螺旋調和 3






母が、姿を消したのはロイが3歳の時。
母の顔を思い出したくても、その顔は写真の顔でしかなく、表情を変えることはない。
『お前の母親は、男を作って逃げたんだよ。もともと、国家錬金術師のロナルドの財産をねらって、あの女はロナルドと結婚したんだろうよ。だけど、ロナルドは研究に全財産をつぎ込んでいたからね。予定が狂ったんだろ?』
『じゃあ、ロイのお母さんはどうしていなくなったの?』
『あの女は、ロナルドといることに嫌気がさしたんだろうよ。だから、ロイを置いて出て行ったんだ』
眠れなくて聞いた、親戚親子の会話。
12歳にもなればその言葉の意味と、含まれた悪意を理解するには十分で。
何度ベッドの中で、声を殺して泣いただろう。
自分を捨てていった母を呪って。
自分を残して死んでしまった父を慕って。
だけど。
どうあがいても、嘆いても、父も母も姿を見せることもなく。
一見普通の家族写真。
3歳のロイを抱く母エレノアと、ロナルド。
『大事にしておきなさい。それは自分の過去だろう? いつかお前さんが見せたいと思う人が現れるまで、大事にとっておきなさい』
自分を引き取ったレオナイト・ミュラーの言葉を信じて、残しておいたあの写真。
それはいつでも取り出せるように軍支給の手帳に収められている。
見せるなら…見せるなら。その相手は一人しかいない。
『怪我、よくなってよかったな、少将! もうあんな…無茶するなよ』
はにかむように告げた言葉に、黄金の双眸を伏せる女性。
そうだ。
エドワードになら、あの写真を見せてもいいかもしれない。
そう考えた瞬間。
せり上がっていた、どす黒い熱い塊が。
あっという間に、消滅する。
そこには、もう眩暈もなくて。
『おい、聞いてるのか?』
マースの呼びかけに、少将は短く深呼吸をして応えた。低い声が、まだ動揺から立ち直れていないような気がして、舌打ちをしたかったけれど。
「ああ、聞こえている…」
『とにかく明日の朝にはこっちを出るから、夜には着くと思うけど。追い返すようなことをするなよ』
追い返す? ああ、そういう心配をマースの奴はしているのか。
少将は苦笑しそうになるが、不意に他の『追い返す原因』を思い至って。
「しない。だが…違う理由で来るんだったら、話は別だが」
『違う理由?』
「金銭的問題だ』
『アレクは、そういう人間じゃなさそうだって言ってたぞ。まあ、端々でお前に似てるから余計、そう思えたかもしれんが』
そうか。アレクが言うなら…。
少将は思い当たる。
確か、ぼんやりとしている間、『ランドルフ・バレンタイン』と『エレノア・ハーミッシュ』について話していたのはアレクだと、マースが言っていた。
ようやく、アレクの『発作』に思いが向かう。
「そうか。じゃあ、アレクの目を信用しよう。それはそうと、アレクは大丈夫なのか?」
『んあ? 大丈夫って?』
「…おい、マース。あいつも同席して話を聞いていたんだろう? 母親の話、だろうが」
少しの沈黙。
『参ったな…』
いろいろな想像をしているだろうことは予想がついた。だが、それを追究する時間はない。何かアレクの身に起こってからでは遅いのだ。
「アレクのことだ。どうせお前に心配かけたくなくて、何も言わなかったんじゃないのか?」
『あ゛あ゛〜、ロイ、お前はもういいな?』
「ああ。大丈夫だ。だからアレクのこと」
だが既に受話器からはマースの声は聞こえず。
受話器を握ったまま、少将は苦笑する。
おそらくは、アレクが上手に隠したつもりなのだろう。
『眠っていた』こともあって、マースも最近はアレクの『発作』につきあっていないから。なによりアレクがマースが関わることを嫌うから。
昔は、アレクの『発作』に気付くのはロイよりもマースの方が早かった。ロイよりも2年早くミュラー家に引き取られていたせいだろうか。アレクが発作を起こしそうになると、マースが早めに医師を呼ばせていた。
アレクの発作は死に至る病ではない。マースがなんとかするだろう。
そう思って、少将は受話器を置く。心配そうに覗き込んでいたハイマンを呼ぶ。
「およびで?」
「ああ。電話はたいした内容ではなかった。明日の夜、ランドルフ・バレンタインという少年が来るそうだ。容姿は私によく似ているらしい。多分遅くに着くだろうから、次の日の朝、私と会うことになるだろうな」
「…似ているんですか?」
「ああ、そうだ」
少将の声に眉を顰めたハイマンだったが一切追求せず、深々と一礼し、準備をすることを言って、姿を消した。



とりあえず、エドワードを迎えに行かなくては。
恐らくはやきもきしながら、グスタフの駆る馬上にいるはず。
そう思い、正面玄関を抜けると、呼ぶ声が聞こえた。
「少将!」
少将の言いつけを守って、グスタフはゆっくりと馬を駆けさせ、エドワードはグスタフをつついて急がせているものの、グスタフは決して惑わされない。
そんな2人の様子を見ていて、少将は思わず苦笑する。
目の前に着いた2人を見て、少将はグスタフに言う。
「グスタフ、君はいい執事になれるよ」
「そう、かな?」
「ああ」
「少将! なんだよ、ヒューズ大佐からの電話って」
少将は涼しげな表情で、グスタフが駆る馬の手綱を握り、グスタフが降りるのを手伝う。
「なに、たいしたことはない。明日、こちらに客人があるというだけだ」
「なんだよ、それ」
エドワードはグスタフに続いて降りようとするが、少将に止められる。
「少将?」
「グスタフ。この馬は、私と2人が乗っても大丈夫かね?」
「うん。父さんと母さんが2人で乗ってもしっかり駆け足してたよ」
「そうか」
次の瞬間。鐙に足をかけた少将は鞍の後ろ、エドワードの背後に乗馬していた。
「ちょっ、少将!」
「鋼の、少し前につめてくれないかね。さすがに鞍なしで乗るのは、痛いのだが」
「なんだよ、それ」
抗議をしながら、エドワードは鞍の一番前までずり上がり。
少将はそのお陰で鞍に跨る。
「さて、行こうか。グスタフ、少し散歩を続けてくるよ」
「うん」
「少将?」
「まあ、つきあいたまえ」



「なんか…」
「む?」
馬上の2人は、見下ろす光景に見惚れていた。
そこに広がっていたのは、一面の緑。
このあたりで盛んなのは羊の放牧である。よって、この若草たちは羊たちの食料なのだが、緩やかな風にゆらゆらと揺れて、緑の波を生んでいる。
「鋼の?」
「この感じ、リゼンブールにそっくりだな」
少将は苦笑して、
「それはそうだろう。すぐ近くなのだから、聞こうも生活手段も似たようなものだろう?」
「う〜ん、そうかな?」
「ああ」
「ここを進めば…リゼンブールに至るはずだ」
少将は畑の間を抜けている小さな間道を指差す。エドが目を輝かせて答える。
「あ、あの旧道って、ここにつながってるの?」
「ああ」
リゼンブール出身のエドと、ウォルフェンブルグ在住経験者の少将しか分からない会話ではあるが。
「それよりも、だよ。少将」
少将の手を借りて、草原に降り立ちながらエドが問う。
「なあ、何があったんだよ?」
「む?」
「だからさ〜、ヒューズ大佐の電話」
「ああ、あれか。あれは」
エドはきりりとした眥を、一層細くして。
「あれは何もなかった…なんて話にしたら、ぶん殴るからな」
「しない」
あっさりと帰ってきた応えに、少々拍子抜けして、
「そ、そうなのか?」
「聞いて欲しい、話があるんだ」



ヒューズは、アルフォンスを談話室にいざなった。
「…まさか、大佐。ここで話するつもりなんですか?」
にぎやかな喧噪の中で、アルフォンスは眉を顰める。ヒューズはへらりと笑って、
「悪いか?」
「深刻な、話なんでしょ。僕にだって分かります。昔…ウィンリィがなったことがあるから。今はないけど」
ヒューズは足を止める。
「ウィンリィ嬢ちゃん?」
久しぶりに聞く名前だった。
ウィンリィ・ロックベル。エルリック姉弟の幼なじみであり、かつてはエドの機械鎧を整備していた。ヒューズも何度も会ったこともある。
とはいえ、彼女を姉と慕う娘のエリシアはよくラッシュバレーにいる彼女に電話をしているようだが。だが、彼女にそんな暗い『影』は、ヒューズの記憶の中では思い出せないし、何より似合わない。
「ウィンリィ、イシュヴァールで両親、亡くしているから…そのせいで軍服見ると、多汗と過呼吸起こしてたんですよ。似てますよね…」
うつむいてしまったアルフォンスの肩を叩いて、ヒューズは座るように促した。
「あのな。このぐらいにぎやかな方が他人の話なんて聞いてないんだよ。それよりもさ…俺たちはこの話をアレクが聞く方が怖い。『発作』が怖いからな」
はじかれるように顔を上げたアルフォンスに、ヒューズは穏やかに、しかし哀しげに微笑んで、
「これでもよくなったんだ。昔は…ガキの頃は、アレクはひどかった。5歳の子が謝りながら、死にたいって言うのを聞くって…どうよ? あんときのショックは…一生、忘れられないだろうな」



夢、だと分かっている。
だって、母がいるから。
『アレックス、いらっしゃい』
母は決して、自分を女名で呼ばなかった。理由は分からない。ロイが一度祖父に尋ねたけれども、それでもわからなかった。
ただ、母は『息子』を持ちたかったのだと、アレクは何となく感じていた。
幼いアレクの手を引いて、母はよく広い邸内を何かをするわけではなく歩き回った。
春に父・グレアムが徴用先で爆弾テロに巻き込まれて死亡して以来、母の奇行は日に日に悪化していた。
広い邸内には、しかしアレクと、母と、祖父と、ロイとマース。そして数十人の使用人。それでもミュラー邸は広く、誰もが邸内で行われていたアレクに対する『惨い仕打ち』に最初は気付かなかった。
『アレックス』
母は微笑んでいるけれど、目は笑っていない。
力任せに引っ張られて、アレクは肩が痛むのを感じた。
『母様…ごめんなさい』
『本当に、アレックスは悪い子ね。ああ、ごめんなさい。アレックスが悪い子なんじゃなくて、アレックスの中にいる悪いもののせいだったわ』
4歳の少女には、母の言葉が世界の中心で。
それが間違っているのか、ただしいのか、その区別すらできない。否、幼気な少女は、まだ判断自体を行えないのだ。
ただ、振り上げられた手が、自分の背中に振り下ろされ、
痛みというより、熱い感覚を、幼女は涙ながらに訴えようとするけれども。
『だめよ、アレックス。お前の中にいる悪いものを追い出そうとしているんだから。痛くても、我慢しなさい』
『はい…っ、かあ、さま…』
痛みに泣き出しそうだったが、泣いても母はその手をゆるめず。
静かにしなさいと、穏やかな声で血を滲ませるその傷に、爪を立てるのだ。
その声がつまる痛みに、アレクはただ無言で耐えることしかできない。
しかし、母が唯一許した言葉。
『ご、めんなさい…母様…』
『お前は悪い子じゃないのにね』
母はその双眸に、狂気を浮かべて呟く。
お前の中の悪いものが、お前を連れてゆくのよ。
父様を、連れていったように。
父様を取り返すためには、お前の中の悪いものを追い出さないといけないのよ。
少し痛いけれど、がまんなさい。
『ごめんなさい…』
ゴメン、ナサイ。
アレックスノナカニハ、ワルイモノガイルノ。
ワルイモノハ、アレックスノダイジナヒトヲツレテイッチャウ。
トウサマモ、カアサマモ、オジイチャマモ、マースモ、ロイモ……。



「アレクのお袋さん、フローライト・ミュラーって人は、ちょっと精神的に弱い人だった。だからな…国家錬金術師のオヤジさんが亡くなった時に、心が壊れてしまったんだろうな。一年もしないうちに精神的に弱って病気で死んだよ」
ヒューズはコーヒーをすすりながら言う。
「その直後だよ。5歳のアレクが奇妙なことになったのは」
「奇妙?」
コーヒーの湯気で曇ってしまったメガネをポケットから出したハンカチで拭きながら、ヒューズはうつむき加減に言う。
「寝ないんだ。俺やロイや、レオ爺…アレクの爺さんが寝かしつけようとしても、絶対寝ないんだ」
アルフォンスは首を傾げる。
「それって…両親が死んでしまって、不安で眠れないとかじゃあないんですか?」
それならアルフォンスにも経験がある。
父が失踪し、母が病死してしばらくは姉と二人、小さなベッドで小さくなって眠った。
不安と、心細さと、姉の暖かさを感じながら。
「最初はそうだと思った。寝かしつけるたびに、レオ爺やロイや、マースがいなくなるから寝たくないって言うからな。ロイと俺で、常にアレクの側にいて気付いたことがあったんだよ」
ヒューズはメガネを慎重にかけて、アルフォンスを見つめる。
「アレクはどちらかというと、年令の割に自主性の強い子だった。今のエリシアと同じくらいなのに、エリシアよりも…一人でしようとすることが多くって、もちろん子育てなんてしたことのなかったロイと俺は、ずいぶん楽したんだけどな…ある時、アレクが熱出して寝込んで…着替えさせたことがあった」
『…なんだよ、これ!』
悲鳴のような、自分の声を今でも忘れられない。
普段は自分たちが手を握ってやらないと眠れないアレクが、高熱の所為で魘されながら眠っている間にロイと2人がかりで着替えさせていた時だった。
背中に広がる、紅い傷跡。
それは長い直線もあり、短いものもあり、カーブを描いているようなものもある。だがどれも最近のものではない。
『なんだ……?』
「すぐに医者を呼んだよ。レオ爺もな。すぐに説明されたよ。傷は…2ヶ月以上前のものって。2ヶ月前、アレクのお袋さんが倒れるまでアレクはしょっちゅう、虐待、されてたんだよ」
「…虐待?」
アルは、混乱する。
子どもの頃のアレクは想像つかない。だが、今のアレクが何かに怯え、それを隠そうと必死に震える身体をソファの中、自分の胸の中で小さくしていたのはこの目でみたから知っている。
「熱が下がったアレクにレオ爺は問い質した。アレクは時間がかかったけど、話したそうだ。お袋さんがオヤジさんが帰って来ないのは、アレクの中に悪いものがいて、それを追い出さないと、オヤジさんは帰ってこれないし、アレクもいずれ姿を消すことになるから、仕方なく背中を叩いて悪いものを追い出そうとしてたって。アレクは、自分の中の悪いものが、お袋さんを殺した。だから、アレクの中にいる悪いものがアレクが眠っている間に俺たちやレオ爺も悪いものが殺してしまうって思いこんで、眠れなくなってたんだよ」
母の狂気が招いた、悲劇。
母亡き今、娘は母が遺した虚偽の因子を育ててしまった。
冷めてしまったコーヒー。
相も変わらぬ談話室の喧噪が、しかし心の深奥まで冷え切ってしまいそうな2人の上に淀む空気を緩和する。
「お袋さんがアレクにしたのは、結局身体を傷つけるだけじゃなくて、精神に洗脳を施してしまったんだよ」
自分の中にいる、悪いもの。
それを追い出すことができないなら、アレクは眠ることができないと、思い込み。
ある日、少しでも睡眠を取らせようと医師から処方された睡眠薬を飲ませ。
少しの間、ロイとマースが目を離した隙に。
「俺たちは、アレクに読み聞かせる…錬金術の本を探しにオヤジさんの書庫に入ってた。しばらくして、絶叫が聞こえたよ…ミュラー家にいた料理人のマーサの声だった」



覚えているのは、覗き込む家人たち。
『お嬢さまぁ……』
自分を抱きしめてくれるのが、料理人をしていたマーサだったことは覚えている。
うっすらと目を開けたアレクは、しかし背中を走る痛みに思わず苦悶の表情を浮かべる。
かつて、母が自分に課した【苦行】よりも、遙かに息がつまる、痛み。
『なんだ!』
『ロイ坊ちゃん…』
おいおいと泣くマーサをおしのけて、ロイが自分を覗き込み、安心するように声をかけながら頬を撫でてくれた。
それに答えるように、アレクは痛みをこらえて微笑んで。



「マーサの話だと、アレクはぼんやりと裸足で厨房まで歩いてきて…背中から、暖炉の鉄板の上に落ちた。傷が治ってから確認したけれど、アレク自身は全く覚えていない。だが厨房にいた多くが聞いたし、見ていた。アレクが『追い出さなくちゃ』と呟きながら、背中から飛び込んでいったのを」
マーサが自身も火傷を負いながらアレクの身体を拾いあげたことで、アレクの背中の上部、肩から二の腕の上部が火傷を負う程度で済んだが、アレクは傷自体よりも、動けないことで母から施された『洗脳』に苦しみ続ける。火傷による高熱に魘されながら徘徊するアレクを、ロイとマースは何度ベッドに押し込んだか。母に救いを求めて、自らの死を望んで泣き叫ぶ5歳の少女を、2人は交代で幾晩も抱きしめて眠った。
そして火傷は、アレクの身体に痛々しい傷跡として残り。
母の【呪縛】は、アレクを完全とはいえないが少しだけ綻びはじめ。
それなのに未だにアレクを苦しめる。
「…何がきっかけで発作が始まるかはわかんねえ。アレク自身にも、だ。だけど…アレクは俺やロイに頼らず生きていくためには、発作が起こっても隠さなきゃいけないって思ってる…みたいだな」
ヒューズは奇妙に苦笑して。
「…俺とロイは、兄のつもりだったがな」
何もかも、アレクの全てを知り、理解しているつもりだった。
だが、そうではないという現実を見てしまった。
「それは違います。多分…アレクは、あなたに心配をかけたくなくて」
アルの言葉が、心の奥底に浸透していく。
わかっているのだ。
ヒューズは苦笑してみせて、言う。
「ああ…まったく、俺たちではアレクの王子様にはなれないってことだよ」



いいか、アレク。
よく聞くんだ。
俺たちは…お前を残して、誰も消えたりしない。
もし、消えたとしても、それはお前のせいじゃない。
お前を残して消えたんじゃない。
お前は…一人じゃないんだ。
みんながいて、お前がいる。
お前がいて、みんながいる。
小さな存在も、大きな存在の前では無意味だと思うかもしれないけれど、無意味なんかじゃないんだ。小さな存在が集まって、大きな存在になるんだから。
無意味な存在など、この世界に…一つとしてない。
お前の命も。
お前の苦しみも。
きっと、やがて来るなにかの為に…きっと必要なんだよ。



アレクはゆっくりと覚醒する。
背中に残った汗が体温を奪っていて、気持ち悪かった。
ソファから起きあがろうと身を起こして、自分の上に軍服と見慣れないコートがかけてあるのに気付く。
薄茶色のコート。
どこかで見た記憶を、アレクはなんとか引っ張り出し、微笑んだ。
そして、コートを優しく撫でる。
さっき、アレクを抱き上げてた時、アルフォンスが着ていたものだった。
「…相変わらず…優しいね、アルくん」



「…弟?」
「ああ」
少将の言葉に、エドは目を丸くして聞き返す。
「弟って…」
「年の離れた、父親違いの、弟だ。ランドルフ・バレンタイン、21歳」
「…同い年なんだ」
「なんだ、鋼の。21歳になったのか?」
「ん? ああ、先々週に」
「そうか…お祝いを」
「そういう話じゃねえだろ」
ギロリとにらまれて、少将は『冗談なんだがな』と苦笑しながら続けて。
「エレノア・ハーミッシュが生前残したものを、私に渡したいそうだ。何を渡すのかは聞いていないが…明日、ウォルフェンブルグに着くと思う」
少将は渡る風を見つめながら言う。
「母は…私が3歳の時に、失踪した。理由は分からない。父も深くは追究しなかったから…」
少将は中空を見つめまま続ける。
「父は、国家錬金術師だったけど、とにかく研究バカでね…研究に没頭するあまり、銀時計をなくしてしまったこともあったらしい…なのに最期は馬車にひかれて死んだよ」
「父が死んでしばらくは、マスタング家縁の親戚をあちこち回った。可愛そうだ、大変だねと声をかけてくれるのは最初だけ。やがて、人は私の存在自体をなかったように、振る舞い始めた。結局子ども一人面倒見るにしても、経済的負担が大きかったのがその原因だと、今では分かるが…私には居場所がなかった。そんな時、アレクの祖父レオナイト・ミュラーに拾ってもらった。レオ爺には…感謝してもしきれない。アレクはその頃にはもう、母親のフローラさんと一緒に出迎えてくれたんだよ」
小さな小さな、手だった。
『ロイ、お兄ちゃん。よろしくね』
幼いロイ・マスタングがミュラー家に引き取られた年は激動の年だった。
グレアム・ヴァースタインの死。
フローライト・ミュラーの病死。
アレクサンドライト・ミュラーの、精神混乱。
火傷の治療に泣き叫ぶ孫娘を胸に抱いて、レオナイト・ミュラーは哀しげに微笑んでいた。
『マース、ロイ…お前さん達がいるのが唯一の救いだよ』
居場所を与えてくれた恩人に報いるため、ロイはできることは何でもした。
だけど、一つだけレオ爺に言われてもどうしても、できなかったこと。
『ロイ。お前を生み出してくれたご両親に感謝するんだよ』
『…無理です! 父はともかく…俺を捨てた母なんて』
そして、何度も唯一の家族写真を捨てようとしたけれど、できなかった。
普段は怒らない、レオ爺が怒ったから。
『認めないとは何事だ。どんな形でも、お前が親を選べなかったと叫んでみても、お前の両親はロナルド・マスタングと、エレノア・ハーミッシュ以外にいないのだ!』
そして、穏やかに言った。
『大事にしておきなさい。それは自分の過去だろう? いつかお前さんが見せたいと思う人が現れるまで、大事にとっておきなさい』
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