螺旋調和 4






少将が差し出した写真を、エドは受け取る。
角は丸くなり、セピア色の写真が一層退色しているところから見て、相当に古い写真であることは想像がついた。
そして、誰の写真かも。
「これが…さっき言ってた写真?」
「ああ」
ロイによく似た黒髪の女性。穏やかに微笑みながら、胸の幼子に視線を落としている。
それは慈愛に満ちているようにも、見えて。
決して、1年もたたない間に我が子を見捨てるようにはみえなかった。
「目元とか…少将に良く似ているな」
「そうか?」
「ああ…これだけだと少将はお母さん似だろうな」
普通の会話なのだが、少将は妙におかしくなって苦笑する。エドはそれを見咎めた。
「なんだよ」
「いや…こういう会話を誰ともしたことがなかったからな」
「あ、ごめん」
「謝る必要はない」
さらりと返されて、エドは気付いた。
「あれ? でもさ、さっきの話だと、レオ爺って人が大切な人に見せろって言った写真だろ? そんな大事な」
「大事だからこそ、君に見てもらったんじゃないか…エドワード」
久しぶりに名前を呼ばれて、エドは眉を顰める。
「…どういう意味だよ」
「レオ爺は大切な人に見せろと言った。私はエドワードが大切な人だと思っているから見せた。たったそれだけのことだよ」
飄々と告げる、とんでもない告白にエドは少将を睨みつけ、
「たったって!」
「最初に、君を見た時は…なんて強い意志を秘めた双眸をしているんだろうと思った」
少将がゆっくりとエドの顔を見ながら、エドの頬に触れる。
反論しようとしていたエドはしかし動きを拘束され、それでなくても頬から伝わる心地よい体温の暖かさに、何も言わず、『少将の告白』を聞くことにした。
「初めて、アレクが君が女だとばらした時は、衝撃を受けたよ…私が、性別も分からないという事実に」
「君は数ヶ月に一度の割合で、司令部に姿を見せた。君は…気付いていないだろうし、ほとんどの軍人も気付いていないと思うが…君は徐々に美しい女性に変わっていった。まるで蝶が羽化する時のように」
「ちょっと待て…おい、危ないぞ。だってそれって俺が15とか16歳のときだろ? そのとき少将って…30歳? やっぱり危ないじゃん」
エドが止めるのも仕方ない。
エドは賢者の石生成が叶うまで、『男性』として過ごし、接した軍人のほぼ全員が男性と勘違いできるほどの『演技』をしてきた。
となると、少将は欲目で見ていたとしか言いようがない…。
「ロリコンじゃん、バカ少将」
エドに貶されても、少将は堪えない。
「そうかな」
「だってさ…明らかに犯罪じゃんかよ」
少将はにっかりと笑んでみせて、
「違うな。私は…手を出したことはないだろう、鋼の」
異名を呼ぶのは、明らかにエドが間違いをしでかし、その口調からからかうつもりであることも分かっていた。
「…くそ〜、なんか納得いかない!」
不意に思い出した。
少将の気持ちに気づいたのは、エドが中佐になってからだった。
その視線の、時折火傷しそうなまでの熱さに、エドは少将の思いを、そして少将への思いを気づかされたのだった。
なのに。
思い余って相談した弟の返事はつれなくて。
『バカ姉』
『な、なんだよ』
『鈍感なのにも限度がある…誰だって気づいてた。ホークアイ大尉も、ハボック中尉も、アレクも。グレイシアさんだって知ってたって』
あまりの話に愕然とする。
『その、つまり、知らなかったのは…』
『目の前にいる、バカ姉だけ』
准将が姉さんを好きなのも、姉さんが准将が好きなのも。み〜んな、知ってたよ。
エドは必死に弁解する。
『でもさ、みんな俺に聞かないし、教えてくれなかったじゃねえかよ』
アルは冷めた視線を1人でパニックに陥っている姉を見やって、
『あのね。姉さんには言えないじゃない。あんな優しい目で准将が見つめているのに、何年たっても気づかないドンカンには。だから准将に言うんだよ。そしたら准将は必ず言ったらしいよ。鋼のには黙っておいてくれって。アレクから聞いた』
『うわ〜、うわ〜……』
奇声を上げて弟の言葉から耳を守ろうとする姉を、がっくりと肩を落としながら見つめて、アルがぼそりと呟いた。
『まったく、この姉は…アレクみたいなかわいいところがあるなら、准将の気持ちもわからなくはないけど…』
そんな言葉はエドには届かず。
「何が、納得いかないと?」
にこにこと、顔を覗き込まれてエドはギロリと睨み返す。
「ロリコン!」
「おや。今も私がロリコンということは、芳紀21歳のエドは未だもってお子様と宣言されたわけだな」
思わぬ反撃に、エドは答えを返せず。
「14歳という年の差は大きい……まして君はまだ子どもだった……私はありとえあらゆる努力で忍耐を重ねたよ。私のありのままの感情をぶつけるわけにはいかなかったよ。分かるだろう?」
「……今だってどうかと思うぞ?」
「そうかな? そんなことはないと思うぞ」
少将はエドの顔をまた覗き込んで、笑顔で宣った。
「エド。君は、私のことを好きだろう?」
「は?」
思いもつかなかった、言葉。
初めて向けられた言葉。
スキ?
好き?
意味を理解して、エドは体温が上昇するような感覚を覚えた。
眩暈が、する。
なのに、少将は続けて言う。
「君が…中佐になった時、気付いた。君は私のことを、恩人とか、知り合いとか、そういう対象に向ける愛情ではなく、恋人として向ける愛情で見つめていたね?」
不意に、エドは立ち上がる。
顔はうつむいているが、座ったままの少将からの角度からはよく見えた。
「エド?」
「あ〜、まったくこの…オヤジが!」
「そうだろう?」
「知らん!」
そのまま立ち去ろうと歩き始めたエドだったが、その背中には少将の声がかけられる。
「エド!…う」
う?
その単語は理解できず。
数歩進んで振り返り、少将の言葉の意味を知る。
蹲り、小さくなった背中。
『肺はまだ丈夫だとは言えないからね』
『肺炎には注意して下さい。危険ですから』
アレクと、軍中央病院の軍医の言葉がエドの脳裏に浮かび、エドは少将に駆け寄り抱え起こす。
「おい、大丈夫か!」
目は閉じられているけれど、顔色は悪くはない。慌てて額に手をやってみるけれど、特に熱もないようだ。
だが倒れたのは事実。
救いを求めようと辺りを見回してみたけれど、ここに来る途中ですら人影は見つからなかった。
この状態の少将を放りだして助けを求めに行くのは、あまり良い方法とは言えない。
パニックに陥りそうになりながらエドは必死で考えていた。
だが、次の瞬間。
抑えていたパニックに襲われる。
不意に風が動いたかと思うと、エドは暖かい何かに抱きしめられていて。
それが少将だと分かるのに、僅かだが時間を要した。
「ちょっと、少将!」
「まったく。今の私の体力ではこういう方法でもしないと、君を追いかけられないからな」
苦笑を含んだその言葉に、エドは全てを理解する。
「少将、あんた!」
「兵法は欺道なりと教えたのは、私だろう? 鋼の」
「俺は、真剣に、心配」
「すまないね。まだ回復しているとは言い難いのは事実なんだよ。騙して……悪かった」
素直に謝る少将の、低い声が耳と、触れ合う身体を通じて伝わりエドは怒りの表情を鎮めて、仕方なさそうに笑った。
「まったく、騙すなんてひどいぞ」
「ああ。こういう簡単に騙される優しさも、私は好きなんだよ。私のものにしたいな…いや、一番近くにいてその優しさを私に向けてくれないかね?」
何を言われているのか、理解できず。
何も返事を返さないエドを、少将はクスリと笑ってから、
「鋼の。これはいわゆるプロポーズ、なんだがな」
「ぷ!」
「求婚、とも言うが?」
「なんだよ、それ!」
少将の手がゆるんだ隙に、腕の中から逃げ出したエドは、ぼんやりと少将を見下ろして。
「…プロポーズなんか、するのかよ」
「ああ」
「…この、俺に」
「ロイ・マスタングは、エドワード・エルリックが好きなんだよ。これ以上ってないほどね」
アレクが聞いたら、なんて言うだろう。
不意にそんなことが浮かんだけれど。
エドはその眥を上げて、
「俺は、誰のものにもならない! 俺は、俺自身のものだ」
「ああ」
「プ、ロポーズなんてされても…」
少将は穏やかに俯く愛しい女性を見上げて、
「今、答えなくてもいい。誰に相談してもいい。いつか……答えをくれないか?」
「……」
俯いたまま、返事を返さないエドを、立ち上がった少将が抱きしめる。
暴れるどころか、エドはその胸に顔を埋めて。
「答え…」
「長い間、待ったからね。少しぐらい待たされても苦にはならないよ。でも、私が死ぬまでには返事を聞かせておくれ」
「……わかった。明日、弟さん、来るんだよな」
「む? そうだな」
話が変わったことに、少将は幾分戸惑いながら、自分の胸の中にいる愛しい黄金の双眸を覗き込んだ。
「俺、ちゃんと見届けてやるよ」
嵐が過ぎ去った黄金の双眸は、穏やかに濃紺の双眸を見つめていた。



「あら、アルくん」
書類の山を抱えたホークアイ大尉が、扉をそっと開けたアルフォンスに気付いた。
「どうしたの? ヒューズ大佐ならさっき帰られたわよ?」
ヒューズとは談話室で別れた。電話室でロイに電話してくるわと、にっかりと笑いながら去っていった。アルフォンスが探していたのはヒューズではなく、アレクなのだが。
「あ、そうですか」
執務室の中はいつもの通り喧噪に溢れていて。
不思議そうに首を傾げていたホークアイ大尉も、近くの電話が鳴ってアルフォンスに謝って、電話に出る。
アルフォンスは辺りを見回して、ソファにアレクの姿がないことに気付くと、慌てて執務室の最奥の机を見た。
いた。
「中尉、ヴァルドラの書類あがったよ」
「じゃあその次は、特記ナンバー38の書類を緊急で!」
「はいはい…こっちはブレダ中尉のね」
「ほ〜い、さすが大佐! ありがたいっす」
本来の主の10倍のスピードで仕事をこなす仮の主は、ちらりと顔を上げて、アルフォンスを確認する。そして、晴れやかに笑った。
「アルくん」
「大丈夫、なんですか?」
「ん? なにが? 大丈夫だよ。あ、コートありがとうね。ソファに置いてあるから…あと、お礼に今晩、食事でも?」
「すみません、今晩は仕事で…あ」
アルが顔を上げて、
「明後日は?」
「うん、いいよ。じゃあ仕事終わったら、研究所に電話するから」
アルフォンスはそそくさとソファからコートを取り、一声かけて執務室を出る。
そして、深い溜息。
アレクの『発作』を見て。ヒューズ大佐に、発作の時はお前が面倒見ろ!と言われて。帰ってきてみれば、アレクはぴんしゃん仕事していて。
「なんだかなぁ…」
小さな独り言のあと、研究所に帰ろうとコートを着ていた時、執務室のドアが開いた。出てきたのはホークアイ大尉だった。
「あら、ごめんなさい。当たらなかった?」
「大丈夫ですよ」
笑顔で返して、コートをちゃんと着て、それからアルフォンスは思い出す。
「あの、大尉」
「なに?」
書類を提出するのだろう。山ほど抱えた書類を少しだけアルフォンスは持ってあげて。
「ヒューズ大佐か、少将から聞いていませんか? アレクの体調が突然悪くなったら、連絡するようにって」
たり。
早足で歩いていた大尉が足を止めて、アルフォンスは数歩先に出てしまう。
「大尉?」
「なんで、アルくん、君がそれを知っているの?」
少し険しいホークアイの表情に、アルはどこまで言うべきか言葉を選びながら、
「え? あの、ヒューズ大佐に聞いたんです。その連絡網に、僕も入れてもらえないかなって」
「そうなの? ミュラー大佐って、どこかわるいの?」
大尉に尋ねられても、アルフォンスは言葉を濁した。
「う〜ん、悪くはないですけどね。多分…多分、僕にもできることがあると思うから」



お先に。
軽く頭を下げて、青年は階段の下に姿を消した。
少しの間見送って、ホークアイは振り返り廊下の隅でタバコをくゆらせ始めているハボックを見つける。
「あら、いつからいたの?」
「連絡網がどうとか……ってところから」
ホークアイに煙が向かわないように気をつけながら、ハボックが言う。
「最近、アルのやつ、なんか大人になったような気がしないか?」
「……ハボック中尉」
「……しませんか?」
咎めるような視線に、ハボックは言い直すが小さな声で呟く。
「いいじゃないかよ、2人しかいないんだから」
「他に誰か見てたらどうするの。私だってあなたのこと、気付かなかったんだから」
勘が鈍ったかしら。
首を傾げるホークアイを見つめて、ハボックがにっかりと笑う。
「俺だから、じゃないすか?」
「そうね。そうかもしれないけど……アルくん、ミュラー大佐のこと、気になるのかしら…」
話を戻されて、ハボックは苦笑する。
数年越しでようやく振りむいてくれた、恋人だというのに。仕事場ではこんなにつれない。2人にしか分からない会話をしようとしても、すぐにはぐらかされる。慣れたといえば慣れたが、決して嬉しいものではないのだが、かえって彼女が自分を意識しているという事実を感じて、思わずにやけてしまうのだ。
「ハボック中尉…」
「ん?」
「まったく、アルくんのこと聞いていたのに」
苦笑し返されて、ハボックはあちゃ〜とくわえタバコのまま天井を見上げた。
「あはは…」
「だから、アルくんね、もしかしたらミュラー大佐のこと、好きなんじゃないかって」
「はは…へ?」
ぽろりと落ちたタバコは足下に落ちて、ホークアイが拾う。
「危ないわよ」
「あ、ありがと……て、そんなことありえないっしょ?」
「ありえないことなんて、ありえない…特に恋愛に関しては……そう思わない?」
穏やかな微笑みが、明らかに自分たちのことを指しているのに気付いて、ハボックはタバコを受け取りながら苦笑するしかなかった。



「あら、あなた。早かったわね」
「ああ」
軍服の上着を脱ぎながら、ヒューズ大佐は辺りを見回す。
「エリシアは?」
「今日は朝から遊んでいたから、疲れたみたい。お昼寝っていうより…夕寝だわね」
グレイシアは上着を受け取りながら、夕焼けに染まる窓の外を見る。
そそくさと2階に向かう夫の背中を見遣って、グレイシアは声をあげる。
「あなた?」
「エリシアの部屋だ」
さっき寝ていると言ったのは聞こえていたはずなのに。
グレイシアは小首を傾げたが、すぐに軍服を片付けることにして、
「夕食は?」
「ああ」
返事にならない返事を返して、マースは2階へ姿を消した。
軍服にブラシをかけて、クローゼットにしまって。
夫が降りてくるのを待っていたが、その気配が感じられず、グレイシアはそっと2階に上がる。
マースが大佐になったことで、官舎は格段に広くなり2階の二部屋をエリシアの子供部屋として使っている。
マースは眠っているエリシアの寝顔を穏やかな表情で飽きることなく見つめていた。グレイシアがマースの肩に手を置くと、マースはしかし複雑な表情で、
「……エリシアもいつか、パパなんていらないって言うのかな?」
突然の問いかけに、しかしマースの真意を探りながらグレイシアは言う。
「いつまでも、子供じゃないから…」
「そう、だよな。ああ、わかってるけど。エリシアが大人になって、結婚」
思わず声をつまらせるマースの背中を軽くたたいて、グレイシアはマースの言葉を続ける。
「結婚して、家を出て行くって? それは仕方ないでしょう。家族が一番大事だったときから、恋人が、伴侶が大切になる時期は必ず来るもの。それが、成長でしょう?」
「わかっていたつもりなんだけどな…」
どうやら夫は、近しい誰か、かわいがっていた者が独り立ちしようとしているのが、悲しいようだ。
エリシア以外でマースが娘のように感じているのは一人しかいない。
「マース」
「ん?」
「アレクちゃん。何かあったの?」
答えは、マースの表情を見ればわかった。
悲しげな、しかし見送らなければならないと思っている、笑顔。
「あいつな…発作、俺に隠したんだ」
それは意外な事実だった。
10年以上前。
アレクとグレイシアの出会いは最悪だった。
『誰、このおばさん』
『おばっ!』
『おいおい、アレク』
今思い返せば、事情をすべて知っているからアレクの感情も理解できるし、今はアレクとは仲良くできている。アレクは時折出会ったころの自分の無礼さを謝ることはあるのだが、それでもやはり記憶は残る。
母を亡くし、そのときにはすでに唯一の肉親ともいうべき祖父を失い。
アレクは幼児期の精神的瑕疵に悩まされながら、すでに軍にあったロイとマースに助けられながら心の平安を保っていたのだ。
そんなときに現れた、『マースの恋人』。
今考えれば、アレクにとってみればグレイシアはマースを自分から奪っていく人間に、思えたかもしれない。
『まったくみっともないよね。あのころ、あたし13歳くらいだったんだから。それでもグレイシアに冷たくあたってたなんて』
だが責任はアレクにだけにあったわけではない。
ロイはどうかは知らないが、マースはデートの時、よくうれしそうにアレクの話をした。
『あれは、俺にとっちゃ妹だからな』
それがマースの口癖だった。
『兄』一途な、『妹』。
『妹』一途な、『兄』。
マースが結婚し、エリシアが生まれてからは少しだけおとなしくなったが、ロイを加えた3人の関係は、だが身内からみれば強い絆で結ばれていたのに。
「それもさ…発作がおきてるかもしれないって、ロイにいわれて気づいたんだ…慌てて帰ってみたら発作起こしてた…多分、俺がロイに電話するために出たときには発作、始まってたんだと思う」
「マース…」
「それもさ、アルが見つけて付き添ってたらしいんだ」
意外な名前にグレイシアは目を見開いた。
「アルフォンス、くん?」
「ああ」
マースはへの字に曲げた口元を、苦笑に変えて、
「なんか腹が立ったし、アレクもひとり立ちしたいんだったら支えがあった方がいいと思って…アルに全部話して、押し付けてきた」
「あなた」
グレイシアのとがめるような口調に、しかしマースは口元の苦笑のまま、
「いいんだよ。嫌がらせとか、そういうことじゃなく。多分、アルに頼んで正解だと思う…あいつが思っているように、俺もロイもいつだってあいつの傍にいてやれるはずないんだ。いずれは…あいつもそういう相手ができるかもしれないだろ?」
俺にとっての、お前みたいなさ。
マースはグレイシアの腰を抱き寄せる。グレイシアのほっそりとした腹部に顔を押し付けて、
「いいんだよ」
「……そうね。また、忙しくなるから」
グレイシアの言った意味がわからず、マースは顔を上げた。
「グレイシア?」
「今日、病院に行ってきたの。妊娠3ヶ月ですって」
マースの顔がほころぶ。
「ほんとか?」
「ええ。だから、忙しくなるわよ。エリシアにも手伝ってもらわないといけないわね」



「こちらでお待ちください。お飲み物は、何にいたしましょう?」
やんわりとした口調で問われて、ランドルフはソファに座りかけた奇妙な体勢のまま、
「えっと…」
こういう場合、どんなものを頼めばいいのかわからない。ウォルフェンブルグ駅まで迎えに来てくれたハイマン・オークマンと名乗った男が、穏やかにランドルフの答えを待っていたが、
「コーヒーはお嫌いですか?」
「え? いや、飲みます」
「では、お持ちします。よろしいでしょうか?」
「はあ…」
見るものが見れば、ハイマンが何も知らないランドルフに助け舟を出してやっていると気づくのだが、ランドルフにはその余裕はない。



見つけたものに、衝撃を受けた。
手元においておくのが怖くて、昔一度だけ聞いた名前を頼りに、軍司令部に行った。
だけど、名前だけでは通してくれないだろうと思っていたら、『兄』の副官だったという人に会えて。
銀色の髪が印象的な女性士官、長い名前の大佐が自分の話を一通り聞いたあとで、ウォルフェンブルグに行けるようにしてくれた。
その晩、手配されたホテルの部屋は今まで入ったことのないような豪華な部屋で。
ベッドの隅で、小さくなって眠った。
ホテルから中央駅までは金持ちと軍人しか乗れない、とはいっても普段その整備をランドルフはしているのだが、自分の格好と自動車があまりにもつりあわなくて。
促された後部座席に座るのが、恐ろしかった。
知らない、ということが、恐怖すら感じるなんて、ランドルフは思ったこともなかったのだ。
ただ、ひとつだけ。
帰れば待っているだろう、婚約者のマリアの満面の笑みにあふれた笑顔を思い出して、心の平安を取り戻す。
一日中、列車の特別室で過ごし、夜中に降り立ったウォルフェンブルグ駅にはハイマン・オークマンと名乗る男性が迎えに来ていて。
『ロイ様は既にお休みですので、明日お会いになります』
与えられた部屋はホテルのように豪華で、ランド流布の不安を一層増長させるだけだった。



豪奢なソファに浅く座る。
高い天井に、大きな鏡。
きょろきょろと辺りを見回していたランドルフは、扉をノックする音に飛び上がる。
「は、はい!」
返事の声は裏返り、自分でも無様な気がしたが、取り繕うような余裕はなかった。
すぐに扉が開き、男が入ってきた。
黒い髪と、少し年齢より幼く見える容貌はランドルフと同じだった。だが、ランドルフの双眸は浅碧なのに対して、男の双眸は濃紺。だが一見して、その容貌に母エレノアの面影を見つけてすぐに、彼が探していたロイ・マスタングだと気づいた。
そして慌てて立ち上がる。
ロイ・マスタングに続いて入ってきたのは、一見して女性か男性かわからない風貌の人間だった。
長い黄金の髪はひとつにまとめられ、黄金の双眸はちらりとランドルフを見た。
金眸金髪の人物に続いて、ハイマンが入ってくる。
静まり返っていた応接間にコーヒーの香りが通り過ぎて、ランドルフはようやく自分がコーヒーを頼んだことを思い出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
促されてまた慌てて、座る。
気づけば向かい合わせに男も腰掛け、ゆったりと足を組んでいる。金眸金髪の人物は男の座ったソファの背後に立って、自分を見つめているのがわかった。
「ロイさまも、エドワードさまもお持ちしました」
「ああ」
「ありがとう、ハイマンさん」
短いけれど聞こえた金眸金髪の人物の声は明らかに女性のもので。
呼ばれた名前は、男名だったけれどそれでも女性なんだろうなと、ランドルフは思った。
「さて、ランドルフ・バレンタインさん……でよろしいかな?」
「は、はい!」
バリトンの声に、ランドルフは背筋が延びた。男は困ったように笑んでみせて、
「そんなに緊張しなくてもいい。別に…害を加えるつもりはないのだが」
「しかたないだろ。こんな遠くまで放り出されて、心配するななんて気休めでしかないって」
金眸金髪の『女性』がソファ越しに身を乗り出して、ランドルフに言う。
「俺、エドワード・エルリック。こっちが」
「エド。自己紹介ぐらい、私にさせてくれないか?」
穏やかな静止の言葉に、エドワードと呼ばれた女性は瞬間口を尖らせたけれど、身を乗り出すのをやめた。
「はいはい」
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