喪われた玉響 7
たまりにたまった書類を片付けるのに、結局夜中までかかって。
『適当に切り上げて帰ってくださいね』
ホークアイ中尉は、それでも8時過ぎまでつきあってくれたのだが、新婚の奥様をいつまでも拘束するのは、少将でも気が引けて。
とはいえ、もともとはやる気さえあれば、仕事人間なのだ。時間がたつのを忘れて机に向かい、気付けば日が変わる時間だった。
「はぁ…すんだ」
ペンを握る形でこわばってしまった指をひらひらと振って。少将は深くため息を吐いて。
不意に天井を見上げた。
書類に取り掛かるまでに、少将はアレクやヒューズ大佐と作戦会議を催し、その場でまだ詳しい事情を知らないホークアイやハボックたちに状況を説明した。
加えて、今朝早くフュリー准尉と電話で話したことも。
『フュリー准尉と?』
『暗号会話だよ。鋼のには向かないからな』
『それはいえてる』
けらけらとアレクが笑う。
暗号会話が出来る、情報分析が出来る、その理由でエドにフュリーをつけた。暗号会話はそれほど難しくはないけれども、短気なエドには無理だろう。
『ジリード中将と、メディケム・フォーレンの癒着は証拠もある。金銭授受があったことも確認できた……たまには軍法会議所も仕事してるだろ?』
ヒューズ大佐がにやりと笑う。
『ジリード中将とブルーム特許課長の関係、ブルーム特許課長の書類改ざんも証人含めて、証拠確保』
アレクがお茶をすすりながらさらりと言う。
『あとは…南か』
『メディケム・フォーレンとサンク・アスールー総合病院の癒着、それからメディケム・フォーレンと南方憲兵司令部の癒着、これらにジェラルド・ドーソンとセリム・ブラッドレイの関係性、だな』
あとは、エドと、アームストロングと、フュリーにかかっている。
『あ〜、エドがミンツ中尉を上手く使ってれば、すごくいい戦力になると思うんだよねぇ…今度のことでいい働きしたら、中央であたしの下に来ておうかな』
のんびりと言うアレクだが、実は本気のようだった。
今日のやりとりを思い出していた少将だったが、突然鳴り響いた電話に我に返る。
「はい」
『ノース・シティのエルリック大佐よりお電話です』
思わず顔がにやける。
「つないでくれ」
『はい』
一度小さく切れる音がしたが、密やかな呼びかけはまさしく婚約者の声で。
『誰?』
「ひどいな、鋼の。私の声を忘れるのかい?」
『少将』
愛しい声。
だが、今はその余韻に浸るわけにはいかない。少将は気を引き締めて、
「どうだい、南の様子は?」
『う〜ん、ちょっと黒服さんが意外な感じになってる。協力的なんだよな』
「ほぉ?」
意外な言葉に、少将は小首を傾げながら、
「どういうことだね? それは」
『憲兵司令部も、一度は膿を出す気になったってことじゃないか?』
「ふむ……」
確かに、以前のように憲兵だけの集団として他者を排斥する雰囲気は、少しずつ消え始めているようには感じていたが、やはり少将たちにとっては【黒服は黒服】なのだ。俄には信じがたかった。
『まあ、かなりいろいろなものをくれてて、それを分析するのに今日は徹夜になりそうだけどな。2人は』
「2人? ああ、ミンツ中尉とフュリー准尉か」
まるでそこにいるかのように少将は想像することが出来た。
エドが苦笑しながら、受話器からのびるコードをもてあそんでいる様子が。
『俺は中佐に強制送還された。さっさと寝て、英気を養うべきだと…まあ、報告しようと思って家に電話したけどいないから…こっちかなって』
「そうか、それは悪かったな。仕事を片づけて帰ろうと思ったら、遅くなってしまってね」
『ふぅ〜ん…まあ、大概にしろよ。もう、歳なんだし』
「心配してくれて、ありがとう。では、おとなしく帰るよ。ああ、エド。新居が決まったからな」
『は?』
突然の話の転換に、エドは声が裏返る。
『なんだよ、それ』
「大尉にお願いしておいたんだよ。いい場所だ。ま、そのことについては帰ってから話そう」
『ちょっ、ロイ!』
慌てていたとはいえ、普段は呼びかけてくれない名前で呼ばれると嬉しいが。
「中佐が英気を養えと言ったのだ…あ、そうだ。何か報告することはないのかね?」
『ある。だから、慌てて電話を切るな』
少し自分のペースを取り返し、むくれているであろう婚約者の表情を思い浮かべる。
「なんだね?」
『メディケム・フォーレンの話だけどさ…』
「む?」
危険だ。もし、盗聴されているかもしれないのに。
少将は止めようと口を開きかけた瞬間、エドの穏やかな声が耳に達する。
『さっぱりだ』
「…なんだって?」
『だから、さっぱりわかんないよ。まるで、アレクになった気分だね』
少将は一瞬黙り込む。
メディケム・フォーレンのこと。
さっぱりわからないのに、アレクだと?
「…双域の、になった気分なのか?」
『ああ。俺にはわかんないね』
アレクサンドライト・ミュラー大佐。
その洞察力と、先読みの鋭さは不世出の才能なんだが…。
アレクだったら、このエドの会話をどう取るか。
おそらくはこういうだろう。
【わざわざ電話して言う台詞じゃないね】
ということは。
何かをつかんだ。そう考えるのが妥当だろう。
「ああ、わかった。なら、仕方ないな…」
『おう。まあ、俺寝るから。じゃあな。早く…寝ろよ。ちゃんと帰るから、安心して待ってろ』
そして電話は切れた。
受話器を置いて、少将は思わず考え込む。
エドが何かをつかんだことは間違いない。それもメディケム・フォーレン関係だろう。
ジェラルド・ドーソンに関係する話をハボックに聞いたことからも、何か核心に接近しつつあるのは、判った。
だが。
それが、エドの身に危険を及ぼすことになりはしないか。
少将は、そればかりが脳裏に浮かぶ。
かつて。
まだマスタング【大佐】と呼ばれていた頃。
こんな風に深更まで仕事をしていた時だった。鳴った電話に出ると、エドワードの密やかな声が流れ出て。
『大佐…俺たち、明日やるよ』
『む? 何の話だ?』
『賢者の石生成の方法を見つけたんだ。明日、アルと2人で作って…俺たちの身体を取り戻す』
それはさらりと告げられた以上に、衝撃をもたらす言葉で。
『まて、鋼の!』
『場所は言わない。言ったら…大佐、探しに来るだろう?』
当たり前だ。賢者の石を生成すれば、その代価として人は何を要求されるのか。
想像もつかない。
未知という名の、恐怖。
だが少女は穏やかに、大佐を慰めた。
『大丈夫。必ず、アルと2人で身体を取り返して帰るから…待っててくれるか?』
大佐は諾と応えた。
そして、翌日エドから電話が入るまで、焦燥の中で過ごしたのだ。
自分が出来ることなど、何一つないと悲観しながら。
こんなにも人を心配したことなど無いと、自覚しながら。
あの時。
エドは帰る、待っていろと言った。
そして、今日も。
エドは、帰る。
必ず、帰る。
自分の心に、魂にそう言い聞かせて、男は立ち上がった。
「…エドは…帰る」
この不安。
自分の愛しい者を、喪うかも知れないという、漠然とした不安。
愛しい者、それはすなわち、自分の居場所。
不安が、自分を押しつぶす。
かつて、発作が起きる時のことを表現したアレクの言葉を、少将は思い出した。
底知れぬ、不安。
これは…自分にとっての【発作】なのかもしれない、と。
夢が、自分を苛む。
それが真実の記憶であるのか、自分が逃げ場として欲した虚偽の記憶なのか、それはセリムにとっては区別がつかない。
時間の感覚がおかしくなり、手足を思うように動かすことが出来ない。
喉が渇いても、自分で水を飲むことすらままならない。
だが、記憶が次々に現れて、心の奥に蓄積されていく。
悪夢。
そう呼ぶしかない、記憶。
思い出したい、と切に望んだ、過去だった。
なのに、今は消し去りたいと、願っている。
朝に夜に、自分を責める。
幼かった、あの日。
一時の激情に駆られて、行った過ち。
誰が…それを許してくれるのだろう…。
ベッドに横たわる、セリムの閉じられた瞼から、音もなく涙が一筋、こぼれ落ちた。
「ごめんなさい…お父様…」
その謝罪は、もう父には届かない。
「お疲れ様」
エドの言葉に、ミンツ中尉とフュリー准尉がその場に崩れ落ちる。
「疲れた〜〜〜」
「はぁ……」
「む? 大丈夫かね?」
アームストロング中佐が2人を抱え起こして、近くの椅子に座らせた。
「すいません…」
「コーヒーでも飲むかね」
アームストロングがこの1週間徹夜に近い状態だった2人を介抱するのを横目で見ながら、エドは2人の分析情報を読み進める。
1週間。
毎日のように訪れるハクロ中将の、早くセリム・ブラッドレイを中央に移送しろ、さっさと調査を終了しろと、せっつかれても短気なエドには珍しく、のらりくらりと交わし続けて。
ようやくこぎ着けた、分析終了だった。
エドはざっと書類に目を通し、大きく深く溜息をつく。
そして、近くの受話器を取った。
「エルリック大佐だけど、中央司令部のマスタング少将につないでくれるかな?」
堂々と電話をかけるエドの様子を、今度はアームストロングが横目で見ている。
すぐに電話は中央につながれ、エドは大して待たされず、声をあげた。
「よう、少将。ああ、分析が今済んだ。証拠は挙がったよ。逮捕に動いても問題ない。早い方がいいだろうな…ああ、わかった」
短い会話で、待ちかまえていた事態が動き出したことを、アームストロング中佐は知る。
「エルリック大佐」
「中佐。証拠がそろった。これで…中央も動く。大総統承認済みだそうだ。で…」
「こちらも動くのですな? 憲兵を使うのなら、要請しますが」
「ああ。それは中佐の方で頼む。俺は、ハクロのおっさんに知らせてくるから」
今すぐ、動く。
こちらでジリード中将、ブルーム課長を贈収賄容疑と国家騒乱罪容疑で逮捕する。
そちらはマイオニー中佐、ラッツェルン医師、それから…抑えられたらフォーレン氏を。
少将の明確で素早い答えは、この一週間、エドの答えを待ち続けていたことを示す。
エドはアームストロングに書類を渡しながら、脱いでいた軍服の上着を羽織った。
「よっし、中佐。行こうか」
「はっ」
澱みが、流れ始めた。
そのことに気付いているのは、僅かばかりの人間。
そして、後世の軍史に【フォーレン事件】と銘打たれる、事件が明るみに出ることになった。
「な、なんですか!」
完全にひっくり返った裏声の病院長に、エドは一枚の書類を差し出した。
「国家錬金術師機関特許局に関する贈収賄容疑について、サンク・アスールー総合病院を調査します。病院長、いいですね」
「…は?」
「国家錬金術師特許に関して、こちらの病院が書類偽造、および書類改ざん、くわえて人体実験を行っていた容疑がかかっています。これらについて調査するので、病院長、副院長、それから事務長は南方司令部に同行してください」
「……」
茫然自失となった病院長を、憲兵が両脇を抱えて連れて行くのを見遣って、エドは小さく溜息をついた。
大事なのは、これからなのだ。
エドは病院長と同じく呆然と立っている病院職員を促して、精神科開放病棟に向かった。
開放病棟には、患者達の悲鳴が渦巻いていた。
案内していた病院職員が声に負けないように叫んだ。
「なんで! いつもはもっと静かなのに!」
原因は一つ。
ラッツェルン医師を抑えるために、憲兵がエドより早く開放病棟に入り、おそらくその黒い集団に患者達が怯えたのだろう。エドはこの混乱を引き起こしてしまった憲兵に文句の一つも言いたかったけれど、こらえて促されるまま診察室に入った。
そこには呆然と立っている看護師と、ラッツェルン医師。
憲兵達がよってたかって、そのあたりの書類を引っ張り出し、押収用の箱に入れていく。
その乱雑さにエドは眉を顰めたが、ラッツェルン医師を見つけると、その前に進む。
「少し、乱暴が過ぎたようですね…患者が騒いでいます。どなたかになだめてもらってください。ラッツェルン医師は、私に付いてきて下さい」
そのまま背中を向けて、去ろうとしたエドにラッツェルン医師は、震える声を張り上げる。
「私が、何をしたというんですか? 私をどこに連れていくんですか?」
「あなたは、罪を犯した」
低いエドの声に、ラッツェルン医師はびくんと怯えるように身体を硬直させる。エドは首だけ振り返って、動けなくなってしまった女医を見つめて静かに、低く告げる。
「責任転嫁しても、誰も救われない。なら、自分の罪を償うべきだ……アーネスト・カンドル、ハインリヒ・ゲルドマン、パウル・ロドリゲス、ジェラルド・ドーソン…セリム・ブラッドレイ」
単なる名前の羅列は、しかしミレニア・ラッツェルンにはその罪状を理解するには十分で。
その双眸に、やがて涙が浮かぶ。
エドは振り返るのを止めて、低く言った。
「あなたを逮捕するのは、簡単だ。だが、セリム・ブラッドレイが会いたがっている。それだけでも叶えてやりたいからな…ついてきてください」
静かな要求に、ラッツェルン医師は震えながら頷いて、歩き始めた。
導かれるままに。
「セリム」
静かな低い呼びかけに、身体がぴくりと動くのが判った。
3日前に会った時よりも、一層顔色が悪くなった青年を静かに見つめていたエドだったが、やがてゆっくりとセリム・ブラッドレイが目を開けるのを見て、穏やかに微笑んで。
「どうだい、具合は?」
「…今は…夜なの?」
「いや。俺の顔が、見えないのか?」
「見えるけど…少し暗いかな…」
今にも崩れ落ちそうなラッツェルン医師を支えていたアームストロングは辺りを思わず見回した。時は昼過ぎ、病室のカーテンは開けられ、明るい陽光がセリムの顔まで差し込んでいるというのに。
失明に近いのか。
それは確かに3日前に訪れた時よりも状況は悪くなっていて、アームストロング中佐は近くに立っていた、主治医である軍医を見る。軍医はその意図を理解して密やかに溜息を吐きながら、首を横に振った。
途端。
支えるように握っていたラッツェルン医師の身体がまるで力を失ったように崩れ落ちた。慌てて抱え上げると、滂沱たる涙を流しながら、小さな声で呟いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
だが、その声はエドにももちろんセリムにも届かず。
エドは穏やかに、
「なあ、セリム。今日はラッツェルンさんも一緒なんだ。覚えてるか? サンク・アスールー総合病院でお前を面倒見てくれた人だろ?」
「本当に? ミレニア先生が来てるの?」
明らかに声が華やいで、セリムは辺りを見回した。
「ミレニア先生? どこにいるの? ちょっと暗くて、見えないんだ…ねえ、大佐。明るく出来ない?」
「すまない。灯りが壊れているようだな」
エドの静かな声に、だが微かな震えを感じたけれど、中佐は力が入らないラッツェルン医師の耳元に囁いた。
「行ってやりなさい」
「でも!」
「ラッツェルンさん。セリムがあなたに会いたいと言ったんだ。話を…聞いてやってくれないか?」
エドの声に、ラッツェルン医師は身体を再び震わせたけれど。
セリムのベッドの隣に置かれた椅子に、アームストロング中佐に座らされて。
「ミレニア先生? そこ?」
「……ええ、いるわ」
「僕、先生に謝らないといけない」
ラッツェルン医師の座る方角に声を頼りに視線を向けて、セリムの表情が曇る。
「ごめんなさい」
「……どうして、謝るの?」
声が震えないように必死な様子は、ベッドを挟んで反対側に座るエドにも見えて。
ただ視力が極端に落ちているセリムは気付かない。
「僕ね、ミレニア先生と一緒に記憶、取り戻そうとしたけど。でも、なんか違うことが頭に入ってきて」
「…違うこと?」
「うん。僕の頭の中で、誰かが言うんだ。
鷹になれ。
鷹に、なれ。
鷹になって、空を飛べ。
自由に、なる。
自由に、する…って」
明らかに、何かを復唱するように、そこだけがセリムの口調が変わっていた。
だがそれを指摘するものはいない。
「でも、それは違う気がしたんだ。だから、違う違うって、叫んだんだよ。そしたら…」
「セリム」
明らかに顔色が悪くなり、エドは思わず声をかけ、軍医を見る。
軍医は駆け寄り、脈を取ろうとセリムの腕をつかむが、思いもしない強い力ではねのけられた。
「セリムくん!」
「僕は、セリム? 僕はジョバンニ? どっち? 両方なの? 先生が僕を助けてくれたのに、僕は先生に何一つ返せないよ。僕は、僕の居場所を見つけるためには、ちゃんと恩返ししないといけないんだ、だって、子どもの時から、養子になった時から、ずっと、そう、決めて…」
「セリム、もういい」
「良くない! 僕は、お父様とお母様に養子にしてもらった、恩返ししないといけないんだ。でも、頭の中で、僕は南の鷹に、ならないといけないって、誰かが、言うんだ。誰かが、そう、ミレニア先生が!」
これ以上はないというほど見開かれた目は、しかし何かを映しているようには見えないけれど、エドとアームストロングには相変わらず震えているラッツェルン医師が見えた。
「セリム。少し休め。お前の状態がよくなったら、中央に帰ろう。準備は出来ているから、お前が移動できるだけの体力を養うだけだからな」
「…ありがとう。誰か知りませんけど、ご親切に」
奇妙な会話に、アームストロングはまたも疑問を感じたけれど、追求せずに震えているラッツェルン医師を促して、病室を出た。
「薬物中毒だよ」
静かな声でエドは告げる。
カタカタとラッツェルン医師が震える小刻みな音だけが響いていた。
「もともと、セリムは外傷性運動障害と記憶障害を持ってた…あんた、ゴルドリンを大量投与したんだってな? 軍医に診てもらったら場合によっては精神破壊を起こすほどの量だって、呆気に取られてたよ。セリムの記憶を取り戻すってだけじゃあ、説明つかないよな。アーネスト・カンドル、ハインリヒ・ゲルドマン、パウル・ロドリゲス、ジェラルド・ドーソン…セリム・ブラッドレイ。このいずれにもゴルドリンが大量投与され、その全員が身寄りがなく、記憶や精神に障害を持つものだ」
カタカタカタ。
震えは止まらない。
「憲兵司令部に極秘資料が残ってた。ゴルドリンの副作用について。洗脳作用があるんだな。それから…アーネスト・カンドル、ハインリヒ・ゲルドマン、パウル・ロドリゲス、ジェラルド・ドーソン。いずれもあんたの世話になってた。そして、突如姿を消した」
「…治療、だったんです」
密やかな声で、女医は話し始める。
身体の震えは続いている。
「治療?」
「アーネストは…強迫症でした…ゴルドリンの効果で強迫症が薄まり、日常生活が出来ると判断して…ある人に委ねました。普通の、社会で生活できるかどうか、試したいと本人が言うので…」
身体を震わせながら、ラッツェルン医師は語る。
自分が真実と信じた、虚偽を。
最初の男は、強迫症をゴルドリンで抑えることに成功し、ある人物に日常生活を営ませるために委ねた。
続いた患者たちも、身寄りがなかったことで、ある程度の治療が進んでから、その人物に患者の将来を委ねた。
ジェラルド・ドーソンも。
だが、その誰もが帰って来なかった。
ジェラルド・ドーソンの名前を、新聞のテロリストとされているのを見て、慌てて電話をした。
自分にとって、親とも慕ったその男は、静かに告げたのだ。
『彼は、私を裏切ったのだ』
と。
何かがおかしいと、気付いたのは2人目を預けた時だった。
今までマメな連絡をしていた者が連絡してこない。
男の言い訳を、心から信じたわけではなかった。
だが一方で、慕う男を疑いたくはない思いで、自分の疑念を打ち消した。
疑念は少しずつ大きくなって。
ジェラルド・ドーソンの事件を知っても、だが彼女は、まだ信じようとしたのだ、男を。
だが、もう、男に大切な患者を預けるわけにもいかず。
苦悩の日々を送る中で、現れた少年。
『ミレニア先生!』
『ミレニア、今記憶喪失の男の子を診ているそうだね。良くなったら…私が中央に連れて行くよ』
そして、疑念は確信に変わった。
慕う男が、何かあったら頼れと言っていたマイオニー憲兵中佐。
久しぶりに現れた、あの残虐な男が囁いた言葉。
とっとと中央に行かせて、始末しとけばよかったんだよ。
それがすべてだった。
なのに…。
「私は、まだ迷っていたんです。あの人を、信じようと自分の心を覆い隠そうとしたけれど…できないんです。ゴルドリンの副作用で、洗脳効果があるのは、よく知っています。ですが…」
「あの人って、誰だ」
エドに低い声で問われて、ラッツェルンは小さな声で言う。
「……あの人に助けられて、私は医師になることができたの」
「だが、そいつがマイオニー中佐と画策して、中央でテロ事件を起こしている。その証拠はあるんだ。ラッツェルンさん。あんたは、その片棒を担ぐつもりか?」
冷たい視線と言葉。
ラッツェルンはすくみ上がる。
「そんなつもり」
「あんたは、証言しなくちゃならない。あいつを…セリムを、そう願ったんじゃなくても、ああいう状態にした償いをしなくちゃいけないんじゃないか?」
償い。
医師として、自分は何をしたのか。
信じたいという、欺瞞に隠して、セリムを傷つけた。
「あいつは…俺を認識できない。子どもの頃、あいつに何度か会った。俺の名前を覚えていたのに、それが俺だと認識出来ない。どころか、数分話していても、話している相手を認識できなくなったりする。重度の記憶障害の可能性があると…軍医は言う。それがひどくなったのは…」