輝石 09
カタンコトン。
一定の揺れに身を任せれば、少し疲れていた身体はすぐに眠りにつけそうで。
それでも、ベッド以外のところで寝るのはナタリアの望むところではなく。
ナタリアは眠い目をこすりながら、背筋を伸ばした。
決して広いとは言えない、コンパートメント。ナタリアの様子に気付いたのは、ハインリヒ・バルグマンだった。
「ナタリア?」
「………………なんでも」
「眠いんだったら、寝なさい。ハリムの看病疲れだろう?」
「………………いいえ」
「横になりなさい。決して広いとは言えないけれど、君が寝る分では問題ない広さだろう?」
ハインリヒの理路整然とした口調に、ナタリアは逆らいきれずに横になった。
あっという間に、睡魔がナタリアの瞼を閉じさせた。
それを見て、ハインリヒは小さな溜息をついた。出来るならナタリアに聞こえないようにと、ひそやかに。
なんと剛い子どもだろう。
我が子のスウォードとカレナリアとたいして年齢も変わらないというのに。
夕べまで、弟ハリムの看病を続けていたナタリアの疲れは口にしないけれども、ピークに達しているはずだった。
ジョイント手術は成功した。ハリムの両足片手につけられたジョイントは、しかし小さなことに過剰な神経痛をハリムに与える。それが痛みを感じなくなるまでリハビリは始められないのだ。幼い少年は痛みに堪えながら、姉に言った。
『もう大丈夫だから。姉様は中央に帰らなきゃ。錬金術学校入学試験の準備、まだすんでないんでしょう?』
弟の容体に後ろ髪を引かれる思いだったナタリアは、しかしすぐに心を定めた。
『責任持って看るに決まってんでしょ!』
にっかりと笑う母の前で、スウォードが力強く頷いた。
『うん、大丈夫。僕もいるよ』
何より背中を押したのは、ハリム自身だった。
否、その言葉を聞いたのはナタリアだけで、ハリム自身も覚えていないだろう。
手術が終わり、その夜からハリムは高熱で魘された。
ナタリアは必死の看病を続けた。続く高熱は中央に帰る間際のアルが処方してくれた薬が効いて、少しずつ容体は安定し始めた。
話すこともままならなかったハリムが、寝言を言ったのはある晩のことだった。
ナタリアはハリムの枕元でうたた寝をしていた。そんなときに、何かの音に起こされたのだ。
まるで隙間風のような。
顔を上げて、辺りを見回せば、窓はしっかりと閉まっているし、部屋に誰かがいるわけでもない。
気付けばハリムの唇が僅かに動いていた。
耳を寄せて聞き取れた言葉に、ナタリアは瞠目する。
『かあさま…ごめ…さい………僕がいき…てしまって………………なさい』
乾いた唇は、白くなっていて。
眦からは幾筋もの涙の跡が見えて。
ハリムは呟き続ける。
『父様……ナタリア……ごめ…………ぼくが…………ぜんぶ…いんだ』
あのとき、落ちなければ。
僕が、死ねばよかったのに。
紡がれる残酷な謝罪に、ナタリアの双眸からは滂沱たる涙があとからあとからこぼれ落ちて。
ハリムの枕を濡らした。
どこまでいっても。
優しい弟は、優しすぎた。
姉と父に、謝罪し続けた。
だから、ナタリアは母が亡くなって以来かも知れないほど泣いて。
ハリムを起こさないように声を殺して泣いて。
ハリムのために、自分のために出来ることをしようと、決めたのだ。
子どもたちと大して変わらない年頃のナタリアの寝顔を見ながら、ハインリヒは小さく溜息をつく。
ナタリアの中央行きに急遽ついて行くことを決めたのは、中央で銀行の仕事があったからだった。ナタリアがドラクマの公女という身分であることを理由にして、一人で帰すことは何となく憚られ、中央出張を理由についてきた。
だがナタリアをエルリック家に送り届けたあとに、エドワード・エルリック・マスタングか、アルフォンス・エルリックに会おうと心に決めていた。
聞きたいことが、あったからだ。
「なんで俺が」
「テオ…もういいから、うるさい」
我慢強い兄の抗議に、一瞬黙ったテオジュールだったけれど、兄の抗議よりも自分の苛立ちが勝る。
「なあ、だからさ」
「母さんが行けって言ったんだよ。仕方ないだろ」
先回りして答えを言われて、テオは口を尖らせる。
「仕方ないけど…軍人さんに頼めばいいじゃないかよ」
「あのさ、さっきも言ったけど。ハインリヒおじさんが一緒なんだ。軍人さんは都合が悪いんじゃないの……もう、うるさいって」
今朝。
出勤間際に不意に顔を双子に部屋に出した母は宣った。
『あんたたち、今日の夕方暇?』
『………学校のあとなら』
『うん。じゃあさ、お願いがあるんだけど』
中央駅に5時半着の列車にハインリヒとナタリアが乗ってるから。うちに連れてきてね。そうだ、足がないからタクシーでも拾ってね。
双子の返事も聞かずに、母は姿を消したのだ。
「まったく!」
「それよりも、このぐらいのことを頼まれたくらいで一日ぶつぶつぶつぶつぶつ言えるテオが信じられない」
指摘されて、テオはプラットフォームの天井を彩る中世風の彫刻を見るように視線を泳がせた。
「………………気にするな」
「ナタリアのこと、そんなに気になる?」
「な!」
一瞬にして表情を変え、白黒赤と変化する弟の顔を面白そうに見つめてレオゼルドが言う。
「悪い子じゃないと思うけど?」
「あんな、お姫様。単なる我が儘娘じゃないかよ」
「そりゃあ、今まで傅かれて生活することに慣れてるんでしょ。まあ、テオは最初から二人につっかかっていたから。反発もあったと思うけど?」
穏やかな応えに、テオジュールは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて。
「………………俺の所為?」
「少しは」
言葉を失ったテオの横を、汽笛を鳴らしながら汽車が滑り込んだ。
書類を山ほど抱えたラツィオ少尉を従えて、アレクがげんなりしながら執務室に入った時、ちょうどシュミット大尉が受話器を電話に戻すところだった。
ハフレード大尉がアレクに声をかけた。
「おかえりなさい、准将」
「………………少尉、その辺置いてって…置ける?」
腕の中で山積みされた書類で少尉は前も見えないような状態で。ラツィオはバランスを取りつつ、書類を器用に全員に分配していく。
「査定書類だよ〜っと。またまた大総統閣下が仕事を回してくださいました」
丁寧な口調だが、それは痛烈な皮肉なのだ。
アレクの部下たちは一様にげんなりした表情で抗議の声を上げる。
「また、ですかぁ?」
「昨日も分野違いの書類をあちらさんに届けなくちゃいけなかったんですよ?」
「いい加減、正気に戻ってくれない…ですか?」
唯一の女性であるハフレードが上目遣いにアレクを見る。
「病気、じゃないんだから」
「無理。もう、にっこにこの、うっはうはの、るんるんで。そういう大総統閣下を世間様の眼に晒すのと、書類片づけるのどっちか選べッて言われたら…あたしは悪いけど書類を選ぶよ。あれは………………ちょっと、見せられない」
項垂れるのは、大総統の義妹なのだ。
近しい者が、外に出せないという『大総統の状況』は幾分興味をそそられるけれども。
大総統府が機能停止寸前に陥ったのが2週間前。
その状況を導いたのは、どうやら『大総統夫人の妊娠』だという噂がまことしやかに流れ始めたのはそれからまもなくだった。女性士官の【影の情報網】にネットワークを持つハフレードがおそるおそる上司にお伺いを立てると、簡単に答えは返ってきた。
『うん。そうだよ』
決済のサインを入れながら銀色の髪の上司は不思議そうにハフレードを見たものだった。
『おかげでロイがま〜〜〜〜〜ったく仕事しないんだ。で、今後こっちに仕事たくさん回って来るからね』
あっけらかんと告げられて、ハフレードは一瞬自分の思考回路を疑ったものだった。
「ま、少し様子見ましょ。二人目だから前回よりも落ち着くのは早いと思うし」
にっかりと微笑むアレクにシュミットが言う。
「准将。ご自宅からお電話で、ナタリア公女と、バルグマン氏がお着きになったと」
「ん。了解」
アレクは小さく溜息をついて、自分の執務机を占領している書類の山を一瞬だけ見上げ。
「さて、今日こそは早く終わらせて、帰ろうかな」
ところが、思わぬ妨害が入った。
部下たちの書類整理の手は止まってしまって、その【妨害】を見つめているのに、アレク一人が一切その存在を無視して、黙々と書類にサインを続けている。
さすがだ。
感心している部下たちをげんなりさせていた【妨害】が声を上げる。
「なあ、アレクよぉ。聞いてくれよ」
「五月蝿い。結婚式一週間前の父親の心境なんて聞きたくもないし、あと15年もしたら嫌でも聞かされるから、今度の楽しみにとっておく」
アレクは一気に語って。
あとは黙々とサインに没頭した。
アレクにしてみれば、早く仕事を終わらせたいのだ。今日は公女と、ウィンリィの夫まで家にいる。エドも家に行くと連絡を受けた。マースにはそのことも告げてある。この書類の山を終わらせないと帰れないと。なのに、わかっていて、このメガネ中年オヤジは言うのだ。
さすがのことに、シュミットがアレクに助け船を出した。アレクに書類を渡しながら、
「准将。お願いですから」
「あ、大尉。大尉は子どもは?」
「………………娘が一人」
細メガネの向こうで、きらりと輝くものを見て、シュミットは思わず後ずさる。
しまった。
「じゃあ、じゃあさ。わかるよな? 俺の気持ち?」
「いや、あの……自分は離婚しておりまして、娘は元妻が引き取って……で、結婚も後から聞いたほど疎遠だったもので」
「でも、娘が離れていく時は寂しかったでしょうが!」
「え、あの……はあ」
ちらりと直属の上司と視線があった。
静かな視線が、
『何で言うかな、大尉。もう責任取って話聞いてよね』
と怒りを吹くんで語っていた。
シュミットは小さく溜息をついて、
「何かあったんですか?」
「無視、するんだよ。エリシアもグレイシアも。リチャードも事情知ってるみたいだけど、教えてくれないんだ」
思い切り眉間に皺を寄せて。
【兄】はようやく話し相手を見つけたというのに、それでも【妹】を見つめて、
「ウェディングドレスが、少し地味だったから派手にしたら? って言っただけなのにさ」
「………ドレス、ですか?」
エリシアの結婚が決まって、2ヶ月。
とはいえ外交担当のマースは一月置きにアエルゴ、クレタと移動していた所為でエリシアが母のグレイシアとにこやかに談笑しながら、自分の結婚式の準備を進めていたことを、知らないのだ。
刺繍は良家の女子の【嗜み】だから、エリシアがアレクにウェディングドレスに施す刺繍について聞きに来たことも。
『あら、自分で?』
『そうなの。母さんと二人で、ヒューから貰った生地で一から縫ってるのよ。でも…あたし、へたくそだから』
広げて見せるエリシアの10本の指は、どれも絆創膏に包まれて。
日数と初心者のエリシアに合わせて、アレクは決して豪華とは言えないけれど、見栄えのする刺繍方法を教えたつもりだったのだが。
この言い様では、おそらくエリシアとグレイシアの手縫いだと聞いていないのだろう。
「第一生地から気に入らないんだよなぁ」
マースの愚痴は続く。
「ドレスを直接渡すもんだろ、結婚式の準備で新郎側からの贈り物は。ところが、反物を贈ってきたんだぜ?」
「反物……?」
「あ、それは」
西方出身のミンツ大尉が声を上げるが。
アレクはようやくペンを置いて。
深く深く溜息をついて。
自分の執務机に腰掛けているマースをにらみつけて、言った。
「ヒューバードは西方出身でしょ。西方では花嫁に花婿から反物を贈るの。それが風習…ミンツ大尉?」
「あ、そうです……これで自分の好きなようにドレスを作っていいって意味だそうですけど…」
ミンツの応えに眉を顰めてマースが言う。
「わ〜ってる。その反物でエリシアがドレスを作ったのは。だけどなぁ…縫い目もギザギザ、折り目もがたがた。そんな縫子がどこにいるんだよ」
「………………ギザギザガタガタばっかりだった?」
「いや? きっちりした縫い目もあったけどな」
あっけらかんと告げる【兄】が、無性に憎たらしかった。
おそらく言われた瞬間、エリシアは怒りを通り越して、哀しかっただろう。
あんなに恥ずかしそうに笑いながら、見せてくれた傷だらけの手。
「あのさ、マース。話しは変わるけど、グレイシアは裁縫上手?」
突然何を言い出すのかと、妙な表情のままマースは応える。
「そりゃあな。エリシアもリチャードも、子どもの頃はグレイシアが作った服を着ていたな」
「…じゃあ。エリシアは?」
「エリシアは全然ダメだな。エリシアが縫ったテーブルクロスはガタガタだった……ん?」
中空を見つめてマースが何かを呟き、すぐに愕然とした表情を浮かべる。
ようやく気付いた。
「新郎から贈られた反物で、新婦は自分のドレスを縫う。それが自分の晴れ着になるんだから、誰もが励んで縫うわよね。そうすることで、裁縫が上手になりますようにという願いも反物には込められる…そうよね? ミンツ大尉」
「はい……そうです」
マースは呆然とアレクを見ながら、不意に思い出した。
「お前、そういえば昔西方司令部にいたんだよな」
「ええ」
「じゃあ、ヒューバードから贈られた反物の意味を教えたのは」
「あたしじゃないわよ」
確かにエリシアから確認された。聞いたことのある風習だったから、アレクは知っている限りを教えたけれども。
エリシアはヒューバードから贈られた反物を前に、困り果てていた。だからグレイシアに縫ってもらえば? と提案したのはアレクだった。まさかエリシアが参加しているとは思わなくて。
「とにかく、今度のことはマースが悪いわね」
「………………はい」
「少しはヒューバードのこと、認めてあげなさいよ」
ヒューバード・カランドムは軍人でもなければ、政治家でもない。商家であるカランドム家の次男としてカランドム商会中央支店を切り盛りしながら、中央第一大学大学院で法律の勉強をしている、勤勉家だ。3年もの間、正直エルリック夫妻よりも遙かに【清純なおつきあい】をして、エリシアにプロポーズしたのだ。何度かアレクは会ったことがあるけれども、好感を持てる青年だった。
「………………エリシアちゃんは」
泣き出しそうなマースの表情をちらりと見遣って、アレクは言う。
「娘を男に取られた父親の気持ちなんてまだ分からないし、女親のあたしには一生分からないかも知れないけど。だけどね、ヒューバードを選んだエリシアの気持ちも考えてあげてね。それに」
アレクは思い出す。
自分という存在を受け入れてくれたアルと、手を携えて進もうと決めたこと。
痛みに耐えて、自らの命の危機に際しても諦めず産み落とした、新しい双つの命。
それを腕に初めて抱いたときの喜びを。
「それに、マースとグレイシアが味わったものを、エリシアには味わせないつもり?」
「なんの話しだ?」
アレクはにっこりと微笑んで。
「新しい家族が増えるという、喜び?」
「………………そういうものかな?」
「うん。だけど今は」
ペンを持ったままの手をぴしりと掲げて、アレクは宣言する。
「とりあえず、エリシアとグレイシアに謝ってきなさい」
「はい!」
返事も良く、マースはあっという間に駆け去った。
マースという嵐が巻き起こした風で舞う書類を手際よくかき集めて、アレクの机に置きながらシュミットが言う。
「すみません、要らないことを」
「いいよ。結果として大尉が聞き出したことは間違いじゃなかったんだから」
アレクは再び猛然と書類にサインを入れ始めた。
「まったくあのとんちんかんオヤジ」
「しかし、兄に苦労されますね? 准将も」
「ん?」
見上げれば悪戯そうに微笑む初老の男性の目。
妻の妊娠に舞い上がりすぎて、手の着かない男。
娘の結婚に動転しすぎて、妨害ばかりの男。
その二人がアレクの【兄】と呼べる存在なことを、シュミットだけが知っていた。
アレクは小さく微笑んで、
「うん、そうだね。まともな兄を選べなかったことがあたしの人生の最大の汚点かな?」
「ひや〜、まさか雨だとはねぇ」
アレクは髪に肩についた雨の滴を、まるで犬のように身体を頭をふるふるとふるわせてはじき飛ばす。
「いやだ、ママ!」
タオルを届けてくれたリオライトが雫を浴びて、ふて腐れた表情を浮かべる。
アレクはゴメンゴメンと、リオの髪を撫でて。
夕暮れ時に降り始めた季節はずれの雨は、雷鳴を招いて豪雨となっていた。
「どうぞ、アレクさま」
ヘンリエッタの差し出したタオルを受け取りながら、アレクは自分の足下にしがみついたまま離れない末娘を見下ろす。
「ん? リオ、どうかしたの?」
「おじさんが怒ってるの」
ぎゅっと握りしめられた軍服が皺になるのも気にならず、アレクはタオルを渡すのを待っているヘンリエッタを見る。ヘンリエッタは小さく頷いて、
「バルグマンさまがお越しです」
「………アルも、エドも?」
「はい」
アレクはその答えで全てを察した。リオの頭をくしゃりと撫でて、
「リオ。イオと双子は?」
「…………お部屋」
「ん。じゃあ、そっちに行ってて。あとで母さんと一緒にお風呂、入ろう」
「うん!」
子どもは敏感だ。
すぐに空気を読む。
そして、一触即発の空気におびえたのだ。アレクはすぐに分かったから、ヘンリエッタに小さなリオの手を渡し、
「お願い」
「アレク様は?」
「着替えてすぐに行くわ」
アレクが向かうのがどこなのか、それはヘンリエッタも了解していて。ただリオの手を引いて。
「さあ、リオさま。少しだけ兄上さまたちのお部屋に行きましょうか?」
「うん…ママ、大丈夫かな?」
「ええ。大丈夫ですよ」
アレクが私服に着替えてリビングに入った時、雷鳴が近くで聞こえた。
小さく肩を竦ませながら入ってみた部屋は、明らかに空気を違えていて。
ちょうど入り口に顔を向けていたアルがホッとしたように妻を迎えた。
「アレク」
「ちょっと、うちの娘を脅かさないでくださいよ、ハインリヒ。おじさんが怒ってるって半泣きでしたよ」
アレクという第三者が入ってきたことで、部屋の空気は幾分和らいだ。だが、まったく和らぐ様子を見せないのが、部屋の空気を重くしている張本人のハインリヒ・バルグマンだった。
「それはすまなかったな。だが、私は納得いかなくてね。エドワードさんとアルフォンスさんにさっきから聞いているんだけれども、応えてくれないんですよ」
柔和な表情。
背負う、重い空気。
いつでもどこでも柔和な表情を浮かべることが出来る、という特技を持つ者。それが銀行員だとアレクは聞いたことがある。出資を進めるのも、死活問題となる断るのも、同じ表情で行わなくてはならない業務だからだ。
そして、エルリック姉弟の幼馴染みであるウィンリィの夫でもある。
アレクは小さく笑んで、ハインリヒに問う。
「さて。私は話しに加わる権利がありますか?」
「………もちろん。ナタリアとハリムに関することですから」
ナタリアとハリム。アメストリスにおける身元引受人は実はアレクになっている。そのことを揶揄していることにアレクはすぐに気付いた。
意外な名前に、アレクは眉を顰めてコーヒーカップを差し出したアルフォンスに視線を向けると、
「ナタリアはもう寝ている。ハリムはナタリアの話では順調に回復しているって」
すぐに答えが返ってきた。アレクは小さく頷いて、
「で?」
「アレクサンドライト、医師であるあなたもご存じのはずだ。機械鎧が、ジョイント手術がどれほどの負荷をかけるか。まして、子どものうちにすれば、成長の妨げになることだってある」
アレクは視線を揺らがさなかったけれど、少し青白い表情でテーブルの隅に座っていたエドは、自分の右手を左手で撫でるように触れた。
「ええ」
「それでもなお、ハリムの手術を認めたのはなぜですか」
ハインリヒの静かな抗議は、おそらくは内情を知った者全てが口にする疑問だろう。アレクは静かに応えた。
「ドラクマからの要請でもあり、機械鎧整備士になりたいと願うハリムの気持ちを考慮して、では納得しないと?」
「あなたは………ハリムに限らず、子どもがジョイント手術に泣き叫ぶ姿を見たことが、あるいは聞いたことがあると!? あれば、あのような仕打ちは出来ないはずだ」
「そうでしょうか?」
「ウィンリィですら………子どもに機械鎧をつけることは嫌だと、言いました」
がたん。
激しい音に、言葉を弄しようとしていたアレクも抵抗しようとしていたハインリヒも顔を上げた。
青白い顔で、立つ女性。
雷鳴で、一層白く見えて。
戦慄く唇が紡ぐ言葉。
「嘘、だ…」
「姉さん?」
「…………ウィンリィが、そんなことを言うはずがない!」
アレクはエドの言葉を察して、鋭く叫んだ。
「エド!」
エドはつかつかとハインリヒに歩み寄る。ハインリヒは立ち上がり、自分の胸までしかない女性の視線を真っ直ぐに受けて、
「ウィンリィが言いました。哀しいから、嫌だと」
「嘘だ!」
「エド!」
「だって、俺に機械鎧をつけたのはウィンリィとばっちゃんだ!」
一瞬、空気が音を消した。
遠くで雷鳴が響く。
「………………え?」
「………………エド」
「姉さん」
一つの困惑と、二つの嘆息。
エドは自分が口にしてしまった言葉の意味を、すぐに理解した。
呆然と立ちつくす、ハインリヒの視線で。
「あ………………」
「それはどういう、意味ですか? エドワードさん、あなたは機械鎧を装着しているなんて、聞いたことないですよ。ウィンリィからも聞いていません」
険しい表情で告げられたハインリヒの言葉に、エドワードは助けを求めて周囲を見るけれど、肩を竦めているアレクに、項垂れているアル。助けにはならず、エドは…心を決めた。
「ハインリヒ」
「はい」
「長い、話になる。聞いてくれるか?」
「………………はい」