫と弟と義妹のトリオ漫才のような会話は続く。
「あ、でもね。リオが少し、エドのぽややんとしたところ、受け継いでる気がするのよ。なんていうのかなぁ…自分に向けられるプラスの感情をくみ取りにくい?」
「まだいいよ。あのぐらいの年齢なら」
「そうだな。下手に感じやすいのもどうかと思うぞ。その点、エドほど鈍感だった方が悪い虫もつかない」
「あら。ロイは悪い虫だったってこと?」
「………………私は、良い虫だ」
言ったあとで自分の言葉にショックを受けているロイをそのまま放置して、アレクは眦を上げているエドをようやく宥めた。
「しっかりエルリック家の伝統になってるじゃない、瞬間湯沸かし器」
「………………おい、それ全然褒めてないぞ」
ぱらり、ぱらり。
めくる書類の音だけが、響いていた。
器用に左手首で書類の片方を押さえ、ハリムは右手でページを進めていく。
しばらく黙って見ていたアレクが、問う。
「どう?」
「どう…と言われても」
それは正直なところだろう。
渡した書類は、ここ数日でアルがハリムを徹底的に検査したその結果調査書だった。具体的な数値の羅列を見たとしても、それが何を意味するのかすら、少年には理解するのも難しいだろう。医師の資格を持つアレクは目を通しただけで、その調査結果書が言わんとする意味を理解した。
「つまりね。現在のあなたの体力、体調ではジョイント手術を行うことは問題ないってこと」
「え?」
「準備が出来たら、来週にでもラッシュバレーに行って、ウィンリィと打ち合わせしてもいいよ。あ、アルは連れていってね。あなたとナタリアの引率責任者が必要だから、アルに行ってもらうから」
「あの…」
「ん?」
「……僕、機械鎧、つけられるんですよね?」
それは、少年からの最終確認。
アレクは穏やかに微笑んでゆっくりと答えた。
「うん。つけられるよ。君に歩くための足と、つかむための手が戻ってくるよ」
喜び勇んで書斎から出て行く車いすの後ろ姿を見遣りながら、アレクは小さく溜息をつく。
ハリムにはもう何度も説明した。
ジョイント手術。
手術は機械鎧に神経から流れるわずかな電気信号をつなぐために、麻酔を使わずに行われる。それは壮絶な痛みを伴うという。かつてそれに耐えた少女がいた。扉を一枚隔てた場所で、その壮絶な手術の時間を過ごしたアルの話を一度聞いたことがある。
『姉さんは、一度も叫ばなかった。叫んでいいんだよってばっちゃんの声がしたけど…姉さんは叫ばなかった。だけど、神経に触られると激痛で瞬間身体が跳ねるんだって……ベッドとか、何か金属の音がしてたよ…ガッシャンガッシャンって。何時間も何時間も…』
それは11歳の少女が犯した罪だと分かっていても、アレクはあまりにもむごい【等価交換】に言葉を喪った。
ジョイント手術がすめば、ある程度の期間をおいてリハビリが始まる。それはやはりコントロールできない神経の痛みにさいなまれるという。
『そりゃあ痛いんだからさ。機械鎧で一歩足を出すってイメージしてみろよ。まず足を浮かせて、身体の重心を前に出して、膝関節を曲げて、足を出すって、神経が電気信号を出すわけだ。だけど最初はすべての伝達回路が正常に働かない。全部、痛みにつながるんだよ。だからさ、最初はすべてがすべて、痛みの原因だからなぁ…ああ、今思い出しても痛い』
身体を大げさに震わせて、エドは苦笑する。
『機械鎧は、負担が大きい。だけどさ…取り戻すものもその分、大きいんだよ。ま、これも【等価交換】かな』
再び歩けるようになるまで、2年はかかるだろう。それも、エドと違いハリムは両足の欠損だ。かつてのように走り回ることはおそらく2年の先数年は、リハビリをしなくてはいけない。それをアレクはハリムに伝えていた。ハリムは微笑んで、
『それでも。僕は機械鎧を得るために、アメストリスに来たんです』
『……辛いよ』
『はい』
『痛いよ?』
『…………痛いのは、違うところですよ。准将』
ハリムの微笑みが幾分自嘲ぎみになる。
『時々、かかとが痒いんです』
『………………え?』
『夕べも、右足のかかとが痒いなぁと思いながら目が覚めました。ないって頭で分かっていても、痒いんです。あるはずのない、足のかかとが』
それは、幻痛、ファントム・ペインと呼ばれる。
心は理解しているのだ。自分の手が、足がなくなったと。
だけど、頭が理解していない。だから、あるはずのない痛みを、痒みを身体に訴える。
それがファントム・ペインだと理解しているからこそ、ハリムはなおのこと辛い。
つらさをナタリアにも口にすることはないけれど、喪った存在を忘れないようにと、身体が言っているようで。
自分のために死んでいった母の存在を、忘れるなと訴えられているようで。
逃れようと思っているわけではない。
むしろ、母のことを忘れるつもりなどないから、その訴えはすぐに受け入れられるのに。
『僕は、生きなくちゃいけない。母様の命を、もらったから』
母の命を糧にして、救われた命だ。
『僕は、出来ることをしないといけないんだ。そのために…機械鎧は必要だから』
『ハリム…』
自分が出来ることを、母が望んだように生きようと、決めた。
人のために、生きなさい。
だから、機械鎧を、一人で歩くための足と、一人でつかむための手を。
ハリムは手に入れなくてはならなかった。
ハリムに渡したものと同じ書類を、めくるのはアルだった。
ハリムとは違い、明らかに意図を持って、書類のページを前に後ろへとめくる。
そんな様子をテーブルにあごをのせたまま見遣って、アレクが呟くように言った。
「ハリムがね…」
「ん?」
「ハリムが言うんだよ…あの子、まだファントム・ペインがあるんだって」
「1年以上経つのに、ファントム・ペインが出るなんて珍しいな」
アルが小首を傾げるけれど、それも一瞬で。
「まあ、ファントム・ペインがあった方がリハビリはかなり早いってウィンリィに聞いたことがあるよ。もしかしたら、1年足らずで歩けるようになるかも知れないね」
「だけどね……あの子の眸は………」
強い意志の漲る眸。
だが、それは儚く。
あっという間に消えてなくなりそうなほどの強いもので。
「なんだか……昔の、あたしの眸を思い出すんだよね」
引き絞られた弦から解き放たれる寸前の、矢のように。
解き放たれた矢は、どこへ向かうのだろうか。
そんな不安感を懐かせる、そんな視線。
懐かしいアルバムの中にいる、国家錬金術師を目指すことを決めた幼いアレクは、そんな視線をまっすぐにカメラのレンズに向けていた。
祖父を失い。
寄る辺なき自分の身を、二人の【兄】とともにあることを選び、ロイが目指す道を助けると決めた。
『なあ、アレクよぉ。お前はなんのために、軍人になったんだよ?』
『え?』
アレクの全てを知っているはずのマースの告げる言葉に、アレクは眉を顰める。
『分かってるくせに』
『ロイのため、だろ? だけどなぁ…どこに、お前はいるんだよ?』
お前の、ここにいるお前はなんのために、いるんだ?
「誰かのために、ここにいるって大事なことだよね」
「アレク?」
「うん。大事なことなんだ。でも、未来永劫、その誰かのためだけに生きていくってことはできないんだよ。だから…その人と自分が一緒に歩いていくために、自分は存在するんだよ………………きっと」
アレクがその答えに辿り着くまでに、少しの時間が必要だった。
その答えは、二人の姉弟が現れたことで、導き出せたのだ。
相手のことを思いやり、相手のために出来ることをする。
相手のために、一生を捧げる。
それは同じようで、全く違うものだと、気付かせてくれたのがエドとアルだった。
アレクはアゴを乗せたまま、上目遣いで覗き込むアルを見る。
「どこまでも……姉さん姉さんって言ってたら、今頃あたしと結婚してなかったよね?」
「う、うん」
「二人が相手のためと、支えることの違いに気付いたから、あたしたちは結婚したし、双子もイオも、リオも生まれたんだよね」
「そうだよ」
「だけど……あの子は、まだ気付いていないよ」
生かされた命。
犠牲の上で成り立つ、命。
だからこそ、自分のためではなく、他人のために生きなくてはいけない。
半ば信仰に近い信念で、ハリムは機械鎧を望んだのだろう。
だけど…それでは、誰も幸せになれないのだということに、気付かないといけないのだ。
「出発は4日後だって。僕と姉様と、それからアルフォンスさんで。ラッシュバレーでウィンリィ・ロックベルって機械鎧整備師さんの家に居候して、もう一度細かい検査して」
「………そう」
「姉様は向こうに行きたくないの?」
姉のうつろな返事は、自分に付き添いたくないからだとハリムは感じた。だが、力なく微笑む姉から帰ってくる返事は違っていて。
「違うよ……違うの。ただね……少し、ハリムが急いでいるような気がして」
「急ぐ? そうだよ。僕は」
「ごめんね、ハリムが悪いわけじゃないのに」
「姉様」
ハリムは数回瞬きして、機械鎧をつけられるという喜びのあまり、姉の気持ちを察していなかったことを思い出した。
ごめんなさい。
この1年で、何度も聞いた姉の言葉。
冷たい湖の中で意識を失い、次に気付いた時はハリムの左手と両足はなかった。唯一残った右手をしっかりと握りしめて、姉は呟き続けていた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
姉は、何も悪くないのに。
自分が手足を失ったことや、母が死んだことは、姉には何も咎められることなどなかったのに。
姉は謝り続けるのだ。
ポロポロと大粒の涙を流して。
いつだって胸を張って、爛漫に生きてきた1歳年上の姉は、少し恥ずかしがり屋でほんの少し身体の弱かったハリムにとっては自慢の姉で、追いつきたい存在だった。そしていつも手を引いてくれた。
そんな姉が変わってしまったのは、あの事故からだ。
姉様に笑って欲しい。
機械鎧をつけたいハリムの望みは、そこにもあるのに。
「姉様、大丈夫だよ」
「……ごめんね」
ドラクマで、ナタリアの涙は涸れ果てた。
ハリムは右手でナタリアの、頬を軽く撫でて。
「大丈夫だからね、姉様」
「おや、珍しいね。飲んできた?」
「うん」
機械鎧整備師組合の会合に出かけてきた妻が、幾分赤い顔で帰宅したのを、ハインリヒ・バルグマンは意外そうに見た。
「外では飲まないんじゃなかった?」
「そのつもりだったんだけどね」
少しだけアルコール臭を漂わせながら、ウィンリィはソファに座り、深く溜息をついた。
「ちょっと昔のこと、思い出して」
「昔?」
ウィンリィになみなみと水が注がれたグラスを渡して、ハインリヒはウィンリィの隣に座る。
「昔って?」
「……リゼンブールにいた頃なんだけど。あたしと似たような年頃の子の機械鎧をつけたことがあって…正直いやだったなぁ、て思い出して」
「………………そうなんだ」
正直、妻が幾分【変人】の部類に入ることを、ハインリヒは否定できない。
プロポーズしてきた男に、
『いつかあなたのこと、全身機械鎧に変えてもいいなら結婚してあげてもいいわよ』
と宣う女性が、この世界でどのくらいいるだろう。とはいえ、それに是と答える男も。
今のところ、ハインリヒのどこも機械鎧に改造されてはいないけれども、妻の幼馴染みの女性曰く【機械鎧ヲタク】の妻が、機械鎧装着を嫌がったなんて、初耳だった。
「なに?」
「いや、なんでもないけど」
視線をはずせば、いつものウィンリィならば気付いて反論するのに、今日はただちびりちびりと水を飲んでいるだけだった。
「今度の、ドラクマの公子のこと、本当はイヤなんじゃないの?」
「…………正直言うとね。リゼンブールの頃のこと、思い出してね。だけどさ、しばらくたってその機械鎧つけた子に言われたんだよね。あたしの手は、人を生かす手だって」
ウィンリィは自分の両手を見る。
けして女性らしい、たおやかな手とはいえない。
毎日男たちに混じって、機械鎧を製造、修理しているのだ。もちろん力仕事もある。美しいなど、これっぽちも思えない手だった。
だけど、彼女は言った。
『お前の手はさ、人を生かす手だよ。俺たちみたいな軍人の、人を殺す手じゃない。人に希望を与える手なんだよ。だから……そのままでいてくれよ。誰かを…殺そうとしないでくれよ』
かつて、父母は戦場で逝った。医者であった二人が逝った原因を聞かされ、それが自分の行いだと淡々と告げる男に、ウィンリィは泣きながら銃口を向けた。それに割って入ったエドの言葉が、忘れられない。
生かす手。
そう言われて、ウィンリィは決めた。
復讐など、意味がない。
人に希望を与えよう、と。
ドラクマの公子ほど欠損率の高い子供に、機械鎧をつける機会など滅多にない。ただ機会があれば、エドのことを思い出す。
苦しみぬいた1年。
ジョイント手術、リハビリ。急ぎすぎた装着は彼女の身体に負担をかけた。
伸びるはずだっただろう身長。
女性として身体が目覚めるまでに、かなりの時間を要したこと。
ウィンリィは後悔している。エドの言うがままに、装着を急いだことを。
「だからさ……公子のことは責任もってあたしが看るよ。だから、ハインリヒ。スウォードとカレナリアには迷惑かけるかもしれないけど」
「何も心配は要らない」
穏やかに微笑んで、ハインリヒはウィンリィの手を握った。
「君は何も心配しないで、いつものように最高の機械鎧をつけてあげればいい」
「…ありがとう」