輝石 08






「おや、珍しいね。アルフォンスがいるなんて」
羽織っていた上着を脱ぎながら、ロイは言う。
いつもアルはエルリック家にいる。だから、エドやフェルが好意に甘えて食事に行くことが多いのだが、アルフォンスが夕食時の今、大総統府にいること自体がとてつもなく珍しかった。
「確かに。普段、この時間は家にいるから」
アルも苦笑しながら返した。そして続ける。
「姉さんならいませんよ。アレクと出かけてます」
「出かけてる?」
これも意外だった。
エドがロイの顔を見ないで行き先も告げずに出かけることなど、実はほとんどないのだ。
「どこへ?」
「病院です」
ロイの表情が変わったことに気付いて、アルは慌てて両手を振った。
「違いますよ、病気じゃない…まあ、病気じゃあないけど」
「ここのところ気分が優れない様子が続いていたのは、精神的なもののためではなかったのか」
一人ごちるロイの様子を見て、アルは笑った。
この人は、察しの鋭いアレクですら思い出すことで至ったエドの変調を、なんの迷いもなく言い当てた。
そしてロイは、不意に結論に達した。
「まさか」
「ええ」
「………また、気付くのが遅かったのか。フェルの時と同じか」
「そのようです。姉さんも精神的なものの所為だと思っていたみたいで。万が一の検査のためです」
さらりと告げる義弟の言葉に、ロイは踊り出しそうなこの上なく幸せな表情を浮かべたけれど。
そんな幸せな真実を、アルフォンスが至極穏やかに告げている事実が気になって。
「アルフォンス…?」
「義兄さん」
まっすぐに自分を見つめる黄金の双眸は、妻と同じように見えて全く違う。
その意志の強さは同じだけれど、受ける印象が違う。
姉は紅き劫火。
弟は蒼き熾火。
ロイは普段聞き慣れないアルフォンスの呼びかけに応えた。
「なんだ」
「義兄さんは、姉さんを愛していますか」
「………………」
まっすぐな、その問いかけにロイは言葉を失う。
自分がエドを愛してきたことは過去から現在、その言動すべてで表してきたつもりだったのに。
義兄は、未だにそれを認めないとでも言うのか。
「愛して、いますか?」
「愛している。今までも、これからも」
「僕も、愛してます。アレクを」
ロイの幾分細い目が、一層細くなる。
アルは、何を言いたいのか。
アルは静かに続けた。
「愛してます。アレクと結婚できて、双子が、イオが、リオが生まれて。すごくすごく、幸せなんです。きっと、これからだって僕には家庭を持ったことで幸せなことがたくさんあると思うんです」
『アルはね、いつでも不安なの。だから…あたしや子どもたちを抱きしめて離さない。あたしはいいけど、子どもたちはちょっと嫌がってるかな〜』
にこやかに告げる義妹の言葉を、ロイは不意に思い出した。
怖い、のだ。
自分よりも15歳も年下の、この男は姉と共に辛酸をなめた。
魂だけの存在で、巨躯の鎧での生活を余儀なくされた。
自分の肉体を取り戻すことが出来ないかも知れないという焦燥。
不安。
………………後悔。
そして、姉弟は再び禁忌を犯した。
「姉さんの手足を錬成したことを、後悔はしてません。それは本当に思うんです。でも…方法は他にもあったんじゃないかって…ラストさんや、あるいは多くの人を気づけたり……命を奪ったりしたことが本当に正しい道だったのかなんて」
「誰にも分からないよ」
静かな応えに、アルは顔を上げる。
寛厚に、義兄は笑んで。
「昔、フェルがまだ小さかった頃に、エドが同じことを言ったな…自分が選んだ道が、方法が正しかったかどうかなんて分からない。ただ、多くの犠牲が生まれたことは事実だと」
「………………」
「代価は、後悔だと知った時。正直、そんな簡単なものでいいのかと、聞き返したんだそうだな」
「ええ」
「私はいつだって後悔しているよ」
アルが僅かに瞠目する。
「イシュヴァールで年端もいかぬ幼子を、銃口を向けていたとはいえ私の錬金術で灼いたことは事実だ。そしてそれを後悔している。人体錬成をすることで償おうとしたほどに」
だけれども。
自分は人体錬成を【行えなかった】。
そして行えないことに、理由があるのだと知った。
だから目指したのだ。
二度と後悔しないために。
人の命を、無駄に失わせないようにするために。
「アルフォンス。私はエドワードを愛している。確かに賢者の石を使う以外に、身体を取り戻す方法はあったかもしれない」
アルの目が静かに細くなる。ロイは続けた。
「だがな。それでも私は感謝したい。エドに、アルフォンスに、賢者の石に。エドが私の元に再び返ってきてくれたことを。それだけで…満足だよ」
「…優しい、ですね」
「いや」
ロイは苦笑しながら、アルの前のソファに座り込む。エド好みの柔らかいソファに浅く座ってロイは呟くように言った。
「私は、弱い。望むものを手に入れるために、多くの犠牲を要した。だが君とエドワードは強い。罪と向き合おうとするその姿勢に感心するよ」
「………………姉さんが、いつだって後悔してるのは知ってます」
「ああ」
姉のそれより幾分くすんで見える弟の髪は、柔らかく見えて。
ロイは見つめながら言う。
「いつでも、だ。夜中に思い出して泣いているのも知っている。だが、私はそれを言わない。それをエドワードも望んでいるからだ」
「もう一人増えますね………………家族が」
「その前に、しなくてはいけないことがあるが……さあ、どうするかな」
ロイは親指と人差し指で、幾分ヒゲが目立つ顎に触れる。
アルがにこやかに宣言する。
「姉さんには言ってないんですけど、姉さんじゃなくてアレクにして貰おうと思って。お腹に何かあってからでは遅いから」
「ああ、そうだな」



「俺は反対だ!」
突然の大声に、ハボックは慌ててブレーキを踏んだ。
後部座席に載っていたエドとアレクが衝撃に備えようと踏ん張る。
「少佐!」
「あ、すまん」
「だめだよ、少佐。身重の人がいるんだから」
あっけらかんと告げられた真実にハボックは慌てて振り返る。病院への往復のための運転手として駆り出されたのは分かっていたけれど、これはどういう話なのだろう?
「え?」
「おい、アレク」
「いいじゃない。安全運転ついでに、エドの周りでは禁煙してくれるだろうから」
アレクの言葉に、エドは抗議を飲み込んだ。運転席から興味津々に覗き込んでいたハボックが問う。
「マジな話?」
「…うん」
「そりゃよかった。大総統も喜んでるだろ〜? 年が高くなってから生まれた子供って若い時の子どもより可愛いって聞いたことあるな」
「あのロイが、喜ばないはずがないじゃない」
アレクの言葉が、すべてだった。ハボックはにっかりと笑って。
「そりゃそうだ。エドにべた惚れだもんな」
エドが気恥ずかしさから明らかに視線を外しながら、
「他人のこと、言えないだろうが。少佐も、中佐にべた惚れな癖に」
「当たり前じゃないかよ」
運転手代わりの少佐は胸を張って応えた。
「俺は、あの【鷹の眼】を手に入れるのに何年かかったと思ってるんだよ?」
こうも胸を張られては、反論しようがない。
エドは小さく溜息をついて、横に座るアレクをちらりと見遣って、
「さっきの話」
「ん? あ、少佐。ロイが待ちかねてると思うから、安全運転で急いで帰ろうよ」
電話で連絡していたおかげか、フェルの時の主治医だった初老の女医は快くエドを迎えてくれて。
『妊娠13週です。前回よりも早く気付かれてよかったですね』
穏やかに告げられて、エドもフェルの時のドタバタを思い出して苦笑した。ずっと体調不良だと思っていたのに実は妊娠5ヶ月に入っていると知った時座っていたのは同じ診察室で、隣で立っているのは同じくアレクで。
『ありがとうございます』
『いいえ。少し年齢が高いですが、出産経験がおありですからたいした問題ではないでしょう。フェリックスくんの時と同じ準備で大丈夫ですよ』
女医の柔らかい口ぶりに、かつて不安だらけだった出産を乗り切った過去を思い出してエドは力強く頷いて、
『今回もよろしくお願いします』
と応えた。
そして診察を終えて帰る車中で、アレクから聞かされたのだ。
思わず大声で抗議したことで、ハボックが慌ててブレーキを踏んだのだ。
「少佐〜」
「お、おう。じゃあ、矛盾してるけど安全に急いで帰る、な?」
ハボックが車を再び走らせる。それを確認してから、アレクはエドにだけ聞こえるほどの小さな声で言う。
「バカエド。少佐も巻き込む?」
「あ……」
思わず忘れていた。
ハボックには話をしていないのだ。
「ともかく、今のエドには無理でしょ。お腹の子を第一に考えて」
アレクの窘めに、しかしエドも、今度は小声で応える。
「だけどさ、俺はこのために軍にいるんだぜ?」
「うん、知ってる」
「アルもそうだ」
「………………あたしが知らないはずがないでしょ」
少しの沈黙、続いた言葉がアレクの苛立ちを表すようで。
アレクはアルに全てを聞かされて、全てを理解している。
エドがロイに全てを語ったように。
「子どもにどんな影響があるのか、わからないでしょ?」
「それを言うなら、親が二人もいなくなったらどうするんだよ」
ひそりと告げられる可能性にアレクは眉を顰めた。
これからしようとする【石の破壊】は、その代価として何を奪われるか、分からない。それこそエドの言う通り、誰かの、否、その場にいる全員の命を奪うことだってあり得るのだ。
「大総統閣下も、准将閣下もいらっしゃるしね」
「だけどさ」
「一番影響があると考えられるのは、エド。少なくとも妊娠中の胎児でしょ」
「………………」
「今まで準備してきたことは知ってるよ。だけど、子どものために諦めなさい」
「………………俺が約束したんだ」
「うん。聞いた」
「……あいつに、石を使う代わりにいずれ石を俺とアルが壊すって」
「それが……償いって、言ったんでしょ」



それが、お前たち姉弟の、私とシレリアナに対する償いだ。
赤銅色の肌の男は、握りしめた掌を開き、その中を姉弟に見せながら告げる。
示された掌に輝く、紅い輝石。
エドは力強く頷いて、それを手に取った。
かつてシレリアナと呼ばれ、ラストと呼ばれた、哀しい運命を背負った女性、その魂の残滓を秘めた【賢者の石】を。



「エドの代わりに、あたしがアルと一緒に石を壊す」
「………………」
「せめてもの手伝いをさせて。エド」
珍しい義妹の懇願に、エドはアレクの向こうに流れていく車窓の風致をぼんやりと眺めながら、言った。
「そう、だな」
そして、まだふくらみも感じられない下腹にそっと触れて。
「こいつの、ためにもな」
「うん」
「アレク、頼む」
「わかった」



「おかえり」
ロイの微笑みは、エドの少し緊張していた気持ちをほぐしてくれて。
大総統府に帰り着くと、待ちかまえていた様子のアルがエドの代わりにハボックの車に乗り込んで。
『義兄さんには、病院に行ったことと理由を説明してあるからね』
とあっさりとウィンク付きで告げられて、呆気にとられたエドの前をにこやかな弟夫婦と運転するハボックが去っていって。
部屋に戻れば、読書の最中だった様子のロイが顔を上げた。
エドは部屋の入り口で、何を言えばいいか分からず、あらぬ方向に視線を泳がせて。
いつもの通りの夫の出迎えに、エドの緊張はすぐにほぐれた。
「………………ただいま」
「おかえり。どうだった、病院は?」
「うん。その………………13週だって。4ヶ月ちょっと」
「そうか」
フェリックスの妊娠が発覚した時、エドの告げる言葉が信じられなかった。
エドが隣にいてくれる。
眠る時は自分の隣でいてくれる。
その事実だけで満足で、自分の子どもをエドが妊娠するであろう、当然の事実まで思いが至らなく。
思わず誰の子だと、間抜けな問いかけをしてエドに睨まれたことを覚えている。
ロイは満面の笑みを浮かべて、部屋の入り口に立ちつくすエドを手招きする。
「エド」
「………………」
エドは無言のまま、歩を進めた。
迎えるために立ち上がったロイが両手を広げれば、なんの迷いもなくその胸に飛び込んで。
「エド、ありがとう」
「………まさかこの年で出来るなんて、思わなかったな」
ぽつりと胸の中で呟く妻の言葉に、ロイは苦笑する。
「年齢はともかく、ね」
「………どういう意味だよ」
「私はともかく、エドはまだまだな年齢だろう? 少し前にアレクが言っていたな。エドはまだまだ頑張れる年齢だからと」
そういえば、エドも義妹にそんなことを言われた。今回のことを予想してではないだろうけど、アレクの言葉は、ある意味予言となったのだ。
「この子がお嫁に行く頃には、私は…80歳近いな」
紡がれた言葉に、エドは思わず夫の顔を見上げる。
「お嫁?」
「ん? そうだろう? 20歳で結婚するとしたら私は79歳…相手のご両親より遙かに年上だ…娘が不憫だなぁ」
さめざめと泣いてみせるロイに、エドは眉を顰めて思わず突っ込んだ。
「おい、なんで娘になってるんだよ」
「いや、きっと娘だろう? 最初のフェルは男だったからな」
あっけらかんと告げるロイの言葉を、エドは信じられない表情で聞いていた。
「昔な、ドラクマから来たという占い師に言われたことがある。私は息子と娘、一人ずつ授かるだろうと」
「………………仮にも錬金術師が、占い師の言うことを信じたってわけだ」
「そのうえだ!」
ぐいと拳を握ってみせて、アメストリスの大総統は宣った。
「最愛の女性と結婚することが出来ると、あの占い師は言った」
「はぁ………………」
あたりまえだ。普通はそのときの【最愛の女性】と結婚するものだ。よほどの政略結婚でもない限り。
「あのな、ロイ」
「ん?」
「何より、女とは決まったわけじゃないし」
「いや、きっと女の子だろう」
珍しく譲ろうとしないロイに、エドが折れた。
「分かった! じゃあ、女の子だ」
「ああ。名前も決めてあるんだ、あの名前にしようと思って」
エドが【どの名前】か思い至って、瞠目するのに時間はかからなかった。
「お、おいって!」
「なんだね? 素敵な名前じゃないか。父上が用意してくれていた名前だろう?」
それはかつてフィリップ・ヴァン・ホーエンハイムが夭逝した双子の女児に続いて生まれた三女に贈ろうと決めていた名前だった。もっとも、母親の【名前替え】事件で、結局日の目を見なかった名前なのだが。
「君の名前、でもあるんだからね」
「………………嫌いじゃないけど、なんでだよ」
「君の娘だからだよ」
涼やかに告げる夫の言葉に、エドはもう脱力しきって、ベッドに座り込んだ。
「俺、もう寝たい…」
「む? 疲れたのかね? フェルの時は悪阻でずいぶん眠たかったけれど、今回もそうかな?」
そういう問題ではない、と抗議したかったけれど。
にこにこと微笑む夫の顔を見てしまえば、口の端に乗せようとした抗議は霧散してしまって。
エドは苦笑して、溜息一つ。
「………………ま、いいか」
「む?」
「寝るよ、俺」
「ああ。今日はいろいろなことがあったからね」
 そして眠りにつきながら、エドは囁くようにロイに言った。
「なあ…俺、今すごく幸せだよ」
「ああ」
「この幸せが…」
続きは、聞こえなかった。
気付けばエドは眠っていて。
ロイはその先が気になったけれども、疲れているエドを眠らせてあげることを優先した。



その夜のエドの夢は、普段の夢とは違っていた。
父が、母が、ブラッドレイが、セリムが、そして赤銅色の肌の男女がエドの妊娠を祝福してくれた。
『幸せにね』
穏やかな母の笑顔。
『まあ、何はともあれめでたい!』
豪快に笑うブラッドレイ。その横には成長したセリムの姿もある。
『よかったわね』
あまりにも美しいその紅唇を緩ませて、ラストは言った。
かつて子どもを生めば、命の重さを知ることが出来るだろうと告げたその唇で。
『兄妹は多いほどいいのよ……私は何人兄妹だったかしら? 多かったような気がするわ』
『五人だ』
ラストの代わりに応えたのは額に大きな十字傷を持つ、赤銅色の肌の男。
罪の形は、後悔。
エドに、アルに、そう伝えた男。
賢者の石は自分たちの魂の残滓でしかない。
そうも言った。
『俺は二人だった。少なかったな…そうか、再び母となるか。エドワード・エルリック』
いつだって厳しい表情しか見たことのない、スカーと呼ばれた男の柔和な表情に、エドは言葉を失った。



第一研究所の、最奥にその部屋はあった。
アルは通い慣れたその部屋の、いつでも自分用に置いてある椅子にこしかける。
この部屋には、ただ一つのものしか保管されていない。
それが、中心の台座に据えられた小箱。その小箱を開く鍵はアルしか持っていない。アルはアレクにも預けたことのないその鍵で小箱の鍵を開けて、蓋を開いた。
収められているのは、2つのもの。
幾分くすんだ、しかし十分に輝いている紅い輝石。
そしてもう一つは同じような紅い色だが、気付けば色と輝きは弱く、何より隣に置かれた輝石とは違って粉々に砕かれていた。
アルフォンスは囁くようにその輝石に話しかける。
「やあ。今日は報告があるんだよ…シレリアナ、ジェザーム」
粉々に砕けた輝石は何も変化を起こさなかったけれど、まだ形を残す輝石はゆらりと輝きを放って。
その漂う煙のような輝きは、アルの傍で像を結ぶ。
赤銅色の肌、赤褐色の双眸、白銀の髪、そして何より額に刻まれた十字の傷。
男の像は、ただ静かに佇む。アルもその像をみつめて、沈黙していた。
やがて、像の男は言葉を紡ぐ。
ちらちらと像が歪み、僅かな閃光が走るのは輝石に【力】がほとんど残っていないからだ。
『なんだ、アルフォンス・エルリック』
「姉さんが、二人目の妊娠が分かったよ」
アルフォンスの喜びを抑えた言葉に、男は一瞬黙り込んだが、すぐに言った。
『そうか』
「それだけ?」
『………………シレリアナは喜んでいるぞ』
その女性の名前は、もうずいぶん聞いたけれど、その姿を見ることは出来ない。
最後に見たのは……そうだ、まだ自分が巨躯の鎧に魂をつなぎ止めていた頃だ。
幼いアルが見ても、蠱惑的な微笑みで彼女は言った。
『いいのよ、アルフォンス・エルリック』
続いた男の絶叫と、砕け散った紅い輝石。
それでも、消えていくその瞬間まで、シレルアナは微笑んで。
微笑み続けて、呟いて。
『いいのよ……ただ、忘れないで。約束を』
『シレリアナは…かつて身籠もったことがある』
低い声に、アルは顔を上げた。
ゆらりと安定しない姿の男は、幾分俯きながらしかしそれでも言葉を紡ぐ。
『だが…生んでやれなかった』
もう数百年も前の、話のはずなのに。
あの時絶叫したのは、シレリアナで。
そのすらりと伸びた両足に鮮血が伝うのを、シレリアナはまだふくらみも見せない下腹部を暴漢たちから隠すように身体を丸め。
そして、その場に崩れ落ちた。
黙思に陥りがちだった男の思いを引き上げたのは、姿を見せることのできない女だった。ジェザームと呼ばれた男は苦笑して、自分を見つめているアルに言った。
『シレリアナが言ったんだそうだな。お前にも、エドワードにも。早く家庭を作って子どもをもうけろと』
「ええ、言われましたね…まだ14、5歳の僕は何を言われているのかさっぱりわからなかったんですけど」
わからなかったけれど、彼女が何を言いたいのかは幼心に理解した。
家庭を作り、子どもをもうけることで、命の大切さを学んで欲しい、のだと。
そういう意味で言うならば、シレリアナの思惑は間違っていなかっただろう。
第一研究所の奥まったこの保管室に姿を見せるのは、アルでも週1度ほど。だが最初悲痛な表情で現れてはジェザームに沈痛な思いを語っていたアルフォンスの表情は、みるみる明るくなって。



今度、結婚するんだ。姉さんの、同僚の人で。アレクサンドライト・ミュラーって、宝石の名前の人なんだ。



子どもが、生まれるんだ。



『双子と、三男と、長女だった…か? アルフォンスは』
「ん?」
不意に告げられて、アルは何を言われているか分からなかったけれど、すぐに思い至る。
「うん、そうだね」
『アルフォンスは…幸せか?』
一瞬瞠目したアルは、すぐに微笑み返す。
「うん。幸せだよ。それが……僕は償いだと思ってる。幸せな家庭を築いて。幸せな子どもを育てて。決して…罪を犯さないように」
『そうか』



過ちを、繰り返さないで。
シレリアナとジェザームの思いは、エドワードとアルフォンスに、そしてアレクサンドライトとロイに。
やがて、エルリック家の子どもたち、マスタング家の子どもにつながっていく。
思いは、つながる。
そして伝わり、受け継がれていく。
それこそシレリアナが望んだ、未来だった。



「だから、壊すのは姉さんじゃなくて、僕の奥さんでもいいかな? 事情は全部話して知っているから」
『ああ…お前の好きにすればいい』
スカーと呼ばれ、かつて【鋼の錬金術師】を殺そうとしたジェザームは穏やかな表情でそう告げた。



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