輝石 10
翌朝。
ぐっすりと眠ったナタリアが汽車の所為か、痛む節々を気にしながら起き出した時、ちょうどハインリヒが出かけるところだった。
「バルグマンさん」
「ああ、ナタリア。僕は今日仕事を済ましたら、その足でラッシュバレーに戻る」
ナタリアは頷いて、深々と頭を下げた。
「わざわざ、すみませんでした」
「いいや…身体を、大事にしなさい」
見送りに出たアルフォンスに、ハインリヒは小さな声で囁いた。
「ウィンリィには、この話は?」
「構いませんよ。してあげてください…」
アルフォンスの言葉に、ハインリヒは微笑んで、
「ありがとう。今度は家族でラッシュバレーにいらっしゃってください」
「はい、ありがとう」
交わされた強い握手は、誓いとなる。
ハインリヒと別れて、リビングに向かったナタリアを呼び止めたのはアレクだった。
「おかえり、ナタリア」
「ただいま、です」
微笑んで、アレクはナタリアの顔を覗き込んだ。
「ラッシュバレーはどうだった?」
「……いろいろと大変でしたけど……」
「うん」
「賑やかな、ところだったんですよね?」
奇妙な疑問に、しかしアレクはナタリアがほとんど町の様子を知ることなく、ハリムの看病に明け暮れていたことをハインリヒから聞かされていたからあえて追究せずに。
「機械鎧のメッカ、って言われてるところだからね」
「今度、ゆっくり行きたいです。スウォードとカレナリアにもお礼を言いたいし」
「そっか…あ、ナタリア。渡した本はちゃんと読んだ?」
「はい」
今度は明らかに表情が変わった。アレクはそれをほほえましく見て、
「じゃあ、あとで試験しよっか。とりあえずは、ご飯食べようね」
「なあ、やっぱりここに龍を入れた方がよくないか?」
「テオ、龍を入れちゃうと別の物ができちゃうよ」
「あ、そっか…じゃあ」
書庫の床に大きな紙を広げて、あれやこれやと錬成陣を書いていた双子は母とナタリアが入ってきたことに気付かず。
「お、やってるね。今日の課題は?」
「……鉄鉱石の錬成変換」
一瞬の無言は、アレクの隣にナタリアを見つけた所為で。テオはナタリアから明らかに視線を外しながら言った。
「なるほどね、リンドバーグのじいさまもなかなかいい宿題を出すね…」
ふんふんと、双子の書きかけの錬成陣を見遣って。
アレクは間違いに気付いたけれど、あえて指摘せずに、
「あのさ。ナタリアのこと、お願いするわ。基礎知識は全部マスターしちゃってるみたいなんだよ。さっき試験したら、満点だった。だから多分、入学試験も問題ないと思うから」
「は?」
母は何を言いたいのだろう?
双子は意味が分からず、レオが聞き返す。
「母さん?」
「だから、ナタリアの先生役、してあげて」
「………………何を教えればいいのさ?」
「まあ、錬金術の色々を、ね」
「准将」
ナタリアが呼ぶが、アレクは応えず。
「学校連れていってあげてもいいよ。書庫にない本を読むのもいい。ただ、錬金術から離れないように。離れてしまえば覚えたことを忘れてしまうからね」
「准将」
「いやだな、ナタリア。名前で呼んで」
にっこりと微笑まれて、ナタリアは抗議の言葉を飲み込んだ。
「で、では………アレクサンドライトさん」
「長いね」
「………………」
「アレクで良いって」
「アレクさん」
「はいな」
「お二人が迷惑なら、私は一人でも」
ナタリアが双子を見つめると、珍しくテオも自分を見つめていて。絡んだ視線の意味をはかりかねていると、アレクが声を上げる。
「だ〜め。じゃ、双子頼んだわよ」
書庫を出る間際、アレクは思い出したように振り返り、
「双子、そのまま錬成すると爆発するからね〜」
「え?」
レオが慌てて錬成陣を見直して。
「うわ、硫黄生成になってるし!」
「…………気付いてるなら、最初から言えよ」
テオはぽつりと呟いて、立ちつくしているナタリアを見遣って。
「勉強、したんだ」
「え、ええ。いただいた入門書を全部暗記したので」
「暗記!」
アレクが中央出発の時ナタリアに渡した入門書は、辞書ほどの分厚さがあったはずなのに。僅かな間に丸暗記するのか。テオは一瞬呆気にとられるが、すぐに我に返って、錬成陣を記した紙を片づけるレオの背中に言う。
「学校に行く?」
「うん、そんな時間だね」
「………………一緒に来るか?」
急に言われて、ナタリアは一瞬テオが誰に話しかけたのか理解出来ず、
「え?」
「学校だよ、ガッコ。行かないか?」
「………いいんですか?」
テオはにっかりと笑って。
「いいに決まってるだろ」
そうして手をさしのべた。
「アレクさま。エドさまがお忘れになったようです」
ヘンリエッタが差し出したのは一枚のハンカチだった。アレクは受け取って、
「うん、じゃあ今日でも渡しておくよ」
「はい」
差し出されたコーヒーを飲みながら、アレクはエドのハンカチをぼんやりと見つめていた。
久しぶりの休日だった。
イオとリオは仕事に向かうアルが司令部の保育園に、双子は少し前にナタリアを連れて学校に出た。昨日の豪雨の中を帰らせることに不安を感じて、エドは一泊させた。今朝、アレクがまだ眠っている間に帰ったようだ。
「アレク様、マリウスと買い物に行きたいのですが」
ヘンリエッタが申し訳なさそうに言うが、アレクは笑って、
「うん、いってらっしゃい」
「アレク様に留守番などとは」
マリウスが眉を顰めるが、本人のアレクは肩を竦ませて、
「気にしてないから行っておいで」
そして、広いエルリック家はアレク一人になった。
久しぶりに、一人になった。
元々、孤独には慣れているつもりだった。
だが背中に火傷を負ってから、常に傍にはロイかマースがいた。
軍に入ってからは、部下が。
アルとつきあい始めてからは、いつも傍にいたいアルがまるで磁石のようにいつもべったりと一緒で。
子どもが生まれてからは、専業主婦ほどではないけれどやはり子どもがいつも一緒。
不意に襲われた寂寥感に、アレクは自嘲する。
「変なの」
そう、変な話。
一人に慣れていない、と今更気付くなんて。
一人は、怖いんだ。
誰も近くにいないのは、恐怖以外の何者でもない。
俺は………だから、縋った。
アルの魂、に。
昔、そう語ったのは義姉。
そして雷鳴轟く中で、夕べも姉は語っていた。
かつての、自分の犯した罪を。
アルフォンスが深い深い溜息をついて、エドに言った。
「いいの、姉さん」
「ああ。ウィンリィも知っていることだ。ハインリヒにも知っておいて欲しい。それに………」
エドは眼を眇めて、
「だからこそ、スウォードやカレナリアに伝えて欲しいんだ。過ちを犯さないように」
「……姉さん」
ハインリヒは眼を細め、問い返す。
「うちの子どもたちが何か?」
「これからする話を、直截ではなく伝えて欲しい。してはいけないこと、だから」
ただ、無邪気なだけだった。
無邪気は時折、無知と同意になる。
人体錬成が禁忌とされていることを、大人のエゴだと思いこんだ幼子たちは、過ちを犯し、罪を背負い、大切なものを喪った。
姉は左足を。
弟は身体の全てを。
だが姉は再び過ちを犯す。その代償は右腕だった。
無くした弟の身体を、魂を、精神をこの世に戻そうとして、戻せたのは姉と情報が近い魂だけだった。
巨躯の鎧に魂をつなぎ止めた弟と、喪った手足に機械鎧をつけて姉は旅に出る。
弟の身体を、姉の手足を取り戻すために。
そして、錬金術の大原則【等価交換】を必要としない触媒、【賢者の石】を手に入れて、三度錬成を行った。
「愚かなことを、した。俺は」
ぽつりとエドが言う。
雷鳴は激しく鳴り響き、重い空気のリビングを一層重い空気で淀ませる。
「……私は錬金術は分かりません。ですが…自分が同じ立場で同じ能力があったのなら、同じことをしたでしょう」
「ああ、そうだろうな」
それは誰もが否定できない事実だ。
技倆があれば、そして禁忌に対する抵抗力が弱ければ、人間は簡単に越えてはいけない一線を越えてしまう。幼い姉弟はなんの疑問も持たずに、罪の領域に踏み込んだ。
だからこそ、エドは望む。
するりと上着を脱ぎ、右腕のつけねを見せた。肩から脇にかけて、腕のつけねには広範囲にわたってケロイド状になってしまった傷跡が広がっている。ハインリヒが息を呑む様子がわかった。
「だけど、しちゃいけない。自分のために、愛するもののために。俺は一度ならずも三度も手を出した。それを忘れちゃいけないんだ。この傷跡がそれを俺に示してくれる」
愛おしそうに、爛れた傷跡を撫でるエドはまっすぐにハインリヒを見て。
「俺がハリムに機械鎧をつけることを止めなかったのは、ウィンリィに預けることでハリムの気持ちが少し穏やかになればいいと思ったからだ。あいつの手は…人を生かす手だ。人の命を掬い上げる手なんだよ」
『お前の手はさ、人を生かす手だよ。俺たちみたいな軍人の、人を殺す手じゃない。人に希望を与える手なんだよ。だから……そのままでいてくれよ。誰かを…殺そうとしないでくれよ』
ハインリヒはウィンリィから聞いたことがあった。かつて両親の仇だと自分で告白した男を、ウィンリィは殺意を持った。
それをとどめたのが、エドの言葉だったということを。
『だからあたしは、人を助ける。この手で、エドが褒めてくれたこの手で、人に希望を与えるよ』
エドは上着を着ながら言う。
「言葉で、禁忌を犯すなというのは容易い。だけどそれじゃあ、現実味がないんだよ。子どもにしたら、ベッドに靴履いたまま入るな、と言われているのと同じくらい、やってみないと分からないことなんだよ」
自分たちがそうだったように。
「一筋でも、希望が見えれば禁忌に眼を向けることはない。だから…ウィンリィの与える希望に、俺は賭けてもいいと思った」
「それと、ハリムにとっては生きていることすら、苦痛の一つなんですよ。自分の命は母を犠牲にした、と信じているから」
アルの言葉に、ハインリヒも頷いた。
それはウィンリィも心配していた。
『あんなに自己否定をしても…誰も幸せになんてなれないのに』
誰も幸せになれない、自己否定。
姉弟とハインリヒの話を聞きながら、アレクは思い出す。
かつて、自己否定に陥った自分を。
そして自己否定という名の暗闇の世界から自分を引き上げてくれたのは、祖父であり、マースであり、ロイだったことを。
「フェル、学校か?」
「うん。母さんは今帰ったの? 夕べ、父さんいじけまくってたよ」
冷静な息子の言葉に、エドは苦笑する。
「やっぱりな」
「すごい雨だったね。朝方にお迎えが来て、父さん仕事に行ったんだ」
「仕事?」
「うん。堤防がケッカイがなんとかって」
バケツの底が抜けたような豪雨だった。大総統府までは車で10分の距離にあるエルリック家だけれども、それでも帰ることが躊躇われるほどの雨量で。電話をすれば、夫は溜息をつきながら、無理をしないでアレクとアルフォンスのお世話になりなさいと言ってくれた。
おそらく中央近郊の河川が氾濫か、堤防が決壊しそうになっているのだろう、こういうときは特級錬金術師よりも国軍が動くことが最近特に増えた。
「俺が行けば、一発だったのになぁ」
エドの愚痴に、フェルはにっこりと笑って。
「父さんが出させてくれないでしょ」
「あ〜、確かに」
「僕行くから。あ、一昨日預かったもの、今日リンドバーグ先生に届けるよ」
「…預かった?」
「リンドバーグ先生が見たいって言ったんでしょ、『金属変質』」
フェルが持ち上げたのは、錬金術の研究書で。エドは小さく頷いて、
「ああ。行って来い。それからリンドバーグのじじいに、『必ず返せ』って伝言してくれ」
「はい」
パタパタと去っていく足音を背後に聞きながらエドは、あくびをかみ殺しながら寝室に向かった。
フェリックスの時もそうだったが、エドの場合、悪阻もひどかったけれど、何より眠気が常につきまとう。
夕べも枕が変わって眠れないというほどの、繊細な神経の持ち主ではないのでエルリック家の客室でぐっすりと眠った。なのにもう眠いのだ。
今日は休みだ。
「………………寝よ」
分からないか?
問われても、エドは理解できなかった。
それって、どういう意味なんだよ?
ジェザームと呼ばれた男が苦笑している。
お前たちが、背負うもの。
新たな罪は、後悔だ。
母を人体錬成して、左足を喪った。
弟の魂を錬成して、右腕を喪った。
いずれも禁忌の名に相応しく、想像を絶する痛みを伴った。
後悔は、どういう痛みを伴うのか、その頃のエドには理解できなかった。
だが、後悔は、確かに痛みを伴った。
刃こぼれしたナイフで何度も裂かれるように。
ゆっくりと水底に沈んで、沈殿してゆく毒という名の汚泥を呷るかのように。
柔らかく、心に浸透して。
心の海に一滴落ちた『後悔』という名の雫は跳ね返り、更なる雫を生んで、波紋を生んで。
だから、声の限りに叫ぶ謝罪は誰の耳にも届かず。
必ず、後悔するわよ。
シレリアナの言葉が、エドの心を貫く。
眠るエドの眦から、一筋涙がこぼれ落ちたことを、誰も知るよしもなかった。
学校の教授室の前で、双子とナタリアは見慣れた顔を見つけた。
「あ」
「よう、フェル」
「おはよう。ナタリアさんも」
ナタリアが軽く頭を下げると、フェルは同じく軽く返して、
「ね、夕べなんかあったの?」
「ん? ああ、ハインリヒおじさんが来てたんだよ」
「……よくわかんないけど、今朝の母さん、なんだか様子が違ってたから」
「ちょっとケンカぽかったかな。リオが半泣きでヘンリエッタさんに連れられて僕らの部屋に来たから」
「ふぅん。ま、父さんが何とかするでしょ」
あっさりと引き下がって、フェルは教授室の扉をノックして、促されるまま入る。フェルに続いて双子とナタリアも入った。
教授室は一般学校の職員室とは明らかに雰囲気を違えていた。
教授室は真ん中に一本の通路があって、その両脇にそれぞれの教授の部屋があるが、個室には廊下に面した壁は取り払われている。双子がある仲間から聞いた話では、嘘かホントか蔵書に埋もれて亡くなった教授を発見するのに1週間かかったことが原因のようだ。要するに埋もれてしまうほど蔵書を詰め込むな、という話なのだ。
エルリック家の書庫も相当数の蔵書で埋まっているけれど、20人近い教授たちの蔵書は圧巻で、双子はこの空間がかなり好きだった。
「フェル、お前は誰?」
「リンドバーグ先生」
「なんだ、一緒じゃないかよ」
一歩先を進むフェル、その後をついていく双子、黙ったままその後をナタリア。少し奇妙な組み合わせだったが、一行の誰もがそのことに関心を向けず、一際蔵書の多い一角で足を止め、フェルが声を上げた。
「先生、リンドバーグ先生」
「お?」
不安定に積み上げられた蔵書の一番上を取ろうと、ハシゴをかけていた初老の男は、フェルの呼びかけに振り返り…ハシゴがぐらりと傾いだのを、慌ててフェルと双子がハシゴを抑えた。
「おぉおぉ、すまんの」
リンドバーグはゆぅくりとハシゴを下りて、フェルに問う。
「何かの、フェリックス・マスタング」
「これ、母さんから預かってきました。『金属変質』です。それから伝言です。必ず返せって」
しわくちゃの顔を一層皺だらけにして、老人は笑う。
「ほほ、さすが鋼じゃの。稀覯本を見せてくれるとはの」
「珍しいんですか? よく似たのを家の書庫で見ましたけど」
声を上げたのはレオだった。リンドバーグは眼を細めて、
「おや、エルリックの片割れか。ふむ、それはおそらく『金属変換』であろうの。それも稀覯本だが、『金属変質』の方がまだ稀少での…まったく、国家錬金術師の子どもはこういう贅沢に慣れておるから、いかんの」
「はあ」
すぐにでも読み出しそうな勢いだったが、リンドバーグはようやく気付いたように双子に視線を向けた。
「そういえば、エルリックは何しに来たのかの?」
「あ、あのですね」
「彼女の授業見学を認めてもらえませんか?」
レオの言葉に、リンドバーグは初めて控えめに立っているナタリアを発見する。
「ふむ…お嬢さん、お名前は?」
「ナタリア・ナルド・デル・カララトと申します」
ふんわりと、頭を下げた少女を見つめていたリンドバーグは笑んで、
「ほお。では双域がドラクマより預かりし、公女とはあなたのことか」
「そう、いき?」
聞き慣れない単語に、ナタリアは自分が何か間違ったことをしてしまったのかと、不安になり双子を見るが、
「ほら、母さんの……」
「別名なだけだよ」
「はぁ…」
「ほほ、まあよいよい。ナタリア公女がこの学校を受験するつもりのようだ…とは聞いていたが……さて、エルリック。公女は錬金術を学ぶ姿勢を見せているかな?」
双子は当たり前のことを聞く、と感じながら同じ言葉を同じタイミングで呟いた。
「もちろん」
「ほお」
よきかなよきかな、と相づちを打って。老人は微笑みながら言った。
「では、見学を許可しよう。監督責任者はエルリック、だな」
「え?」
「…………なんか、体よく押しつけられた感じがするのは…」
「ほほ、気の所為じゃ。公女、励まれよ。しかれば、道は開かれようぞ」
「うん、順調順調♪」
動かしてごらん? と促されて、ハリムはおそるおそる椅子から立ち上がろうとする。しかし、左右のバランスをとれずに、大きく傾いで。
派手な音を立てて、再び椅子に座り込んでしまって、全身に響いた痛みに思わず悶絶し、言葉を失う。
「ハリム、少し休む?」
「いえ…」
額に脂汗を浮かべながら、ハリムは決して自分から止める、とは言わないのだ。どんなに苦痛が伴っても、だ。
「そんなに急いでも、歩けるようにはいずれなるんだから」
ウィンリィの慰めも、やんわりと断って。
わずか13歳の少年は、慣れない機械鎧の扱いに四苦八苦していた。
『ほお、お前が手出しあぐねるなんて、珍しいじゃないか』
呵々と笑う声に、ウィンリィは眉を顰める。
「ばっちゃん。あたしはそんなことを言われるために電話したわけじゃ」
『おうよ。だけどねえ、麻疹みたいなもんだからね。どんなに慌てても上手くいくもんじゃない。そう言ってもわかんないものかね』
「う〜ん」
電話の相手は、機械鎧整備士としては大先輩にあたり、大師匠でもあり、何より実の祖母であるピナコ・ロックベルだ。
正直、ハリムを扱いかねて相談の電話をリゼンブールにして、笑い飛ばされた。
『お前が責任持って預かるって、大総統に啖呵斬ったんじゃないのかい? ラッシュバレーの女豹さん』
「う〜」
かつて【リゼンブールの女豹】と呼ばれた祖母の異名を冠してか、いつの間にかウィンリィは【ラッシュバレーの女豹】と呼ばれるようになっていたけれど、決して嬉しい異名ではなかった。それを知っていて、ピナコはあえて孫娘を揶揄するのだ。
『お前さんも………突っ走ってきたからねえ。少し休むには良い時期かも知れないね。ハリムを連れて、帰ってくるかい?』
それは魅力的な誘いで、ウィンリィは思い切り心が揺れた。
決して綺麗とは言えない潤滑油のしみこんだ右手を見つめて。
何もない、天井を見つめて。
そして微笑んで言った。
「そうしよっかな。あ、でも」
『がきんちょを一匹ぐらい預かっても、あたしはまだ倒れやしないさ』
莞爾を聞いて、ウィンリィは心定めた。
「うん、じゃあハリムを連れて行くよ」
文字を追う指が微かに震えるのを、ナタリアは止められなかった。
いくつもいくつも、知らない単語を見つけるたびに辞書を引いた。
知らない単語が見知った単語になり、ナタリアの頭の中で一つの言葉を形成する。
それは、数日前に双子に否定された、ナタリアが望んだ【未来の一つ】だった。
ナタリアの震える唇が、震える指で探し当てた【未来の一つ】を読み上げる。
「賢者の、石…」
「純水変成なんて、普段すると思う?」
「純水自体が手に入らないけどね」
課題の練成陣を記した紙を小さくまとめながら、双子は軽くため息をついた。
「なあ、課題も済んだことだし。どうする? リオ連れて、お散歩でも行く?」
「行きたいけどね、テオ」
手早く広げた資料を片付けながら、レオが言う。
「ナタリアのお勉強見ないといけないからね」