喪われた玉響 8
「ゴルドリンの副作用です」
先ほどまでの細い声とは一変して。
だが、まだ身体の震えは止まらないのに、女医はしっかとエドを見つめて言った。
「ゴルドリンの副作用に脳萎縮があります。老人性記憶障害を引き起こさせます」
「……ああ」
「ジェラルド・ドーソンを預けたのは…ラルフ・フォーレン氏です。フォーレン氏から依頼されて、メディケム・フォーレンの治験を行いました。そしてその見返りとして、5名の日常生活に対する援助をお願いしました…フォーレン氏から聞きました。メディケム・フォーレンが得た収入のほとんどはフォーレン氏が支援しているジリード中将に。そうすることで、戦争のない、平和なアメストリスを作ることが出来ると…言っていました」
それを信じていたのに。
だが、作られた世界は、自分が委ねた患者達の行方が知れなくなったことで綻びはじめ、ジェラルド・ドーソンによって完全に破壊されたはずなのに。
自分は、自分が助けられた過去を信じて、ラルフ・フォーレンを信じようとしていたのに。
フォーレンを責めても、ダメだ。
自分は責任のある立場にあった。
ジェラルドを、なによりジョバンニを…セリムを、あそこまでにしてしまったのは、自分なのだから。
償いを、しなくてはいけない。
「私、証言します。罪を認めます」
先ほどまで震えていたラッツェルン医師の身体は、何の震えも持たずにその場にあった。
強い意志を秘めて。
エドは小さく呟いて。
「わかった。あんたのその思い、確かに受け取ったからな」
男はふと、窓から見下ろした。
眼下に広がるのは、建物と建物の間の細い路地。そこにひしめくように、黒い軍服があった。
男は思わず、窓横の壁に張り付き、再びゆっくりと慎重に覗き込む。
密やかな声。
だが、男には思い当たる節があった。
「……潮時、か…まあ、いいだろう。アトラスだけは道連れにできたからな」
とはいえ、男の脳裏に浮かんだのは、一人の女性の顔。
いつも信頼しきった表情で自分を見ていた。
少しばかりの疑念を持っても、だが信頼の仮面に覆い隠して。
親を喪い、それでも医学生として学費を工面するのに苦労していた彼女に、男は救いの手を差し伸べた。
あの頃は、今のような思惑もなく、ただ純粋に彼女を助けたかっただけなのだが。
結果として、巻き込んでしまった。
憲兵がここに迫るということは、当然彼女も拘束されているだろう。
「すまないな…ミレニア」
思い返せば少しだけ、亡き妻に似ていた。
笑うと出来るえくぼ。
だが、妻ではない。
妻は、そして息子は私が、そして軍が殺したのだから。
男はローチェストの上に飾っていた写真立てを取り、バッグに放り込み素早く身支度を調えて、何食わぬ顔で建物を後にした。
メディケム・フォーレン本社と、フォーレン邸に憲兵が踏み込んだが、そこにラルフ・フォーレン氏の姿は、なかった。
礼儀正しくノックした扉が内側から開くのを待って、少将は踏み込んだ。続いてヒューズと軍法会議所の面々。
「な、なんだね」
震える声をあげたのは、最奥の机に向かっていた男。
少将は何度となくその男に会っていた。だから間違うことなく声をあげる。
「お久しぶりです、ジリード中将」
「…マスタング少将か。なんだね、その後ろの連中は」
「軍法会議所の人間ですよ」
素っ気ない返事に、ジリードは眉を顰めて、
「なんだと?」
少将の前にヒューズが進み、手にしていた書類を読み上げる。
「アトラス・ジリード中将、贈収賄容疑、加えて国家騒乱罪容疑で逮捕する」
「な!」
口をパクパクとする中将に、軍法会議所の軍人が静かに歩み寄り、携帯していた拳銃を取り上げると、両脇を抱える。そんなときになってようやく我に返った中将が叫ぶ。
「私は中将だぞ!」
「存じています」
「…大総統は知っているのか!」
「ここにサインがあります」
「…私ははめられたのだ!」
「主義主張は軍法会議所で伺います」
つれない軍人の応えに、しかし中将はめげずに叫び続ける。
自分が中将であること。
自分は無罪であること。
中将が憲兵司令部を出るまでその声は響いていた。
捜索が進む憲兵司令部をヒューズに任せて、少将は大総統府に向かう。
『ジリード中将の逮捕は少将、君に任せよう。だが、あとでもよいから報告を入れてくれよ?』
『はい、承知しました』
一週間もせずに、約束は果たされて。
「さきほど、ジリード中将を逮捕しました」
「ほお。ずいぶんと早かったな。証拠は揃った、というのだな?」
「はい。南方でも今頃南方司令部とエルリック大佐が容疑者確保に動いていると思われます」
「ふむ……」
しばし考え込んで、マッキンリー大総統は声をあげた。
「セリム・ブラッドレイに何か容疑はかかっているのかね?」
「いえ。セリム・ブラッドレイ氏においては、今回の事件に置いては被害者です」
「…では、中央に移送されるか……」
「何か不具合でも?」
マッキンリーは少将の言葉に応えず、小さく溜息をついて。
「いや。何もない。移送願いが出たら、すぐに許可してやればよい…後始末が多少ごたごたするだろうが、君も婚約者に早く帰って来て欲しいだろう?」
「…はい」
少将の素直な返事に、大総統はにっかりと笑って。
「よし。では準備をしなくてはいけないな」
『そうか。ではもう南方にいないのかもしれないな』
「うん。だから事故処理が済んだら、セリムを連れて中央に帰るよ」
『うむ。そうすべきなんだろうな……』
一斉拘束から、1週間。
全面的に協力しているラッツェルン医師によって、様々な事実が判明した。
今や盗聴される心配のない電話で、エドは語る。
「なあ…少将。俺が…もし死んだらどうするよ?」
『なんだ、突然』
「だから」
答えを促すエドに、少将は軽く苦笑しながら言った。
『さてな…ただそのままではいられないだろうな。きっと私は狂ってしまうだろうな…』
「そっか…」
『なぜ、そんなことを聞く?』
「…ラッツェルン医師がさ。ラルフ・フォーレンの動機かもしれない事件を教えてくれたんだよ」
「フォーレンさんは…メディケム・フォーレンを、お父様から受け継いだそうです」
もう全てをはき出すことに、何の躊躇いも感じないのか、女医は淀みなく問われるままに語る。
それがジェラルド・ドーソンへの、セリム・ブラッドレイへの償いだと信じているから。
「当初、メディケム・フォーレンはアメストリスではなくシン国の薬を輸入する会社でした。シンの薬は高額ですが、効果が高く、副作用も少ないから」
アメストリスの東、巨大な沙漠を越えた先に存在するシンは、アメストリスと同じように錬金術が発達した。しかし医療専門の錬丹術、と呼ばれるそれはやはり高価な上に、沙漠を越える内にその値段は一層跳ね上がる。それ故に、商売としてはハイリターンだが、一方で手に入れる困難さもある。
ラルフ・フォーレンはシンに在住し、薬を調達し、半年に一度帰ってきては薬を売りさばくという生活を何年も続けてきたのだ。
だが、フォーレンはシンで運命の出会いをする。
アメストリス出身の女性と恋に落ち、結婚したのだ。
やがて女性は子どもを産んだ。
幸せな家庭だった。
息子がフォーレンの商売の手伝いを始める年令に達した頃、アメストリスにいる妻の祖母が他界した。
妻は可愛がってくれた祖母の葬儀に参加したいと、息子と2人アメストリスに戻った。
そして、そこで軍に殺される。
「……奥さんは、イシュヴァールの民だったんです」
その時期、イシュヴァール殲滅戦が始まっていたが、遠くシンにいたフォーレンはそれを知らず、妻子を送り出し…その消息は途絶えた。
フォーレンは心配して帰国し、情報を得ようと軍部にいた従兄弟、すなわちジリードを頼った。
だが妻子は既に殲滅戦の中で殺されており。
打ちのめされるフォーレンにジリードは唾棄するように言ったという。
『まったく、一族の恥さらしだ。よりにもよって、イシュヴァールの民なぞと一緒になるなんて』
そして、男は決意したのだ。
軍への復讐を。
「私は、もう10数年、アトラスの助けとなってきました」
面会室に現れたファナ・ブルームは、かつての傲慢な様子はどこへ消えたのだろう、憔悴しきってアレクに話す。
「なのに…人の命を犠牲にしてまで、あの人の助けになりたかったわけじゃない」
「結果を見れば、そうね」
穏やかに、穏やかにアレクは続ける。
「きっとあなたはジリード中将の助けになりたかった…ジリード中将は大総統になりたかった…それぞれがささやかとはいえないにしろ希望を持っただけだたかもしれない。だけど…私たちは軍人で、このアメストリスでは権力を持っている。権力を与えたのは神じゃないのよ。国民なの。国民に与えられたこの権力をどう使うかは…私たち軍人の権利ではなく、義務なのよ。みんな、すこしずつ間違えてる」
「……そう、かもしれませんね」
「は、悪いこと? ずいぶん、お子様な台詞だね、鋼の錬金術師」
唾棄するように告げられた自分の異名を、エドは目を細めて聞いている。
この男に、反省を促すのは無理だろう。
マイオニー中佐が犯罪に加担していると気付いた時、エドは素直にそう思った。
反省は、その行為を悪く思っているから、良い方向へ思考を向けること。
だがその行為を悪く思っていないのなら、反省は最初から存在しないのだから。
「あんたに言うだけ無駄だって、判ってたつもりだけどな」
「ほお、判ってるじゃないか」
「あんたは望みのものを手に入れただけなんだろう? 金、権力、あとは…」
「女、食い物…まあ、いろいろだな。俺は欲しい。欲しいから手に入れる。それはそんなに悪いことか? 今まで俺を誰もが止めない。どころか敬うんだぞ? なら、やってもいいことじゃないか」
子どもの論法に、エドは吐き気がした。
こんな人間が権力を持っているのだから。
「……あんたは、罰せられる」
「ほう?」
「ジリード中将ともども、軍籍剥奪で軍刑務所に国家騒乱罪で放り込まれるだろう」
聞き慣れた罪名に、マイオニーが眉をひそめる。
「おい」
「国家騒乱罪…資料を見たよ。あんた、これで何人も放り込んでるよな。あんたがやったのは本物か偽物か、わからないけど。あんたの国家騒乱罪は本物だ。終身刑になるだろうってさ」
それは、マイオニーの破滅を宣告する言葉で。
エドは初めて目の前の男が愕然とした表情を浮かべるのを見つめていた。
「当然の…報いだ」
「……あの、恥さらしにしてやられたというわけですか…」
「さて、恥さらしかどうか、私には判らんがな」
苦虫を噛みつぶしたようなジリード中将の言葉に、マッキンリー大総統は飄々と返す。
明日は軍法会議という夜、ジリード中将の独房に突然現れた大総統はラルフ・フォーレン氏が拘束を逃れ、逃亡中だと告げた。
「ラルフの話を私にして、何かあるのですか?」
「いや、何もないね。アメストリスを調べていないのなら、おそらくシンへ逃げたんじゃないのかという憶測までは出来ているからね。君に聞くまでのことはないんだよ…ただ、一つ聞きたい」
大総統は静かに言った。
「サイード・バウアー事件の詳細を、聞いたことはないかね。あれは…憲兵司令部がしでかしたことだろうが」
聞いたことのないような低い声。
ジリードは思わず大総統の顔を見て、息をのんだ。
見たことがないほどの、冷たい目。
「それは…」
「私以外に漏らす必要はない。だが、詳細を知っているのなら軍法会議で減刑を求めてやることはできるだろうよ…私の名前でな」
それは、取引。
だが対等な取引ではない。明らかに大総統がジリードを威嚇していた。
そのとき、ジリードは悟った。
ずっと、マッキンリーが大総統になったのは大総統後継争いを控えさせるために、年寄り将軍たちが自分を牽制するためだと思っていた。
だが、そうではない。
マッキンリーはただの好々爺ではない。
深く考えれば判ることだ。かつてのブラッドレイ大総統の時代、特に目立った功績も立てないままに、順調に出世してきたのはなぜか。
穏やかな笑顔に隠された峻烈な采配があってこその、出世だったのだ。
もう、ジリードには手札はなかった。
全身から力が抜ける。
抗することなく、ジリードは呟くように言った。
「……わかりました」
「きれいだよ〜」
「ああ、綺麗だな」
「きらきらしてるね」
「そう、だな」
静かに応えるエドの横で、改造された列車に持ち込まれたベッドに身体を横たえたまま、セリムは窓越しに見えるエルンガー湖を眺めていた。
陽光を受けて煌然とする湖面。その下は空よりも青く。
その時々に応じて輝きを変える湖面を、セリムは声をあげて喜んでいるものの、身体をベッドから起こすことはない。
セリムの状態が良くなるまで、と中央帰還を先延ばしにしてきたが、2週間経っても経過はよろしくなく。
仕方なくエドは軍医と相談の上、列車にベッドを置けるように改造し、セリムをベッドに寝かせて連れ帰ることにした。
一時ほど顔色は悪くはないが、下半身はもうすっかり萎えてしまって動かすこともままならない。
だが、セリムは子どもに戻ったようにはしゃいでいる。
「きれい〜」
「セリム、あんまり身を乗り出すと…」
「ねえ、きれいだね。だから、お父様とお母様もあの中に入っちゃったのかな?」
「…ああ、そうかもしれないな」
ポツリポツリと、セリムが告げる話。
この2週間、セリムが話し続けてきたのは、思い出された哀しい真実だった。
その日。
ブラッドレイ一家は運転手付の車でエルンガー湖観光に出かけた。
晴れた、日だった。
だが、一発の銃弾が穏やかな日をかき消した。
銃を撃ったのは、運転手。
撃たれかけたのは、父であるキング・ブラッドレイ。だが銃口に気付いた母サキヤ・ブラッドレイが盾となり、命を以て夫を守り抜いた。
そのとき、セリムは少し離れたところで、湖面に向かって石を投げていた。
銃声に慌てて帰ると、母は既に息を引き取り、父の刀によって運転手は絶命寸前だった。
『おのれ、妻をよくも』
『あんたは…たくさんを殺した…だから、妻の一人くらいいいじゃねえか』
運転手はごぼりと血を吐きながら、立ち尽くすセリムを指差し。
『あんたの息子のように。代わりはいくらでもいる…』
『黙れ』
『俺の息子を養子にするか? ブラッドレイ。自分を暗殺しようとして殺した男の孫を、養子にしたように』
振り上げた刀は、しかし振り下ろされることはなかった。男は既に絶命していたのだ。
賢いセリムは、男の言葉に衝撃を受ける。
自分が養子であることは知っていた。それ故に、自分を育ててくれている老夫婦に報いたいと精一杯のことをしてきた。
だが…今の話では、自分の本当の祖父は、養父を殺めようとして反対に殺されたという。
『お父様…』
ようやく、ブラッドレイはセリムの存在に気付き、刀を地面に置いて、妻の遺体を抱きかかえ、立ち上がる。
『聞いたとおりだ。私はかつて暗殺事件に遭い、この左目を失明した。実行犯はサイード・バウアー。カリーナ・バウアーの父であり、セリム・バウアーの祖父だ』
『お父様…』
告げられた事実に、セリムは混乱する。
セリム・バウアー。それがセリム・ブラッドレイになる前の自分の名前であったことは知っていた。
『さっき殺したって…』
『殺されそうになったから、殺した。それだけだ』
それだけ。
記憶にもない、祖父。
だがそれを殺したのは、お父様。目の前の男。
一瞬、身体が沸騰するかと思った。
手近に落ちていたのは、ブラッドレイが置いた刀。セリムは奇声を上げながらそれを拾い上げ、ブラッドレイの背中に突進する。
身体ごとぶつかった瞬間、堅く目を閉じる。
一瞬、ブラッドレイの身体が仰け反った。抱えていた養母の遺体が、地面に転がった。
セリムは目を開いて、何か生暖かい液体に包まれた両手を見た。
刀はその刃のほとんどをブラッドレイの腰より少し上に埋まっており、その刃からポタポタと鮮血が溢れ。
両膝をつく養父をセリムは戦慄きながら、声もなく見つめていた。
『セリム…』
その呼ぶ声は。
責めるものではなく、むしろ愛しき者を呼ぶ声のようで。
養父は、声もなく自分の背中に埋もれた刀の柄をつかみ、一気に引き抜いた。出血がひどくなり、蒼い軍礼服の下半身はみるみる暗褐色に染まっていく。あたりに血臭がたちこめる。
ブラッドレイは、妻の遺体を再び抱え上げ。
『セリム』
自分の身体がびくんと跳ねたのを、セリムは覚えている。
一瞬の激情と、それに続く言いようもない後悔。
『お前は言わなくていい。あいつが…あの運転手のことだけ、言うのだ。賢いお前ならば、判るだろう…』
『お父様…』
『ほう、未だ父と呼んでくれるか』
隻眼の男は蒼白な顔色で本当に幸せそうに微笑んで。
『真実を知らせることは、ずいぶん考えた。いずれは告げなくてはいけない真実だった…まさか、こういう形でお前に重荷を背負わせることになるとは…私の方こそ、お前に謝らねば。だが、それでも私を父と呼んでくれるか…』
そして、エルンガー湖の方に向きを変え。
『セリム。これが私の、償いだ。お前の祖父を殺し、祖母を死に至らし、母を不幸にした…バウアー家への償いだと思った。そして、バウアー家の、それからサキヤと私も願う。お前が生きて、幸せになることを。幸せになれ。それが…私の願いであり、償いなのだ』
そして、男は妻の遺体とともに、深い湖の底へゆっくりと入っていった。
セリムの記憶はそこで途絶える。
どのようにして、頭部の傷を受け、漁師に助けられたのか…全く思い出せないのだ。
そして思い出せないまま、いや、思い出した記憶さえも少しずつ消えていく。
中央に戻ってそれは顕著であり、セリムとともに南方から来た軍医はエドが問うと、いつも諦めたように首を横に振る。
「一時ほどではありませんが、やはり機能的衰退があります」
「ふむ…昔の記憶は比較的残りやすいと聞いたのだが」
「はい。ですが…脳萎縮の前に記憶障害がありますから」
軍医はマッキンリーに恐縮しながら説明する。マッキンリーは軍医からセリムと話す時の注意事項をいくつか聞かされて、病室にエドと共に入った。
柔らかく吹く風が、晩春の香りを運ぶ。
特別にセリムの為に準備された病室は、すぐ前に専用の中庭が広がり、今や盛りとさまざまな草花が咲いている。
「セリム」
「はい、どちらさまですか?」
エドにとってはこの会話も慣れた。
「エルリック大佐だよ」
「あ、大佐。こんばんは…今日も太陽はでていないんですね」
「ああ」
失明が確認されたのは一ヶ月前だった。
だがその事実をセリムは理解できない。
「セリムくん。私が判るかね?」
突然マッキンリーが声をあげる。エドは内心、無理だろうと大総統にツッコミを入れたくなったが、数瞬考えたセリムがおそるおそる、
「えっと…ジェームズのおじさん?」
「ほう、覚えていてくれたかね」
エドは何度か目を瞬かせるが、すぐに軍医の話を思い出した。
昔の記憶は残りやすい。
マッキンリーは穏やかな表情のまま、
「ここはどうだね?」
「すごく快適なところですね…毎日、お花の匂いがします」
セリムが穏やかに返す。マッキンリーとセリムはひとしきり昔話をして、エドはその間にこっそりと病室を出た。
出たところで、声をかけられる。
「エド」
「…ロイ」
「大丈夫、か?」
エドの表情があまりにも沈痛だったために、少将は思わず声をかける。
エドは無理に笑ってみせて。
「…あのさ」
「む?」
「なんで、セリムだけ…子どもの頃に会った時は、あんなに満ち足りていたはずなのに。なんで、こんなことになったんだろ」
覗き込むと、何よりも愛しい黄金の双眸が、潤んで見えて。
「エド…」
「みんなが見てるから、名前で呼ぶな」
まだ虚勢を張る元気はあったようで。
少将は苦笑しながら、エドの肩を叩いた。
「鋼の。人には、それぞれ受け入れなくてはならない運命がある程度は決まっているんだよ。それは…神が定めたもうたものかもしれんがね」
「俺は、神なんて信じない」
「ああ、そうだね。だが、本人が望むと望まぬとに関わらず、あるいは本人とそれに関わる者達が明らかに違うことを望んでいても、不幸は起きてしまうことはある…それは錬金術でも、説明できないのだよ」
「…なのにさ……セリム、笑ってるんだよ」
穏やかな、微笑み。
それは無知ゆえか、あるいは全てを達観しての微笑みなのか。
誰にも判らないけれど、喪われた記憶、喪われた過去の僅かな時間を取り戻すために、もがき続けた青年は、ようやく安寧の時を見つけたのだ。
それが…僅かばかりの、玉が響くほどの僅かな時間であったとしても。