比翼連理 5
少し遅れてパーティ会場に入ったアルは、見知った顔を探していて振り返りざまに人にぶつかった。
「あ、ごめんなさ」
謝りながら顔を上げると、そこに立っていたのは。
「いや、かまわんよ。アルフォンス・エルリック」
「…大総統」
少し驚いたが、アルが頭を下げると、マッキンリー大総統は呵々と笑って。
「いやいや、第1研究所の所長であるのに、私と話をする機会がほとんどないな」
「すみません、その…」
機会がないのだ。別に避けているつもりはないのだが、アルの直属の上司はアレクで、アレクの直属の上司は大総統にあたる。
「君が謝る必要はないのだよ、君ほどの優秀な人材が軍に入ってくれたことは、軍にとっては非常に喜ばしいことであるし、またミュラー大佐の夫君であることは、君にとっては出世の糸口になるであろうからなぁ…本人が望む望まざるとに関わらずだが」
何が言いたいのだろう。
ふと聞きたくなったけれど、大総統の背後に立った人物を見てアルは問いかけを止めた。
「大総統、エルリック所長が何か?」
大総統はゆったりと振り返りながら、アレクを確認してから、満面の笑みを浮かべて。
「これはミュラー大佐。いやね、ご夫君とはなかなか話をする機会がなかったのでね」
「そうですか」
「しかし、大佐。普段は髪を下ろしているのに今日は」
「ドレスコードですからね。このくらいは楽しませてください」
穏やかに軍の最高責任者に話す妻を、アルは純粋にすごいと思った。
「では、楽しみたまえ」
「はい。失礼します」
ようやく探し出したという声をかける取り巻きたちの話に鷹揚に頷きながら姿を消す大総統の後ろ姿を見つめていたアルにアレクが問う。
「ね、大総統に何か言われた?」
「ん?」
「なんか、困った顔してたから」
アルは大総統に言われた言葉を一言一句間違えないように、アレクに伝えた。アレクは一瞬考えて、
「……出世する気がないのかって聞いたんだよ」
「僕が?」
「うん」
「…出世は、しなくていいよ」
アルは穏やかに微笑んで、呟いた。
「今が一番、幸せだから」
「だから来たくなかったんじゃねえかよ」
「いや、仕方ないさ。それほどエドは際だって美しいのだから」
パーティ会場で注目の的の美人、エドワードの顔は極上の笑顔を浮かべながら、だがひそひそとエスコートする少将に囁く台詞は。
「なあ、やっぱりダンスしないといけないのか?」
「是非ともお願いしたいね。本当なら家の中に隠しておきたいけれど、今日ぐらい私の奥さんは美人だろうって自慢してもいいだろう?」
「…帰ろうっかな」
本当ならば、たくさんの人間がいるところほど危ないのだ。
こんな大会場では暗殺者は容易に、リンに近づける。
ランファンがそれをリンに指摘することなどない。なぜなら、リンは指摘されるまでもなく理解しているのだ。だがそれでも、皇太子として公の場に出席しないわけにはいかないのだ。
『無理は、しない』
その一言を、ランファンは信じるしかないのだ。
『よいか、リン様を守るのじゃ』
アンティンを出る前に、祖父から託された思いを反芻するようにランファンは自分の懐にしのばせた祖父の短刀を握った。
必ず、守ってみせる。
ホテルの中庭には、ホテル内部とは違って静かな空気が流れていた。
心地よい水音が絶えず聞こえている。エドはその心地よさにひたりながら、足が急速に冷えていくのを感じた。
自慢したいという少将に振り回されて、あちらこちらに挨拶という名の笑顔をふりまいて、その上少将に何度もダンスにつきあわされて。
足の痛みに気づけば、いくらオーダーメイドのハイヒールでも普段しないようなダンスのステップまではカバーできなかったようで、両足のかかとに大きな靴擦れができていて、しかし我慢強いエドは少将に黙って笑顔を振りまいていたのだが、異変に気づいたのは弟だった。
気づけば、アレクが近寄ってきて、満面の笑顔で少将に言ったのだ。
『少将、ご夫人お借りしますね』
有無を言わせずエドを連れ去りながら、アレクは言った。
『足、靴擦れ?』
『ん? ああ…』
『アルがね、気づいたの』
弟の姿を探すと、遠くでどうやら民間の企業社長たちに囲まれているアルが見えた。エドの視線を感じて、アルが手を挙げる。
『アルもね、忙しいんだよ。あたしが医療系の特許を早く許可するようにしたでしょ。だから、研究所の情勢を探るようになってね。ここまで露骨だと、ちょっと情報統制かけないといけないかな』
夫の様子を見遣りながら、だがアレクはエドを中庭に連れ出した。
少し待ってて。飲み物でも取ってくるから。
そう言って、アレクは中座した。
エドは靴擦れに痛む足をハイヒールを脱いで、中庭の噴水に流れ込む水路に足をつける。
入れる時は少し滲みたけれど、続く冷たさと心地よさが痛みを勝った。
将軍夫人にもなったら、ダンスも覚えないといけないよ。
アレクに教えられたおかげで、少将に恥をかかせないほどにはダンスを嗜んでいる。とはいえ、普段のサンダルで踊ってきたから、まさかオーダーメイドの靴でここまでひどい靴擦れを起こすとは。
「……ちょっとは女らしいカッコ、しろってことかな」
「さて、今でも十分女性らしいのだガ」
まさか返事が返ってくるとは思っていなくて。
エドは慌てて顔をあげて、自分を覗き込む漆黒の双眸に気づき、名前を呼んだ。
「…皇太子閣下」
「大佐」
呼びかけたのが、メイ皇女であることを確認して、アレクは微笑んだ。
「皇女。また見事な正装ね」
「これは第1級正装ではないですヨ。第1級正装なんてしたら、ワタシ、うごけなくなりまス」
メイが両手を肩まで上げてみせる。
それはかつて話に聞いた、皇女の正装だった。
下はズボンになっている。だが上着は足下を覆うほど長く、その全てに金銀で刺繍がほどこされ、大きく広がった袖には絹で何重もの裾飾りがされている。
頭は髪飾りだか、頭飾りだか分からないほどに一体化された朱と金の装飾品で覆われている。前回あった時はお団子と三つ編みの髪型だったのに、飾りを巻き込むのか、飾りに巻き込んで止めているのかわからないほど高く結い上げられた髪には、細かな金細工の簪がいくつも差し込まれ、メイが頭を下げると、それだけで簪についている飾りが揺れてサラサラと音を立てた。
「一人では着られないね」
「ハイ。これは侍女が2人がかりで4時間かけて着付けてくれマス。でも…ワタシは、好きではないのデ」
正直なメイの言葉に、アレクは苦笑する。
「皇女さまがそんなこと言っていいの?」
「その時々によって、正装のランクが決められていマス。正直、それに合わせるのはすごく大変なんですヨ」
実感のこもった言葉に、アレクは思わず苦笑する。
「女には準備の時間がたくさん必要だからね」
「エエ。それはそうと、あの…エルリック大佐ハ?」
「ん? 中庭で大の字になって寝てるんじゃないかな」
「大の字…ですカ」
アレクは楽しそうに笑って、
「エドはね。子どもの頃から、男の格好ばかりしてきた所為で、軍服がすごく楽なのよ。でも、今日は少将夫人で来てるでしょ。だからドレスコード通りに来たけど、そのための格好が苦痛で苦痛でしょうがないのよ」
促されるまま、中庭に続く廊下を二人で歩きながら、メイは問う。
「そんなに苦痛なら…出席しなきゃいいのニ」
「そうだよね。最初から最後までぶつぶつぶつぶつ文句は言うし、行かないでいようって言う癖に、最終的にロイ、あ旦那さんの名前ね、ロイが困るよ〜って言えば、それでも出席する。ちゃんと最後までね」
「…旦那さん思いなんですね」
「うん、すっごくね。ロイはエドと結婚するのに、いろいろと犠牲を伴ったって、エドが思ってるからね」
難しいアメストリス語に、メイは何度か呟いてみるけれど理解できず、
「えっト…」
「後宮では考えられないと思うけど、アメストリスではあまり年齢差があると、年上の方が損するのよ。そういうこと」
「そうなんですカ」
「うん。まあ、それをさしおいてもあの甘甘夫婦、何とかして欲しい時はあるけどね。時々殴りたくなるし」
そういうエルリック夫妻も、あの仲の良さは何とかならないかと、アレクの部下も、アルの第一研究所の部下たちも噂しあっていることを、アレクは知らない。
中庭に続く扉を開けて、アレクは別れた場所にエドが座り込んでいるのを確認する。
「あ、いたいた」
「……え、リン?」
座っているエドの見上げる視線の先には、穏やかに微笑む皇太子の姿があった。
「軍服の時はあまり気付かなかったけれど、あなたはやはり女性ダッタ」
「……見えませんでしたか」
「ああ。あまりにも活発そうデ。だがそういうあなたも美しい。手元に置きたいほどニ」
この男は、なぜ俺にこんな甘い言葉を囁いているのだろう。
エドは眉を顰めながら、見上げる視線をはずせない。
ロイよりも黒い眸。ロイよりも黒い髪。
射抜くような鋭い視線と、紡がれる甘い言葉はあまりにも違っているけれど。
「皇太子?」
「気に入っタ。なおのこと、気に入っタ」
リンは微笑んでみせて、座り込みエドと視線の高さを合わせる。そして上着のポケットをまさぐり、
「やはり、あなたにしよウ」
「え?」
ポケットから出されたのは、見事な刺繍の施された布を張った小箱。エドの前にその小箱を差し出し、リンはおもむろに開いてみせる。
興味を覚えてエドは覗き込む。
見慣れぬ細かい飾りが施された引き延ばされた金色の円錐形が大きさを変えながら10個、専用のくぼみに納められていた。
「あの…」
「これを差し上げよウ。ワタシの鳳凰に相応しい者にこそ、この爪入は与えるべきだから」
「え? ほうおう?」
「なんで、リンが?」
メイの疑問ももっともだけれど、アレクは何か胸騒ぎがした。足早に二人に近づくと、跪いた皇太子が何かの箱のふたを開けて、エドに見せているのが見えた。そして小箱の中にあるものがかつて祖父から聞いた話を思い出させた。
アレクの後を追ってきたメイが同じものを見て、思わずシン語でリンに話しかけた。
「リン、あなた、何をしているか分かっているの!!!」
「あたりまえだ」
「エド」
きょとんとした表情のエドが、冷たい声で顔を上げた。
感じたことのないほど冷え切った声で義妹が声を上げる。
「……今、皇太子閣下に何を言われた?」
尋常ならざる低い声に、エドは身体が逃げようとするのを何とか抑えながら、
「え? ほうおうがなんとかって」
「皇太子閣下。鳳凰をお求めになるならば、アメストリスではなく、シンでお求めください。まして、この者は共にある者がおります」
小箱のふたをパタンと閉じて、リンは思わず苦笑する。
まさか、小箱の中身を見て『鳳凰』と聞いて、全てを理解できるアメストリス人がいるとは。
「ほオ。アナタはこの爪入が何かご存じだト?」
「戯れ言はおやめくださいと申し上げているのです」
低い声は、アレクが心底怒っているときにしか聞いたことがない。エドは慌てて水路から足を上げた。
「なぜ知ってイル?」
「私の祖父は、かつてアンティンで商売をしていました。さまざまな風習について私に聞かせてくれました。たとえば…龍と鳳凰」
ふ。
リンはその口の端だけで微笑んで、小箱を持ったまま、
「ナルホド。本当に理解しているようだネ」
「皇太子閣下!」
中庭のリンの姿を確認して、ランファンが辺りを見回した。
爪入の小箱を取り出すのを見て、一瞬視線がとまったけれど、深いため息と共に動揺を押し流そうとしたとき。
首筋に、何かを感じた。
アンティンで何度となく感じた、この感じ。
「来る!」
最初に気付いたのは、リンだった。
手にしていた小箱を、半ば放り出すようにエドに渡し、細い目を一層細くし、わずかに腰を落として辺りを警戒する。
続いたのは、アレク。
小箱をエドに手渡したことを咎めようとして、低い姿勢のリンの左手が豪華な礼服の懐に差し入れられ、何かを握る様子に初めて察した。
嫌な空気。
本当は噴水と水路によって耳を和ませる水音が響いているのに、少し離れたパーティ会場ではにぎやかな喧噪があふれているはずなのに。
アレクは皇太子と同じく辺りを警戒しながら、ポケットから錬成用の手袋を取り出し、素早く軍礼服用の手袋と交換する。
「おい、アレク?」
「黙って。何か、来る」
アレクが掌をエドに見せる。それだけでエドは頷いた。手袋による掌底錬成を得意とするアレクの、中でも強力な風と空気圧の錬成陣が書かれているのを見たからだ。北方で共に戦った時、何度も見た。アレクがその錬成陣で風を巻き起こし、竜巻を生んで、ドラクマの兵士を無力化するのを。
なのに、今のエドは、着慣れぬドレスに着慣れぬヒール。そして靴擦れで動けず。
明らかに足手まといでしかない。今は自分が動かない方がいいのだ。
最初の一手は、隣接するホテルの建物の屋上から飛来した何かだった。
鈍く輝くそれを、リンが懐から短刀を出し、はね飛ばし、低くシン語を叫んだ。
エドは呆然としているメイを抱き寄せる。そして両手を合わせて自分とメイの周りに壁を錬成する。
その前で、アレクが両の手を合わせた。
それは一瞬にして、決した。
リンがはね飛ばしたそれに続くように、3人の黒装束の男が飛び込んできた。
おそらくはリンの前に着地しようとしたのだろう。だが、突如巻き起こった突風に身体が蹌踉めき、無様に落下する。
突風からはね飛ばされた一人が、蹌踉めきながら何とか地面に両足で立ったところを、アレクの足払いで一層無様な声を上げながら、顔面から昏倒する。そのすぐ隣で、蹌踉めく違う男をリンが腕を後ろ手に回して、地面に押し倒した。
だが残る一人は。
アレクが辺りを確認すると、少し突風に乗りすぎたのか、かなり離れた場所で転倒していて、慌てて起きあがりながらどこかに逃げようとしている様子が見えた。
そのとき、リンがシン語で叫んだ。
とたん、動いた影にアレクは目を奪われる。
襲って来た男たちと同じ、黒い装束の者が一人、不意に姿を見せて。
だがすぐに逃げた男の後を追うように、姿を消した。
そしてそのとき、初めてバラバラと憲兵が姿を見せたのだ。
「何事ですか!」
アレクは最初に昏倒した男を後ろ手にしながら、鋭く視線を向けた。
「見ての通りよ」
「あ、ミュラー大佐!」
慌てて敬礼する憲兵に、アレクは取り押さえているリンを視線で教えて、
「あちらを」
「はい」
あたふたと、賊を受け取る憲兵を見ていたアレクだったが、自分が抑えている男の呟きに目を細めた。
「…ヤオのガキが……」
「大佐、代わります」
憲兵の言葉に促されて、アレクはその場を離れた。
気付くとアレクの後ろにあった、エドが作った錬成の壁は既に取り払われ、エドがメイの無事を確認してホッとしている状態だった。その横には、先ほどリンが投げてよこした小箱が転がっていた。
憲兵たちがざわざわと辺りを捜索する姿を横目に、アレクは小箱を拾い上げて、ふたを開ける。
これほど見事な金細工を、富豪ともいえるアレクでも見たことがなかった。昔、祖父がシンから持ち帰った書物の中にだけ見た、伝説の聖獣・鳳凰が今まさに飛び立とうとする情景が純金の爪入に細かく細工されていた。
それはまさしく、皇帝が皇后に贈るもの。
「…こんなことになるなんテ」
申し訳なさそうに話しかける、漆黒の双眸をアレクは振り返り見つめて、苦笑する。
「あなたが謝ることじゃないでしょう、メイ」
「そうなんですけド」
「今度のこと、間違いなく皇太子をねらっていたようだけど…」
辺りを見回すと、既にリンの姿はなかった。問うと、憲兵から先に部屋に戻ったという答えが返ってきた。
「そう、さすが弁えているというべきか…、結果待ちというべきか」
「結果待ち?」
痛みが少し治まって、それでもヒールを脱ぎ捨ててエドは立ち上がりながら聞く。アレクは小箱の蓋を閉じながら、
「そう。最後に現れたのは、皇太子の手の者みたいだったから。取り逃がした最後の一人を追っかけていったんでしょうね…。メイ、あなたも部屋に戻って。それから、機会があったら皇太子に、探り当てたら憲兵にでも知らせて欲しいと伝えるのと…これを」
メイはアレクから小箱を受け取り、強く頷いた。
「はい、必ず。リンに返しておきまス」
「為政者となるならば、良き道を歩まれることを願うと、私が言っていたと、伝えて。できれば我が家に結果を報告してくれるかな?」
メイは一瞬目を見開いたが、すぐに頷いて離れたところで待っていた自分の侍女を呼び寄せて、その場を去った。
アレクは大きくため息をついて。
錬成用の手袋を外す。そして、着ていた軍礼服の上着をエドにかけた。
「あ、ありがと」
「冷えるからね。さて…帰りますか」
「それよりもさぁ…」
黄金の双眸が、強い意志を含んでアレクを睨んだ。アレクは言葉が想像ついたけれど、あえて何も言わずに星が瞬く空を見上げる。だから、エドの低い声が響いた。
「アレク」
「何」
「説明しろよ」
「…何を」
「全部言わせたいか?」
「聞きたくないけど、全部言うつもりなんでしょ」
アレクの上着を肩にかけ、マスタング少将夫人はのたまった。
「全部、俺に、わかるように、説明しろ! 俺は、皇太子に、何されたんだ!!」
ギョッとした表情を浮かべているのは、周りの憲兵で。
アレクは深くため息をついて。
「あのさ〜、ここで誤解を生みたいわけ?」
「そんなつもりはないけど、気になるんだ!」
「帰ったのか」
「ええ。アレクが許可を求めると、大総統がマスタング少将夫人の体調を考えなくてはいかんからな、と。今夜はエルリック家に泊まるそうです」
少将は幾分げんなりした表情で、ホークアイ大尉を見る。
「私も」
「帰りたいとおっしゃりたいのは、よく分かります。私も帰りたいですから」
言下に却下を申し渡されて、少将は項垂れる。
ラフォーヌ帰還後、少将に皇太子一行がアメストリスにいる間、大総統は警備の総責任者として少将を選んだ。全権大使もそうだが、どうやらシン絡みはどういうつもりか、少将は『嫌がらせ』で押しつけられているような気がしてならないのだが。
そして、パーティ会場で起きた賊の襲撃事件。
せっかくのエドとの楽しい時間も、あっという間に吹き飛んだ。
今や、蒼と黒の軍服しか見えない広い会場を見渡して、少将は再びため息をついた。
「どうせ、今頃脱いでしまっただろうなぁ…」
「そうですね。ずいぶん実用性がないのを、気にしていましたから。賊も結局アレクがほとんど押さえたようなものです」
「……」
それは悔しがっているだろう。
生来、あの『やんちゃな奥様』はそういう体術には長けているし、かなり得意としてきたのだから。
少将は今度は小さくため息をついて、ホークアイが差し出す書類を受け取り、言った。
「とっとと片づけて、とっとと帰るぞ」
「I,sir!」
襲撃事件でパーティは予定より早く終わり、憲兵たちに事情を説明して、大総統の許可を得て、アレクとエドはエルリック家に帰ってきた。アルはヒューズ家に預けていた双子とフェルを受け取って先に帰っており、エドが着慣れないドレスを脱ぐのに悪戦苦闘している間に3人を寝かしつけて、軍礼服を脱いだアレクにハーブティーを出してくれた。すぐに現れたエドにもアルはハーブティーを差し出す。だがエドはそれには口をつけずに、知らぬ顔でハーブティーを味わっているアレクをにらみつける。
「アレク」
「はいはい、ちょっと待ってよ。多分、護衛付きでいらっしゃるから」
「は?」
「だからそれまで話さない」
「…なんだよ」
アレクは、その洞察力の鋭さで今まで周りを煙に巻いてきた。
そしてエドはリビングに入ってきた2人を見て、やっぱりアレクの予知能力に近い洞察力を今日も思い知るのだ。
「護衛付きって…メイのことかよ」
「大佐〜」
うるうるとその漆黒の双眸を潤ませて、平服に戻ったシン国の皇女は深々と頭を下げた。
「お騒がせしましタ!」
小さな小さな頭が揺れる。その後ろで大きな大きなアームストロング中佐がため息混じりに、
「はてさて…あのような事態があってこそ、吾輩はホテルにいてほしいとお願いしたのだが」
「大佐のような護衛なら、向こうも手を出さないよ。マースだったら危ないけど、マースは今日非番でしょ」
「そこまで考えていたのかよ」
もうここまで来ると、超能力としか言い様がない。
「メイ、ちゃんとあれ、返してくれた?」
「ハイ、伝言も伝えましタ。リンからの伝言デス。承っタ。しかし、皇帝にとって見目麗しく伶俐な鳳凰を立たせることは輿望もいや増すこととなル…とのことでしタ」
「…あきらめるつもりは、ないか…」
アレクは小さくため息をついて、仏頂面でハーブティーのお代わりをアルに頼んでいるエドに言う。
「ねえ、エド」
「あ?」
「あのさ、ロイと別れるつもり、ある?」
「は?」
突然のアレクの問いかけに、エドは動きが止まる。
「別れる?」
「うん」
「俺と…ロイが、か?」
「そう」
困惑は、言い様のない怒りに代わる。
「あいつが、言ってるのか?」
アレクは苦笑しながら、エドの疑念を一蹴する。
「ロイがエドと別れるなんて、大総統に強制されてもしないだろうね」
「…そうか」
「じゃなくて、エドの気持ちの話。もしもだけど、ロイより好きな人ができる、っていうか…ロイ以上に一緒にいたい人ができる…これも違うな…仕事のために、ロイと別れなきゃいけないってことになったら?」
自問しながらのアレクの言葉に、エドは一言で応えた。
「別れない」
「ホントに?」
「何があっても、俺はロイと別れるつもりはない」
不意に、脳裏にロイの笑顔が浮かんだ。
もし、いや、絶対にありえないけれど、自分がロイに別れを切り出したら、ロイはどうするのだろう。
あの優しい、濃紺の双眸は、それでもただ穏やかに微笑みながら、『エドのしたいようにすればいい』と言うだろう。
だが、その先は?
「あ〜、エド。あくまでも仮定の話だからね」
アレクはメイにも言う。
「ね、分かったでしょ」
「…分かってましたヨ。でも、リンは多分だから、エルリック大佐を欲しいと思ったんじゃないカナ」
メイの言葉に、アレクは苦笑する。
メイの言いたいことは想像がついた。
だが、それはエドが絶対に望まない未来だ。
「エド」
「ん?」
「あのさ。説明するよ。皇太子がエドに何をしようとしたのか。でも、決してあたしたちに怒らないって約束できる?」
「…約束する」