比翼連理 7
「遅くなってしまったね」
「イイエ。貴重なお話、ありがとうございましタ」
後部座席に、ちょこんと座っているメイの姿をバックミラーで確認して、アルフォンスは微笑んだ。
「医療錬成は、やっぱり難しいからね。これからも僕で分かることだったら、いつでも聞いてくれていいよ。それにアレクだって、そういう質問ならいつでも聞いてくれると思うよ。気分転換にもなるから」
「気分転換…ですカ?」
きょとんとした表情のメイに、アルが言う。
「うん。やっぱり、奥さんして、お母さんして、それに軍人して、医者して、錬金術師やってるからね。時々パンクしそうになってるから。今は…軍人が少し忙しいから、余計に、かな」
「…昨日の、事件ですね」
メイは項垂れた。
シンでは時折あったことだ。
その知性故に、実兄のジエンは暗殺未遂事件に何度か遭遇している。そのために、メイも巻き込まれることもあったのだ。
そのたびに、メイは自慢の錬丹術で切り抜けてきた。だが昨日襲ってきた者たちは、メイが正装のために普段は持ち歩いている錬丹術に用いる小さなナイフ、票を持っていないことを知っていたのだろうか。あるいは、メイ如きでは阻止できないと踏んでいたのか。どちらにしても、メイをかばうことしかできなかったエドはともかく、賊はアレクによって撃退された。
メイはいつも票をしまっている懐を上から触って、小さな声で呟いた。
「スミマセン。みなさんを巻き込んでしまっテ」
しかし、アルフォンスは軽やかに笑って見せて。
「いいよいいよ。だって、僕ら慣れてるから。こういうことに」
「エ?」
「なんかね、姉さんはすっごくトラブルメーカーでね。いつでも厄介ごとに首つっこんでるんだな。だから、ああいうことはしょっちゅうとまではいかないけれど、何度かあるから。うん、大丈夫だよ。まして、メイの所為ではないでしょ?」
「ハァ…」
「あ、そうだ。ゴメン、ホテルの前に託児所に寄っていいかな?」
「お子さんたちですネ。いいですヨ、お話は聞いたことあるけど、会えなかったかラ、楽しみでス」
小さな、爆発音に少将は眉を顰めた。
だが思った以上の小さな音と、建物の上に立ち上がった僅かな煙、そして続いた報告に苦笑する。
抵抗しようとしていた者が、火薬に火をつけようとしたけれど、導火線が湿気っていたあげくに、火薬本体もほとんど発火しなかったという。
「…間抜けだ、無能だ」
「珍しいっすねぇ、ここまで間抜けも」
「ああ。おかげで早く帰れそうだな」
少将は不意に思い出した。今日はおそらく残業になりそうだから、いつもの通り早く帰れそうな方がエルリック家にフェリックスを迎えに行こうと、朝出勤前に妻と話したことを。
迎えに行けそうだな。
そう思っていたのに。
憲兵の一人が奇妙なことを言い出した。
「なあ…変じゃないか?」
「あ? 何がだよ」
「テロにしちゃあ、杜撰じゃないかよ。その上、実働部隊がほとんどいない」
「まあ、なぁ…」
疑問を問いかけられた憲兵はちらりと少将を見る。
「だけどさ。シンの皇太子狙ってたんだろ。なら、シンの」
「あれが、か?」
疑問を呈した憲兵が指さすのは。
悪態をアメストリス語で叫んでいる、いかにもシンの民ではない様相の男、数人。
ここを知らせてきたのは、アレクだった。
皇太子の手の者が、昨日事件現場から襲撃犯を追って姿を消したことは、アレクの報告で知っていた。どうやらその手の者がつきとめたアジトがここのようなのだが…それにしては。
「それにしても、シンのにおいがしませんね」
ホークアイの言葉に、ハボックが頷いた。
「そうなんすよ〜、さっきアジトに入ってみたんですけど」
「……ハボック」
「はい?」
「シンのにおいというのは、なんだ?」
「香辛料のにおいっすよ」
「……バカか、オマエは」
思わず言ってしまって、少将はため息をついた。
確かにシン国の特産品に、香辛料もあるのだがそれがシンのにおいとは。
ハボックはくわえタバコのまま、むっすりとした表情を浮かべて、
「少将、そうじゃなくって。なんていうかなぁ…」
「シンの民がいたのなら、それなりの痕跡を残す?」
夫の言葉を、妻が助けた。ハボックはにっかりとホークアイに微笑みかけて、
「そう、それそれ」
「…それはそうだな」
「でしょ?」
少将は、決して濃いとは言えないヒゲが少し伸びかけた自分のアゴを軽く触って。
「だが…暗殺犯が、シンの民であるという痕跡を残して、どうする? アメストリス人のしでかしたことにしたいとするなら?」
「あ〜〜〜」
ハボックは空を見上げた。
「結局、なんだか複雑になっただけっすね」
「いや、そうでもないぞ」
少将は憲兵の一人を呼び寄せる。
「彼らを早急に尋問してくれ。おそらくは雇い主がいるはずだ。少しでもいい、雇い主に関する情報を引き出すんだ」
「わかりました」
少々はにやりと笑って言った。
「早く、帰れることを祈るしかないな」
夕方。
中央軍司令部に隣接する本屋の主人は奇妙な光景を見た。
ちょうど本屋の前に車を止められたのだが、ちらりと車を見ると、軍用車だったのであえて追求することもなく、降りてきた運転手の男性と後部座席から降りてくる少女を見つめていた。
主人は運転手の男性を見知っていた。
よく本屋に来る、国家錬金術師であり、第1中央研究所の所長でもあるアルフォンス・エルリックだった。
すぐ隣の中央軍司令部の入り口付近に、軍関係者のための託児所があるのを主人は知っている。時折託児所に委託されて、絵本を収めているからだ。それに、アルフォンス・エルリックに双子の息子がいて、よく似た息子ともう一人の3人を軍用車に乗せて帰るのを知っていたから、今日はいつもより人数が多いな、と思っただけだった。
アルフォンス・エルリックが双子を、少女が一人の手を引いて、楽しそうに会話を交わしながら、軍用車に乗り込むのも見ていた。
だが客と本の注文に関する会話をして、主人が顔を上げたとき、総勢5人は軍用車の中にいたのだが、もう一人軍用車の中に乗っていた。
こちらからは伺うことはできないけれど、黒い髪の男らしきことだけはわかった。
だが、男の顔を見ている少女の表情が、奇妙だった。
恐怖と、怒りに震えていたのだ。
何だ。
主人は違和感を感じて、注文の話を進めようとする客をとどめて、店の外に出ようとした。
だが。
主人が店から足を踏み出したときには、軍用車はその場からいなくなっていて。
妙に、少女の表情が忘れられず。
主人はつぶやいた。
「…なんだ?」
完全に、日は落ちていた。
アレクは深くため息をつきながら、首を振る。
最近、とみに肩こりを感じ始めて、オバサンはいやだ〜と叫びながらも、帰れば苦笑しながらアルが肩をマッサージしてくれるのを期待して、軍用車を降りたのだが。
「…あれ? エド?」
玄関先に立つ、青の軍服を着たエドを見かけて、アレクが問う。
「……何、やってるの? 不法侵入?」
確かに、どうやら両手を合わせているところを見ると、閉じられたドアの前でドアを練成しようとしていたのがよくわかる。エドは笑いごまかす。
「いやあ、だってさぁ」
「鍵開けてあげるけど…誰もいないの?」
「ああ。少し前から呼び鈴も鳴らしているんだけど。一切返事もない」
アレクは鍵を開けながら、苦笑する。
「寝てるかな?」
「そうか?」
玄関の扉を開けて、アレクは眉をひそめた。
静まり返った、家。
わずかに香る生活臭。
だが、いれば必ず匂う、子供たちの暖かな匂いと、アルが用意しているはずの夕食の匂いがない。
帰ってないのだ。
そんなはずはない。
アレクは眉をひそめたまま、玄関から続くリビングに大股で進み、電話を上げた。
「アレク?」
アレクは手でエドを制止して、受話器に向かって言う。
「こちら、ミュラー大佐ですが。今日の迎えは? ……何時ですか? わかりました」
受話器を投げるように置いて、すぐに取り上げる。
次から次へと電話をかけるアレクの様子に、エドは理解した。
何かあったのだ。
何か。
いや、この場合、ひとつしかない。
帰らないアルと、双子と、フェリックス。
時期は、シン国皇太子の暗殺事件があったばかり。
「アレク…」
アレクは呼びかけられて、肩を大きく震わせた。
そしてゆっくりとエドを見て、痛々しい笑みを浮かべる。
「ごめん、フェルも巻き込んだかも」
「…みんな、なのか?」
「うん」
電話に出たのは、ハボックだった。
「お? お姫様じゃないかよ」
その呼びかけで、少将は電話の主がアレクだと知る。
少将の合図でハボックは電話を回しながら、ひそやかに言った。
「なんか、おかしいっすよ。お姫様」
「む?」
奇妙な言葉に眉をひそめた少将だったが、受話器を取った。
「私だ。何かあったのか」
『ロイ。ごめん、こんなことになるなんて』
そして、アレクは告げた。
『アルフォンス・エルリック、テオジュール・エルリック、レオゼルド・エルリック、ならびにフェリックス・マスタングとメイ・チャン皇女が誘拐されました』
いつもより慌しい呼びかけに、ランファンは侍女の格好のまま、普通に部屋のドアをノックした。
侍女の仕事をしているときに、リンが呼ぶことは珍しい。
「失礼しまス」
「ランファン、調査に飛ベ」
突然の言葉に、ランファンは首をかしげた。部屋には、昨日見た黄金の髪の女性が、今日は青の軍服で肩を怒らせて、リンをにらんでいる。息が切れているからよほど走ってきたのだろう。リンはいつになく早口でランファンに告げる。
「メイとこちらのエルリック大佐の身内が誘拐されタ。シンの民ならばメイだけを別にかくまうことなどできないはずダ。メイの気を探セ。アレの気は探しやすいはずダ。探し出せばすぐに知らせに来イ」
「御意」
一声低く答えてから、ランファンはちらりと黄金の髪の女性を見たけれど、それだけで。
すぐに姿を消した。
リンは小さくため息をついてから、エドに座るように促した。
だがエドは応えずリンをにらみつける。仕方なくリンは先ほどまで吸っていたタバコをまた火をつける。そして説明する。
「ランファンは、気を読みまス。気は誰もが持っているけれど、その大小、輝きの差はあル。メイは錬丹術師だから気は強イ。探し出せば、居場所がわかル」
「……本当か」
「そんなことを嘘ついてモ」
リンは肩をすくませることしかできなかった。
電話が鳴ったのは、アレクが片っ端から思い当たる行き先に電話した直後だった。
アレクが受話器に飛びつく。
「もしもし!」
流れ出したのは、聞きなれぬ声。
男の声だった。
『ミュラー、大佐だな?』
高圧的な雰囲気を持った呼びかけに、アレクは自分が予想していた最悪の状況に事態が進みつつあることを理解する。
「そうよ」
『旦那と子供3人、それからメイ皇女を預かった』
「……そのようね」
『もちろん、憲兵に知らせることはだめだ。返してほしければ、しなくてはいけないことがある』
「なに」
『明後日の不可侵条約締結式の最中に、皇太子リン・ヤオを殺せ』
「…なんですって?」
『一度守ったことがあるんだ。簡単だろう』
そして、電話はアレクの子供の声だけでも聞かせなさいという呼びかけもむなしく、切れた。
『相手は、あたしが皇太子を襲撃犯から守ったことを知ってた。あいつはおそらく…守って信用されているはずだから、近づきやすいだろうという意味で言ったんだろうけど…ていうことは、襲撃犯と同一、あるいは一味』
冷静に分析しようとするけれど、発作のように背中に汗が浮かんでいることがわかる。
アレクのそんな様子に気づくこともできず、エドは目をむく。
『フェルは…人質ってことか!』
『そうなるね…ちょっと、エド!』
アレクの制止も聞かずに、エドはエルリック家を飛び出した。
目指すのは、ホテル。
リンの部屋を聞き、飛び込んで叫んだ。
『お前の所為だ!』
あわてて動きやすい黒装束に着替えて、ランファンはホテルの屋上に立った。
夜風が肌に心地よい。
飛び込んできた女は、昨日、リンの求婚を断った。
この胸のざわめきは、リンの求婚を断ったことへの怒りか。
あるいは、リンが求婚したことへの驚きか。
ランファンは小さくかぶりを振って、あたりを見回した。
異国の地で、気を追うのは以外に骨が折れることを、ランファンはこの地に来てから初めて知った。
自分の足元に輝くひとつ。
その峻烈な紫の輝きは間違いなく、リンのもの。
いつか蠢く朱色の輝きは、そのひとつはミーファ皇女のものだろう。
だが、一番見つけやすいはずのメイ皇女のものは感じられない。
稀代の錬丹術師と呼ばれるメイ・チャンの気の輝きは純白に輝き、傍にいればリンの気も輝きを薄くするほどの強さを持っているはずなのに、それはランファンの知覚の範囲内では感じられなかった。ランファンはすぐに結論にたどり着く。
ランファンのような存在があることを、敵は察しているのだ。
メイは、隠されている。
探さなくては。
ランファンは決意をその双眸ににじませて、屋上から舞い降りた。
「おい、アレク!」
少将から急を知らされて自宅から私服で飛び込んだヒューズ大佐は、続いて駆け込んできたアームストロングとともに誰の姿も見えないエルリック家を駆け回った。
少将の電話ではアレクも、そしてエドもいるはずなのに、リビングにも寝室にも、どこにも姿を発見できなかったのだ。
「大佐、これは…」
ヒューズはメガネのフレームに人差し指を当てて、数瞬考えて、思い当たる。
こんなとき。
かつて、祖父が逝って、遺産を望む縁戚からミュラー家を、そしてアレク自身を守る手段を、12歳のアレクはたった一人で考えて、実行した。
その考えていた場所は。
『錬金術師だからかなぁ、本があるところって落ち着くんだよね。これが自分の財産で、武器で、壁だから』
『ああ、それ分かる気がするなぁ。俺もそうそう』
アレクとエドの会話をふと思い出して、ヒューズは歩を進める。
書庫のドアを開けた。
書庫の明かりはついており、整理された本棚の前でヒューズに背中を向けてアレクが座っている。
ヒューズは恐る恐る声をかけた。
「……アレク?」
だが、答えはない。
何かがアレクの前に広げられており、アレクはそれに向かって必死でメモを書いている。ヒューズは思わず駆け寄り、アレクの前に座り込んだ。
「アレク!」
「わ! なによ、びっくりするじゃない!」
それはいつものアレクで。
ヒューズは思わずその場にへたりこんだ。
「なんだ、発作でも起こしてるかと思った…」
「起こしたわよ。発作なら」
アレクのあっさりとした口調で告げられる言葉に、ヒューズは目を細める。
確かに、広げられた地図に何かを書き込むアレクの指はかすかに痙攣していて、メモを書きにくそうだ。額には汗が浮かび、アレクは深くため息をついた。
「まだ、体がうまく動かないけど、あたしのできることをしないといけないのよ…相手は、憲兵に通報されることを拒否している…誘拐の目的は、あたしにリン・ヤオ皇太子の暗殺を実行させるための切り札、なんだって」
「おい」
「だけど、皇太子暗殺なんてできないし、だったら憲兵に通報せずに、アルたちの居場所を突き止めて…」
「アレク!」
ヒューズがアレクの肩をつかむ。何かを書き込んでいる様子の地図から無理やり視線を自分に向けさせて、ヒューズはおもむろに言った。
「アレク、少し休め」
「…休めない」
「休まないと、お前がもたない。発作のあとは、少し休まないと」
「静かになんか、できないよ!」
静かな拒絶に、ヒューズは思わず深いため息をついた。
「……こういうときこそ、お前は何かしら動いてないとダメだってことは分かってる。だけどなぁ」
「やれることを、させて? 今は、自分の知識、総動員でやれることをしたいの。それから倒れるなら倒れたい」
一途な視線を向けられて、かつての【兄】は苦笑するしかなかった。
怒りに任せて飛び出したエドがどこに向かうのは、分かっていた。
すぐに少将に連絡を取った。
少将からの折り返しの電話は、すぐにマースとアームストロング中佐を向かわせるという答えで。
アレクは、背中を伝う嫌な汗を感じながら、書庫に向かった。
発作が、起きるのは分かっていた。
双子を生んで、イースト・シティに里帰り中に幼いテオがとどめて以来だったから、4年近いだろうか。
それほど久しぶりの発作でも、アレクは鮮明に発作の予兆を認識していた。
何かが、自分から、大切なものを奪っていく。
今回は、目に見えて明らかだった。
アルが。
双子が。
フェルが。
そして、偶然にも東の果てから至った姫君が。
理不尽な暴力によって、アレクの前から姿を消した。
「これは…私の中の、悪いものの所為じゃない」
小さく呟いてみて、自分の体に言い聞かせてみるけれど、発作が治まる様子はなく。
だけれども、アレクには発作が治まるまでの時間すら惜しくて。
呼吸が乱れるのも、体が動かなくなるのも、完全に無視して書庫で地図を広げ、震える指で鉛筆を握った。
一心不乱に知る限りの情報を書き連ねていると、発作は不意にアレクの体にのしかかった。
だめ。
今は、まだ倒れられない。
今は、しなきゃいけないことがあるの。
それに。
私の中の悪いもの、なんて、いないんだから。
アレクサンドライト・ミュラー・エルリックの中に、悪いものなんて、いない。
いないんだから。
そうして、アレクは4年ぶりの発作をやり過ごした。
いつもなら倒れるように眠りにつくのだけれど、その時間も惜しんで地図の中に情報を書き込んでいく。
そんなときに、ヒューズとアームストロングは現れたのだ。
「…憲兵司令部にフォーレン事件の時に南方にいた同期がおります。内密に動いてもらいましょう」
「頼めるかい、中佐」
「もちろんです。信用がおける者です。フォーレン事件を内々に知らせてくれたのも、やつでしたから」
「…中佐が信用できるなら、お願いするよ。これを」
アレクが差し出したのは、必死で書き綴っていた地図で。
「もし、シンの民だったらある程度シンとのつながりがない所では動けないと思う…あたしの知ってる限りの情報だけど、シンと関係する地域を書き出してみた。役に立つかどうかは分からないけれど」
それは、かつてシンで商売をしていたという祖父・レオナイトから伝えられた、数少ないシンとのつながりでアレクが知る限りの情報だった。
差し出された地図を見て、アームストロングは力強くうなずいて、
「分かりました。確かにお預かりしました」
「よろしく…」
不意にヒューズはつかんでいたアレクの両肩が重くなるのを感じて、あわてて声をかけた。
「おい、アレク」
「…少し……眠る」
「すいませ〜ん、これ、トイレはどうするんですか」
のんびりとした声をアルが上げると、上階の柵越しに声が降ってくる。
「上手にしてみせロ」
「……」
無理ですって。
アルは思わず、手枷をはめられた両手を見る。
一定の間隔が開いた木枠を手枷としてはめられているのだ。そうなっては両手を合わせるだけで練成を行えるアルには、練成は行えない。
そして何より子供たちを【人質】にとられている。
たとえ、両手が自由であっても子供たちを自由にしない限り、アルは逃げることなどできないのだ。
「したいのカ」
「いやぁ…今はいいけど、しなきゃいけなくなったらどうしよっかなっと」
「ずいぶんとのどかなものダ」
鼻で笑って、男はアルの隣に座っているメイを見やって、
「お姫さまにやってもらえばイイ」
「ええええええ…それはちょっと」
メイも子供たちを人質にとられては、懐に入れていた票を差し出すしかなかった。
託児所に3人のこどもを迎えに行って、全員が車に乗り込んですぐだった。
アルが運転席に座った瞬間、後部座席に一人の男が乗り込んだ。
メイが強い声で制止したけれど、男は後部座席に座っていたフェルを抱えて、首元に短刀を押し付けたのだ。
『意味することは分かるナ。抵抗はするナ。では、発車してもらおウ』
メイは思わず視線で救いを求めたけれど。
誰も気づいた様子は見えず、アルは無言のまま発車したのだった。
そして、途中で男の仲間らしきものと合流し、アルとメイは目隠しと手枷をつけられて、ここに放り出された。
それが夕刻。
既に空気は夜の冷たさを肌に知らせてくれる。
アルは気づかれないようにため息をつく。
アレク。
僕らは、大丈夫だからね。
アルの心の呟きは、だがそのとき、アレクの耳には届かない。