比翼連理 6






怒りのオーラが、見えた。
そうとしか表現できない空気に、メイとアームストロングは思わず椅子から立ち上がる。
「た、大佐?」
「エルリック大佐〜、落ち着いてくだサイ」
怒りの原因を作ったアレクはアルと二人でハーブティーの配合について、長閑に話している。メイは涙目になりながら、アレクに救いを求めた。
「ミュラー大佐…」
「ん? 大丈夫よ。これは、メイにも中佐にも行かない怒り方だから」
「そうそう、大丈夫だよ」



「あのね、鳳凰になってほしいって、言われたでしょ」
「ああ」
「鳳凰って言うのは、シン国では伝説の聖獣で、まあ伝説ってくらいだから見たコトなんてないんだけど。だから、違う意味も持ってる。鳳凰は、皇后が着る服にしかその刺繍をしちゃあいけないってことから、鳳凰は皇后を意味するんだよ」
「は?」
「つまり、皇太子は次代の鳳凰、つまり自分の奥さんになってくれって言ったのよ」
「……なんだって?」
メイが割り込んだ。
「あの、もちろんエルリック大佐が結婚されているコトは伝えてありまス。お子様もいテ、幸せな結婚生活を送っていらっしゃることも伝えたんですガ、アノアノ、皇后には結婚されている人もなることができテ」
ぴく。
「で、何代か前の皇帝はわざわざそういう商家の女性を皇后にしたんですけど、デモ、皇后には皇位継承権はないシ、その子も皇帝の子どもではあったけれド、継承権は認められていないのデ」
ぴくぴく。
エドのこめかみが痙攣するのを横目で見ながら、アレクは苦笑する。
「ま、そういうことなのよ。つまり、皇太子はエドにロイとフェルがいるのを分かってて、プロポーズ、しでかしたわけ」
「…なんだって……」
「どういうことだ、アレク。今の話は」
低いエドの声以上に、低かったのはここにいるはずのない少将の声。
さすがのアレクも、少将の姿には少し慌てて、
「あ、あれ? ロイ、ずいぶん早かったじゃない?」
「…今日は徹夜になりそうだから、礼服に着替えに戻ってみれば、エドとフェルはこちらだと聞いたので顔を見に来たのだ。エド、今の話はどういうことだね。皇太子が君にプロポーズしたと聞こえたが?」
「ああ、アレクはそう言った」
メイとアームストロングはもう壁際まで下がっていた。
アレクも心持ち、上目遣いで見えない夫婦の火花を固唾をのんで見守っていた。
「どういう、ことか説明してくれないか、エド」
「なんで俺が。俺も訳わかんないまんまなんだよ」
予想外の夫婦ゲンカが勃発しそうで、アレクは視線だけでアームストロングに合図を送る。
その頭上で、冷戦は続いていた。
「君は、私とフェリックスという存在がありながら、皇太子妃を望んでいたのか?」
「……おい、オヤジ。ずいぶんひどいこと言ってるって自覚あるのかよ」
冷たい火花が、次第に温度を上げる。
アレクの合図の意味をようやく理解したアームストロングがこっそりと部屋を抜け出したのをマスタング夫妻は気付かない。
「だが、事実があるんだろう? 皇太子に求婚されたと」
「あのな、アレクはそういうんだけど、俺は全く! 全然! そういうことをされたってわかんなかったんだよ!」
「…やはり、大総統の勘気を買ったとしても、君を連れて行くのではなかった」
わざとらしいため息に、エドの眦がきりりと上がる。
「なんだよ、それ」
「君のかわいらしいドレス姿を、他人に見せると言うことが、こういうリスクが伴うのだと、初めて理解した。そうだ、君も理解するべきだ」
「何の話だよ!」
次第に熱を帯び始めた二人の会話に、割り込んだのは。
いや、割り込めるのは一人しかいないのだ。
「うるさい」
「アル、今日こそは止めるな」
「止めないけど、姉さん。それから義兄さん。うちの双子と、おたくのフェルはもうおねむなんです。寝かせたところなんです。二人の大声で起きてしまいますから、ケンカするなら外でしてください。もちろん、錬金術ならなおさらだから」
静かに怒りながら、アルは姉と義兄の手を取って、抵抗しようもないほどの強引さで引きずり。
玄関から二人を放りなげて、一言。
「頭、冷やしてください」



「やっぱり、あたしじゃあダメなのよね。火のついたエドとロイを抑えるのはアルに限るから」
アルが注ぎ直してくれたハーブティーを飲みながら、アレクは夫に微笑みかける。アルはあまり嬉しくないけどね、とアレクに微笑み返す。
先ほどアームストロングにアレクが合図を送ったのは、アルを呼ぶためだったのだ。
「まったく、ロイが帰ってくるなんて」
少し耳を澄ませて、メイが言う。
「ケンカしている様子はないですネ」
「今頃仲直りして、二人でお散歩になってるわよ。大丈夫よ」
アレクはティーカップを置いて、小さくため息をつく。
「しかし、皇太子はなんでエドをえらんだんだか…」
「あの、爪入を渡した時ニ、聞いたんでス。リンの答えは、ソノ…」
メイの困惑した様子に、アレクは苦笑する。
異母妹に真実を吐露するような、そんな人物には見えなかった。
おそらく、本当の理由は分かることがあるのだろうか。
だが、アレクは苦笑しながらアルを見る。
「ねえ、アル」
「ん?」
「エドって、やっぱりトラブルメーカーだと思わない?」
「そんな、アレク」
無敵なエドの、無敵な弟は穏やかにのたまった。
「今更確認しなくてもいいと思うけど?」
「…だよねぇ」



すっかり落ち着いたマスタング夫妻と寝付いたフェル、続いてメイとアームストロングを出迎えの軍用車に押し込むと、エルリック家は静かになった。だがアレクは小さく息を吐き出して、アルに言う。
「アル、明日から護衛が来ると思うから」
「護衛? 今日のことで?」
アレクは険しい表情を浮かべて、
「皇太子なんて守らなきゃ良かったかな…」
不穏すぎる発言に、アルが眉を顰めた。
「アレク」
「だって、そうでしょ。あのとき思わず手を出しちゃった所為で、敵…っていうか、刺客? には面が割れちゃったわけでしょ。それに、刺客にしてみれば、一度失敗したときにいたあたしは、うまく使えれば無条件に、皇太子に近づける可能性が高い…」
「だからといって、皇太子を守らなかったら、メイさんや姉さんがやられていたかもしれないんでしょ」
「そうなんだけど…」
真剣に守らなければよかったと考えている妻の、つややかな銀髪に触れてアルは微笑んだ。
「アレク」
「?」
「大丈夫、だよ。なんとかなるから」
ふわりと背中が重さと温かさを増した。アレクは不毛な思考をとめて、小さくうなずいた。
「そうだね。今までだってなんとかなってきたし」
「うん」
「ねえ、今度のことが終わったらイースト・シティ経由でリゼンブールに帰らない? なんとか休暇取るから」
「いいね。ラッシュバレーに寄って、ウィンリィにも顔を出さないときっと怒られるけど」
「あ、それ忘れちゃいけないんだよね」
エルリック姉弟の幼馴染、ウィンリィ・ロックベルが機械鎧技師として働くラッシュバレーで銀行員のハインリヒ・バルグマンと結婚したのは4ヶ月前。
エドとロイの時とも、アレクとアルの時とも違って、ウィンリィの結婚式はラッシュバレー挙げての結婚式だった。かつてエドの機械鎧技師であったウィンリィは、今ではラッシュバレーでも随一と呼ばれるほどの技師となり、そのおかげの祝福であり、今や祖母の異名を受け継いで『ラッシュバレーの女豹』と呼ばれるようになっていた。確かに、エドが自分の体を取り戻したことで、定期的にウィンリィの元を訪れる機会は減ったものの、だが、かつての専属機械鎧技師は宣言するのだ。
『いいわね? あんたたち、いくら整備がいらなくなった〜とか、子供も生まれて忙しいから〜とか言い訳するんじゃないわよ。時間こじあけてでも、遊びに来なさい! あたしも行くから、付き合いなさい!』
それが彼女なりの、優しさだろうとアレクも理解している。
アルも苦笑しながら、賛同していた。
たった一人、スパナで殴られていた要領の悪い、豆粒国家錬金術師はいたけれども。



さわり。
風が揺らぎ、リンは黙したまま顔を上げた。
「ランファンか」
「御意」
リンの背後で、ランファンは跪く。
「どうであった」
「はい。どうやら、棲家らしきものがありました。その数、5名ほどかと。見知った顔もいくつか」
「……まったく、こんな遠くまでもよくやる」
半ば感心、半ば呆心。
リンは跪くランファンの白い項を見遣って。
「ランファン」
「は」
「ここでカンをつぶすのは容易い。だが…ここでミーファを追い落としても、アンティンでの状況には何も代わらぬな」
ランファンはちらりとベッドの上の、脱ぎ散らされた礼服を見遣る。
アンティンにいた時からそうだった。
王宮で何かあれば、リンは礼装を慌てて侍従たちの手によって整え、宮中に参内する。
そして帰ってきて、まずは礼装を侍従たちが嘆くほどに脱ぎ散らかしてから、一服。それから祖父のフーと、ランファンを呼ぶのだ。
既に深更である。
襲撃事件があったのは何時間も前であり、リンの性格から事件があってすぐに部屋に引き上げたはずだ。
だとしたら、脱ぎ散らかされた服はどれほどの間あのままにあるのだろう? このままでは、皺になるのではないか。
不意に思ったけれども、ランファンはそんなことを口にすることもせず、
「では」
「しばらく捨て置け。何かに使えるかもしれぬ」
「分かりました。ですが、棲家はこの国の監察に目をつけられているようです。すぐに摘発されるでしょう」
「ほお」
リンは細い目を一瞬見開いたが、
「なかなか、おもしろいな」
「……」
「ご苦労だった。今日はもう休んでもよいぞ」
「はい……」
部屋を出ようとしたランファンは、一瞬足を止める。それにリンも気づき、
「どうした?」
「いえ」
それは仕える者として、口にすべきことではない。
十分承知している。
だからこそ、ランファンは言わなかった。
なぜ、あの女性に爪入を渡そうとしたのか。
遠くから見守っていたランファンは、全てを見てしまった。
黄金の髪の女性に、リンが黄金の爪入を渡そうとするのを。
ヤオ族の女性にとって爪を美しく伸ばすことは、顔や髪の手入れをすることよりも重視される。爪が美しい女性こそ、家事をこなすこともなく富裕である証明にもなるからだ。だからこそ、父親は娘の幸せを願って、娘が生まれたら爪をカバーする爪入れを作る。男は自分は家事の苦労をさせないというアピールを込めて、妻としたい女に爪入を渡す。
爪入は、ヤオ族の女にとっては特別のものなのだ。
「……気になるか?」
自分の思考の海に漂っていたランファンはリンの言葉が一瞬、理解できなかった。
「?」
「俺は、あの黄金の髪に黄金の目に惚れたのだがな…爪入はメイから返されたよ。一緒にいた、白銀の髪の女がなかなか聡い。為政者となるならば、良き道を歩まれることを願うと伝えてきた」
「……」
「あれに、爪入を渡すべきだったか」
「……リンさま」
「なあ、ランファン。俺は、間違っているか?」
珍しい主人の問いかけに、ランファンはしばらく考えて。
そして答えた。
「おそらくは。ですが、シンで許されても、ここでは許されぬこともあるでしょうから」
「そう、だな」



「ようこそ、皇太子閣下、皇女殿下」
アレクが一礼すると、後ろに控えていた第一研究所の職員、つまりアルフォンスを初めとする職員たちが一斉に一礼する。
「今日は、よろしく頼みまス」
「はい」
昨夜のパーティーほどではない、アメストリスに非礼を感じさせない程度の服装のリンとメイをアレクは挨拶した。
「国家錬金術師機関機関長アレクサンドライト・ミュラー大佐です。国軍第一研究所をご案内させていただきます」
「よろしく頼みまス」
アレクは顔を上げながら、確認する。
「失礼ですが、お一方…」
「ミーファは具合が優れないとかデ」
はメイ。
「あれは錬金術には興味がないのデ」
はリン。
同時に帰ってきた答えに、アレクは苦笑して。
「そうですか…さあ、どうぞ。ご案内します。その前に、ここの所長を紹介します」
アレクより一歩下がっていたアルが一歩前に出た。
「アルフォンス・エルリックです」
「彼は国家錬金術師です。医療錬成を専門にしていますから、メイ皇女の助けになるでしょう」
前日、エルリック家で顔を合わせているメイはにっこり微笑んで、
「よろしくお願いしまス」
「こちらこそ」



正直、今日の視察はないのだと思っていた。
夕べ、襲撃事件があったばかりで、まだ警備総責任者のマスタング少将は集まる情報の解析にてんてこまいしているというのに。
だが皇太子は予定通り日程をこなす。
第一研究所の視察も、アメストリス入国から予定されていた日程だった。
アレクは来るはずがないと思っていたので、国家錬金術師機関でいつもの通りの仕事をしていて、アルの電話に思わず叫んでしまったのだ。
『え、来るの!』
『え、だって予定入ってたでしょ?』
『昨日の今日だから、来ないと思ったのよ。えっと、軍服でいいのよね。すぐ行くわ。あ、メイの書類が出来てるから持っていくわ。だから…10分ちょうだいね』
『…それは僕に言うより、皇太子一行に言うべきだと思うよ』
で、アレクが第一研究所に飛び込んだのは皇太子一行到着5分前で。
「間に合ってよかった…」
アルの言葉は、第一研究所職員の総意だったことには間違いない。



「お疲れ様でした」
職員が差し出した飲み物に、しかしリンは口をつけず。
横で楽しそうなメイだけが、何の疑問も持たずに飲み物を口にして、
「おいしいでス、これ、なんですカ?」
「タルトスという南部で採れる果物を圧縮したものです。添加物は入っていませんから」
「こんな真夏なのに、氷も入ってますネ」
アルが笑顔で答える。
「錬金術で低温を維持する装置が20年ほど前に開発されたことで、冷却装置の発達が進んだことが大きな要因です。タルトスは南部の特産品ではあったけれど、痛みやすいのでそのままでは中央までは輸送できなかったんですよ」
メイの目が輝いてきた。アルと錬金術談義が始まって、アレクはそれをほほえましくみつめていたが、自分に視線を注ぐリンにすぐに気付いた。
「皇太子閣下、何か?」
「イヤ…彼女ではなく、あなたでもよかったカナ」
それだけでアレクは意味を理解する。すっと目を細めて、続けた。
「では、エルリック大佐であった意味はないのですか」
「そうとも言ウ」
「では、なおのこと私は閣下、あなたを許すことはできませんね」
その部屋にはリンとメイ、アレクとアルしかいなかった。
リンは軽く鼻で笑って。
「たかだか同僚のために優しいことダ」
「彼女は、ただの同僚ではないのですよ。戦友であり、何より…ああ、自己紹介が遅れました」
低い声で、アレクは告げる。
「私のフルネームは、アレクサンドライト・エルリック・ミュラー。こちらのエルリック所長は私の夫であり、エルリック大佐の弟にあたります」
錬金術談義に夢中だったメイとアルは、初めて冷え切った空気に気付いた。
「ほお、それハ。では義姉妹というわけカ」
「それだけではありません。エルリック大佐の夫・マスタング少将は、私の幼なじみであり、兄として育ちました。どちらにしても、私の家族なのです。閣下、私は自分の家族が謂われもない苦しみに巻き込まれるのは許せません。それをしようとしているのは、あなたですよ」
リンは口の端に笑みを浮かべたまま、
「苦しミ? むしろ、光栄だと喜ぶべきではないのカ。皇太子妃として、いずれはシンの皇后となれるのだかラ」
おそらくは涼やかな風を送るはずの装置よりも、アレクとリンの間の空気は冷え切っていて。
「人の気持ちを弄ぶことを、上に立つ者がするべきではない。下の者は、それに抗することは難しいのだから。私はそう理解しますよ」
「弄ブ?」
だが続いたアレクの言葉に、リンの笑みは消える。
「鳳凰を求めるのならば、皇太子閣下だけの鳳凰をお求めください。あれは…あの二人は比翼連理です。決して片方だけを手にしても、その輝きは手に入れることは出来ません。欠片では鳳凰の輝きを示さないのですから」
「……比翼連理カ」
「はい」
数瞬の沈黙のあと、リンは苦笑する。そして言った。
「なるほどナ。比翼連理なら、引き離しても意味はないと、あなたは言うわけダナ」
「そうです。比翼連理に至るには、それなりの紆余曲折が必要です。必要とされた代償もあったはずです。失われた価値と同価の望みか、それ以上かは、他者である私には判断できません。ですが、彼女が、彼が苦しんで、苦しんで手に入れた幸せを、他者が崩す理由は、何一つないでしょう」
「ならば、なおのこト。それほどの比翼連理ならば、鳳凰と望んでも崩れるようなものでもあるマイ」
「それは…閣下の、上に立つ者のエゴです。ご理解ください。あなたがなさろうとすることが、誰の幸せになることなのかと」
「……」
リンは答えを返さず、小さくため息を吐いて。
「まったく、答えは交わらぬカ」
そして、中空に向かい呼ぶ。
「ランファン」
わずかな空気な揺れ。
それは夕べパーティ会場で襲撃半が現れる直前に、何となく感じたもので。
アレクは周囲を見回して、手袋を確認する。
その様子に、リンは苦笑して言った。
「私の手の者ダ」
次の瞬間。
部屋の隅に、跪く影。
手を合わせようとしたアレクは寸前で思いとどまる。
喩えそれが排除すべき敵であっても、密室であるこの部屋で錬成するのはあまりにも危険だと気付いたからであって、リンが自分の手下だと言った所為ではなかった。
「ランファン、アジトを突き止めたカ」
「…はイ」
主人の意図をすぐに理解して、ランファンは答える。
「おそらくハ」
「場所ヲ」
告げる場所を、アレクは不審そうに聞いて。
「…皇太子閣下」
「さて、大佐が信じる信じないは自由だが…この者は嘘はつかぬ故ニ」



リンを見送り、少将に襲撃犯の情報を知らせる電話をして、戻ってみれば既にメイとアルの独壇場に戻っていた。
アレクは苦笑して、アルに言う。
「ねえ、アル。悪いけどメイをホテルまで送ってくれる? 捜索にアームストロング中佐も駆り出されちゃったから、人手がないの。だから、警備の事情もあって…お願いできる?」
「うん。いいよ」
それはまだまだ錬金術談義が進みそうな二人に配慮してであった。アレクは国家錬金術師機関に戻って山積するする仕事を片づけなくてはならず。ここ何日かパーティなど仕事にならない状況に、ずいぶん仕事を差し支えていて、おかげで『目、通しといてくださいよ〜』と部下にせっつかれる珍しい現象になりかけていて。
ロイでもあるまいし。
アレクは仕方なく、残業を決意した。なので、アルに言う。
「残業の可能性大だから、双子よろしくね」
「うん、わかった」
だが、話に夢中で答えはおざなりだ。だがアルのことだから聞いているのだろう。アレクは苦笑して、第一研究所を出た。
さすがに洞察力の鋭いアレクでも、この先に起こる出来事を予知できずに。



マスタング少将の使いだと言って現れた小太りの中尉の置いていった書類を、とりあえず覗いてみて、ミーファはため息をつく。
強請っただけあって、書類は予想以上の早さで届けられた。
ミーファがアメストリス留学に必要な書類だ。
どうやらアメストリス最高峰の大学に公的留学生として留学できるようで、なんとなくわかるアメストリス語で書かれている。だがミーファは一枚を手にして、手を離す。
白い紙はヒラヒラと舞い落ちる。
そのとき。
合図もせずに、部屋の扉を開けて侍従の一人が入ってきて、言った。
「皇女」
「…何よ」
「拠点の一つがどうやらアメストリス側にばれたらしい」
「そう」
昨日のパーティ、ミーファも参加していたけれど、襲撃があるのを分かっていたから早めに気分が優れないと理由をつけて、部屋で知らせを待っていた。だが侍従の知らせは、
『失敗した。アメストリス人に邪魔された』
で、今日は拠点の一つをなくすることになるという。
ただの『飾りの人形』である自分に、一体何ができるというのだろう。
ミーファはもう一枚手にとって、軽く投げた。
ヒラヒラと舞い落ちる紙の軌跡を追いながら、ミーファは呟く。
「アメストリス人に邪魔されるなら、アメストリス人にリンを殺らせればいいじゃない…たとえば、人質を取れば言うこと聞くんじゃない?」
侍従の視線が、痛かった。
だが、数瞬の後に侍従が言う。
「それも、一つの手、ですな」
「?」
「ふむ…考慮しましょう。それに、ヤオ家のガキが気にかけている、あの黄金の女と白銀の女には子どもがいる…」
ミーファは続いて投げようとした手を、一瞬止めたけれど。
それは一瞬でしかない。



母様を、守るためだよ。
ねえ、あたし。
いいんだよね。
アメストリス人は、シンの民とは、カンの民とは違う。
だから…いいんだよ。
母様を守る為だったら、一人や二人ぐらい…。
ねえ、仕方ないでしょ?



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