喪われた玉響 5
「あれ、帰ってきてたの?」
代理の執務室のドアを開けると、憲兵司令部から持ち込まれた書類の山を、せっせせっせと分類しているミンツ中尉の姿だった。
「憲兵司令部の同期に話をしたら、すんなり資料を出してくれてな。あれもこれも…それから」
中佐がひっそりと言う。
「メディケム・フォーレン関係も少しもらってきた。どうも…きな臭さを吾輩も感じたぞ」
「ん?」
「げ、こんなにあるんですか?」
うんざりしたように言うフュリー准尉の腕の中にも大量の書類の山。
仕事熱心だった軍医はこれでもかこれでもかと書類を渡してくれて。すぐにでも分析を始めないと、自分が書類の山に殺される。准尉が言い出したこともあり、一度南方司令部に戻り、あとは届けてもらうことにしたのだ。
エドは早く、サンク・アスールー総合病院に向かいたかったけれど、少将に
『絶対に単独行動はいかん!』
と釘を刺されているので、仕方なく准尉と一緒に帰ってきたのだ。
「なあ、中佐。悪いけど、俺の護衛でサンク・アスールー総合病院に行ってくれねえ?」
「分かった。では、その道すがら、少し話をしようか。それはそうと、セリム・ブラッドレイ氏はどうだった?」
「ん? ああ、多分本物でしょ?」
「その根拠は?」
「そうだねぇ…俺の勘!」
仁王立ちするエドを、アームストロングはしばらく黙って見つめて。穏やかに返した。
「まあ、そういうことにしておこうか…」
「なんだよ、それは!」
「憲兵の横のつながりが強いことは、大佐もご存じであろう?」
運転席に小さくなって運転しながら、アームストロングは言う。そんな後ろ姿をすこしほほえましく見ながら、エドは頷いた。
「そりゃあ、嫌われ者の軍の中でも、別格くらい嫌われてるもんなぁ」
青の軍服の中にあって、憲兵は黒の軍服をまとう。
それは、憲兵は戦地に赴かず、警察的機能を一手に背負うゆえの区別の色だ。
だがそれゆえに、軍人からもあるいは民間人からも忌まれる。
そのために結束力が強い。ジリード中将がいくら金銭的力を持っていたとしても、あそこまで勢力を伸ばすことができたのは憲兵司令部の軍部内での権力拡充を目指す全面的なバックアップがあったとしかいいようがない。
結束力が強い、仲間意識が高い。それは団体力を必要とするときにはよいのだが、だが一方で結束力は悪事の温床になりかねない。
誰かの起こしたミスを、仲間のためと勘違いして、隠し通す。
憲兵司令部は、その温床として度々問題を起こしてきた。
「今度の南方憲兵司令部の総司令官は、なかなか出来た人物のようで。我輩の同期が副官をしているのだが、会いに行き、直接交渉すると、すぐにすべての資料の引渡しを認めてくれた」
『おい、アームストロング。これが意味することが分かるか?』
『む?』
『南方憲兵司令部は、今までたまりにたまった膿をすべて吐き出すんだ。とはいえ、そのきっかけを作ったのは、お宅の大佐だよ』
『エルリック大佐?』
中佐の同期は、にやりと笑って。
『大佐と一緒に来た、マイオニー憲兵中佐だよ。あいつはなかなか出来る奴だったらしいけどな。南方憲兵司令部にいたとき、ずいぶんとあくどいことをいろいろしでかしてたらしい。どうも、こっちにいる間にまだ画策しているみたいだから、総司令官も思い切って動く気になったらしい。随分と痛い目にあう事になるな、あの中佐』
『…憲兵は仲良しだと、思ってたが』
『あのな〜、幼稚園児じゃないんだからさ』
「マイオニー中佐にはいろいろと問題が多かったようです。もし告発するなら、憲兵司令部は手助けするそうです」
「うぇ、怪しいねぇ…それって」
エドはあからさまに顔をゆがめる。
助けると言われて、必死に差し伸べた手が振り払われることだって、あるいは引き上げられた先に新たな危険があることだってありえるのだ。
まして、相手はそういう狡猾さに長けたと考えられる憲兵なのだから。
「ですが、我輩あやつを信じてみようと思います」
穏やかな中佐の言葉に、エドは一瞬車窓を見やって。
「う〜ん、中佐が言うならね」
「ありがとうございます。で、同期の話によるとマイオニー中佐のしでかした数々の悪行とは…」
「うん」
「武器の横流しと、製薬会社との癒着、それからテロリストへの情報漏えい、だそうですぞ」
「はぁ?」
「ようこそ、サンク・アスールー総合病院へ」
「よろしく」
エドは正直、そのまま帰りたい気分だった。
軍病院とは違い、サンク・アスールー総合病院の大玄関には病院長と副病院長、事務長が並んでエドを待っていた。中佐が車を止めると、えらく低姿勢の、あとで事務長だと分かった男性が、車のドアを開けてくれて。
「絶対、なんかやましいことがあるね」
「我輩もそう思う」
こっそり2人だけで囁いてみる。
「病院長でございます。お話は院長室でお伺いしますので…ご案内させていただいてよろしいでしょうか?」
「はい、よろしく」
穏やかに微笑んでみせて。
3人が3人、まるで何かに祈るように両手を組んだまま、エドについてくる。そのまま車を置いておいてかまわないといわれた中佐も、エドに付き従う。
「よろしければ、この病院について、院長室に行くまでにご紹介させていただいても?」
「どうぞ」
そっけなく答えるエドの言葉に、病院長は事務長に目配せし、事務長がこほんと咳払いをして、
「それでは。え〜、当院においては…」
もちろん、エドには右耳から左耳に抜けていて。事務長のよどみないせりふは、よどみなくすり抜けていく。
どんな専門科があるとか、どんなに優秀な医師がいるとか、病床数がいくつとか。
実はそんな情報は、中央でアレクが用意した資料に載っていて、既にエドの頭に入っているのだ。だから聞いている風に相槌を打つけれども、実は聞いていないのだ。
ただ。
少しだけひっかかった説明にエドは事務長の説明に耳を傾けた。
「…よって、精神科には病棟が二つあります。患者本人を保護する目的とする閉鎖病棟と、比較的保護を必要としない患者のための開放病棟です」
「珍しいですね。精神科病棟が2種類あるなんて」
エドが横を歩く病院長に聞くと、病院長は引きつったように笑ってみせて、
「隔離を必要とする患者は閉鎖病棟ですが、戦争のためにリハビリを要するような精神科の患者が急増しまして。急遽作らせました」
「そう、ですか…」
それでも、珍しい。首都である中央でも、肉体的戦傷に対する治療は比較的進むのだけれど、精神的衝撃、戦争恐怖症などに対する治療はほとんど進んでいない。それは国家錬金術師が今後取り組まなくてはならない一つの分野だと、前にアレクが言っていたことを不意に思い出した。
「お伺いします…今日は、どのようなご用件でしょうか?」
豪奢な扉を開けると、そこには予想通り豪奢なソファが鎮座し、エドは座るように促されて座ってみたけれど、思った以上のやわらかさに浅く座りなおす。アームストロング中佐はソファではなく、エドの背後に向かい合わせに座った3人を威圧するように立った。
「さて…改めて、と言ってもかまいませんが、こちらに残してある【ジョバンニ・アリトーニ】に関係した書類をすべて、出していただきましょうか」
「全部、ですか?」
「手違いで、そちらが一度提出された書類を確認できないようにしているんですよ。なので、再度確認のために提出していただけますね? 実はこの調査、マッキンリー大総統からじきじきに拝命された軍命でして」
大総統の名前が出ると、3人の背筋が伸びた。
「やはり、【ブラッドレイ氏】となると、中央も、もちろん大総統閣下におかれても、最重要問題といえるでしょうね。それなのに、調査が滞ることがあってはならないと…」
「じ、じむちょう!」
「はい!」
「資料を。ありとあらゆる、書類を提出しなさい!」
「はい、準備します!」
院長に言われるがまま、転がり出るように出て行く事務長の横顔は青ざめて。
中佐は少し気の毒になった。
明らかに、エルリック大佐はいたぶって、楽しんでいるのだ。
まあ、この程度なら冗談ですませることは出来るが、やられた側は一生忘れないと思うぞ?
心の中でエドに囁いて、中佐はエドの頭部を見下ろす。
出された紅茶などを優雅にすすってみて、エドはソーサーをテーブルに戻して、恐縮そうに汗をハンカチで拭う院長と副院長に、
「ところで」
「はい…」
「ジョバンニ・アリトーニ氏のカルテ、は今ないんでしょうか? どういう治療暦があるのか、伺いたいんですけど」
「あ、はい!」
パタパタと副院長が姿を消し、しばらくたって息を切らしながら駆け込んできた。
「あり、ました…」
多分普段は走ったこともないのだろう。院長に書類を渡すとそのまま、座り込んでしまう。
院長はそんな副院長をまったく気にする余裕がないのだろう、必死に書類をめくってエドを見た。
「わかりました」
「その前に、副院長さんを座らせてあげましょう」
意外な優しさに、中佐は首をかしげながらエドに促されるまま、副院長を手助けしてソファに座らせた。
『だってさ、あそこで倒れられたら、俺の所為になるんじゃないかなって』
のちに中佐に尋ねられて、エドはあっけらかんとそういったのだが…それは後の話。
院長が読み上げるカルテの内容は、先ほど軍医に説明された内容と大して変わらず。
エドは必死で退屈に見えない表情を作っている。
だが、軍医が知らなかったであろう怪我の治療直後の経過には、さすがのエドも身を乗り出した。
身元不明者の少年はそれでもなんとかリハビリによってその身体を常人と同じように動かし、同じように話す程度まで恢復したのだ。
だが、記憶だけは戻らなかった。
身元を照会した憲兵司令部からは色よい返事がなく。病院側は困惑した。高額な医療費を、まだ未成年と思われる患者が支払えるはずもなく。
そこに救い主が現れたのだ。
その人物によって、身元不明の少年は【ジョバンニ・アリトーニ】の名前を与えられ、精神科開放病棟で記憶を回復するための闘病生活を続けていた。その医療費もその人物が用立てたという。
「誰ですか、それは?」
「ミレニア・ラッツェルンといいまして、精神科の医師です。技術も高いですが、人物もよく出来ておりまして…ジョバンニ・アリトーニ氏以外にも身元不明者や身寄りがいない者を何人か面倒みておりまして」
「へえ」
「あの、なんでしたら呼びましょうか?」
「ああ、お願いできますか? あと、ジョバンニ・アリトーニ氏の担当医だった方も」
副院長はわが意を得たりと言わんばかりの表情を浮かべて答えた。
「はい。担当医はそのラッツェルン医師です」
最初は純粋な、興味だった。
医師は、その生命に関する職業ゆえに高い収入を得る。エドも目的を持って国家錬金術師になっていなければ、医師になっていただろう。実際、医師になりたいなぁと純粋に母に言ったことを、自分自身で覚えている。
しかし、それほど裕福だろうか。
身寄りのない、あるいは自分の記憶を失くして、路頭に迷う人を一人ならず何人も生活を支えることができるなんて。
その些細な興味が、一気に結果を生み出すとは、その時のエドは知らなかった。
「こ、これで全部です…」
さきほどの副院長と同じように、息も絶え絶えで現れた事務長をエドは先ほどと同じく宥めて、ソファに座らせた。
事務長が持ってきたのは、エドが持ち上げるのにちょうどよい大きさの木箱に3つ。
「確認させていただく」
アームストロング中佐が、木箱のふたを開けて何枚かの書類を抜き出し、読み始めた。エドは労いの声を3人にかける。
「大変でしたね。…あなた方の協力に関して、南方司令部総司令官であるハクロ中将、ひいては大総統にもご報告しておきます」
「あ、ありがとうございます!」
「それはそうと、一つお伺いしてもよろしいですか?」
穏やかに微笑みながら、エドは言う。
「こちらの病院では、治験を多く受け入れているそうですね?」
きょとん。
3人の表情はそれに尽きる。
「えっと、何の話ですか…」
エドは何か聞いてはいけない話を口にしたような気がして、眉を顰めながら、
「国家錬金術師機関に、特許申請をしている製薬会社の中でメディケム・フォーレンがこちらの病院で治験を頻繁に行っているという資料を見たことがありましてね。少し気になったので、聞いてみただけですよ」
「治験…事務長、知っているかね?」
「あ、受け入れはしていますけど…メディケム・フォーレン? あんまり聞かない名前ですね」
妙だ。
3人の反応は、何かを隠しているようには見えない。
これは、何を意味しているのか。
不意に考え込みそうになったエドの意識を、ドアのノックが引きずり戻した。
「はい」
『ラッツェルンです…あの』
病院長が返事をする前に、ドアは勢いよく開かれた。そこにいたのは、茶色の髪をまとめ黒い瞳を見開いている女性。そしてその前に立ちふさがるようになっている黒い軍服に、エドは見覚えがあった。
それはさきほどまでアームストロングと話題にしていた人物。
「な、なんだね…」
「大佐。お久しぶりですね」
「…確か昨日、列車の中で会ったはずだけど…? マイオニー中佐」
昨日の、文句のつけようのないほどの謙った態度はなんだったのだろうと思わせるほど、倣岸な様子でマイオニーはエドを見下ろす。
「大佐、責任者である以上、我々に指示をくださいとあの時、申し上げたはずですが?」
「現場の状況が分からないのに、指示は出せない。だから、まだ移送はしないと伝えたはずだが」
低い声。
そんなエドの様子に、院長たちは竦みあがって、声も出ない。
「現場? はっ、で…現場に来て何か分かりましたか?」
「まだ、調査中だ。あなたには引き続きの待機を願うね」
「…引き続き、ね…」
マイオニーは吐き捨てるように笑ってみせて、背中を向けた。そしてドアの前で立ち尽くしている女性を軽く睨み付けて、
「 」
あまりにもひそやかな声。
だがマイオニーが何か言ったのは間違いなかった。ラッツェルン医師が一瞬目を見開き、俯いたから。
背中を向けたマイオニー中佐が言う。
「では、待機してますので、いつでも声をかけてくださいね、鋼の錬金術師殿」
マイオニーという名前の嵐が去って。
エドは立ち尽くしているとしか言いようのない体の女性をソファまで招き、座らせた。そしてその前に片膝立てて座り、穏やかに聞いた。
「マイオニー中佐が失礼なことをしました。よろしければ彼が何を言ったか、教えていただけませんか?」
「……いえ、ききとれませんでした…すみません」
最初は細い声で。だが謝罪だけは声は平常を保とうとしているのが分かった。この女性は強い。そして立ち直りが早い。深く追求しても、教えてくれないだろうと、エドは想像して話題を変えた。
「あなたがジョバンニ・トリアーニ氏の生活援助を?」
「あ、はい…」
「なぜですか?」
「…自分も身寄りがありません。身寄りがないという苦労は、身に沁みています。だから少しでも人の助けになればと…」
「彼女は苦学生なんですよ」
院長が話題を提供する。
「え?」
「身寄りがないけれど、医師になりたくて学校に通っていたけれどどうしても学費が払えないときがあって、奇特な人に助けられたから、同じように自分も人に助けを施したいと」
「昔の、話です…」
それは遠慮や奥ゆかしいというより、触れてほしくない話から離れたいという風に聞こえて。
だがすぐに、違う人物の声があがった。
「ラッツェルン医師」
「はい」
声を上げたのは、書類を読んでいたアームストロングだった。
「ジェラルド・ドーソンを?」
聞きなれない名前。だがラッツェルン医師は一瞬にして顔色を変えた。
「はい。私の患者でした」
「ジェラルド・ドーソンが…」
書類を片手に考え込む中佐の意図を測りかねて、エドは中佐を促す。
「中佐?」
「大佐…これはとんでもない名前が出てきましたぞ」
「とんでもない名前?」
「マイオニー中佐が南方行きの汽車で言っていたでしょう? 南の鷹の話」
そういえば、実態が一切不明のテロ集団があって。
その名前が、南の鷹。
南の鷹って、なんだろう?
「南の鷹の一員と思われる人物によるテロ事件が中央であった話を覚えているかな」
「ああ、言ってたなぁ…」
「あの時、南の鷹だと叫びながら爆死したのが、ジェラルド・ドーソンです」
これ以上はないというほどの、機嫌の悪さの少将を、辛うじて抑えているのは少将の膝の上の幼児だった。
名前はリチャード・ヒューズ。ヒューズ家の第2子にして、長男である。黒い髪は父親譲りのようで。
「ヒューズ、これは何の嫌がらせだ?」
「お? まあ、いずれはこういうこともお前さんも経験するんだぞ? 少しは練習しておけや」
「練習だと…」
エドが承知したのだから、近い将来結婚になる。となると、その先には家族が増えるわけで…。
「あぅ」
そう考えると膝の上で顔中よだれまみれになっている、どう考えたらグレイシア・ヒューズの面影があるのだろうと思うほど父親に似てしまった長男まで、エドによく似たかわいい女の子に見えてくるのは、妄想のしすぎとしかいいようがない。
相好が崩れ始めた少将を、ソファから見つめていたアレクは深く深くため息をつくしかできない。
「マース…練習するならあたしとアルの子供にしようよ…半分はエルリックなんだから」
「あ、そうだな」
単に最近育児疲れの見えるグレイシアを休ませてあげようと、マースがリチャードを連れ出しただけなのだが、いつの間にか少将のおもちゃになっている。
「そんなに私の膝の上が好きか?」
「う〜」
「そうか。では、特別にもう少しだけ座っているのを許そう」
そんな時。
電話が鳴った。
少将は何気なく取り、すぐに顔色が変わる。
「そうか。つないでくれ」
既に崩れ始めた相好から、電話をかけてきた相手が分かる。
「なあ、間違いなくエドだよな」
「うん、間違いなくエドだよ」
「分かりやすいな」
「うん、すっごくね」
「そこの2人、燃やすぞ」
脅しにならない脅しのあとに、少将の相好は完全に崩れてしまった。
「うん、そう。そうだよ」
電話するエドの背後をアームストロングが警護する。
南方の片田舎から公衆電話するときは、小銭がいるなと内心反省しながら、エドはありったけの小銭を公衆電話に放り込んだ。
「だから、南の鷹事件について知りたいけど、あの事件、ハボック中尉とブレダ中尉が対応したんだよね」
『ああ、詳細は知らないが確かそんな話をしていたいな…我々が北にいたからな』
少将の言葉に小さくうなずいて、エドが続ける。
「だから2人に詳しい話を聞こうと思って…いる?」
『いや。ブレダは北方に、ハボックは休暇中だが…電話させよう。どこのホテルだ?』
エドは用意していたホテルの電話番号を告げると、少将は反復する。
『用事はこれくらいかね』
エドは不意に【用事】を思い出した。
「あ」
『まだあるのかね?』
少し恥ずかしかったけれど、言いたかった。
エドは受話器に口元を寄せ、小さな声で囁いた。
「あのさ、電信ありがと。がんばるから…」
『……ああ』
「じゃあ、そういうことでよろしく」
電話ボックスから出てきたエドをアームストロングが覗き込む。
「む? 何かあったのか?」
「え? な、なにもないよ?」
「では、熱かな? 赤く見えるが…」
「だ〜〜〜〜大丈夫だって!」
「はぁ…リザ、済んだ」
「そう、お疲れ様。お茶にでもしましょう」
新婚8ヶ月なのだが、こうして2人が同じ日に休みが取れたことなど、数えるほどしかない。
少将は嫌がらせで2人に休みを出さないのではなく、それだけ忙しく出せないのだ。何より少将自身がエドとデートしたくてうずうずしているのを言い聞かせ仕事をさせている立場上、ホークアイも面と向って、
「休みをください」
とは言いづらかった。
しかし気を利かせた少将がなんとか休みをくれて。
とはいえ、ここ何ヶ月か気になっていたベランダの修理をハボックがしなくてはならなくなり。
お昼過ぎには、何とか終わった作業にホークアイはお茶を、ハボックはようやく落ち着いての一服が出来て。
「はい、お茶」
「…やっぱり、リザの淹れるお茶はいいねぇ」
「…誰が淹れても同じなのに」
そういいながら、ホークアイは穏やかに微笑んでみせて。ハボックが不器用ながらも何とか仕上げたベランダを見やって。
「上手、とはいえないけど。これでしばらくは崩れなさそうね」
「…もうちっと褒め言葉はないんですかね」
「感謝してますよ」
振り返らずに返ってきた妻の言葉に、ハボックは煙を吐き出して、にっかりと笑った。
「はいはい」
そのとき。
家の電話がけたたましく鳴り始め、ホークアイはすばやく電話に向かい、出た。
「はい、ハボック」
最初は『ホークアイ』と電話に出ては、ハボックに苦笑されていたけれど、最近ではようやくすんなりと『ハボック』と出るようになったし、ご近所さんに『ハボックの奥さん』と呼ばれても、違和感を持たなくなった。そんな日常の、些細な電話だと思ったのに。
『私だ…休暇中にすまないが』
「…少将、あのですね」
『休みなのは知っている。だが、エドを助けると思って、ノース・シティにハボックから電話をかけてくれないか』
それはマスタング少将からの電話で。眉を顰める妻の様子に、夫は電話の相手が誰か分かったように、自分を指差して声に出さないまま言う。
おれに?
ホークアイは小さく頷いて、少将に少し待つように告げた。
「エドちゃんを助けると思って、ノース・シティに電話してやってほしいって」
「…なんだよ、それ」
タバコをくわえたまま、ハボックは立ち上がり、ホークアイから受話器を受け取る。
「俺ですけど、なんかあったんすか?」
『ハボック、休暇中にすまない』
殊勝な謝罪に、ハボックは肩を竦める。
「仕事に出て来いって言ったら、夫婦で暴れ込みますけどね。で、なんで鋼の姫さまに電話なんすか?」
『私もよく分からない。だが、中央で【南の鷹】事件があったとき、処理をしたのは?』
ハボックは半瞬考えて、
「俺とブレダっすよ? そのことなんすか?」
南の鷹。
そう叫んで、あの男…ジェラルド・ドーソンは爆死した。
だがその後どんなに調べても、南の鷹なる集団はどこにも存在しなかった。
その事件と、エドがどう関係しているというのだろう?