比翼連理 9
それは、怒りだった。
昨日の夕方、託児所前でフェルを人質に取られて、促されるままに車を走らせ、ここまで来た。
言われるがまま、手枷をつけられ、自分に出来ることなど何一つなく。
守るべき子供すら、その視界に入れない。
夜中に、か細い泣き声が聞こえた。
おそらく、フェルだろう。
『フェルなぁ、いくら俺が寝かしつけても、パパは? って夜鳴きするんだよ。まったく、俺が育児放棄しているみたいな気分になるんだよな』
『お風呂と寝かしつけくらいは私の仕事にしてくれてもいいだろう?』
姉夫婦が苦笑しながら、すやすや眠る愛息の頬をなでていたことを思い出す。
双子は既に自立心が強く、アルの添い寝も嫌がる。1歳しか違わないのに、この差はなんだろう。もっとも、父親にしてみればもう少し自分が構ってやりたいというのが本音なのだ。
夕べのフェルの夜鳴きは、アルの内包された怒りを増幅させた。
何も、出来ない。
それをやつらは、ほくそ笑むのだ。
『オマエも国家錬金術師だってナァ? それも、トップクラスらしいじゃないカ。なら、みせてみ。子供の命が惜しくなけれバナ』
最後の言葉で、アルが動けなくなるのを分かっていて、犯人たちはアルを揶揄するのだ。
だが。
アルは、一つの理論を、それも数週間前に生み出したばかりで妻のアレクすら知らない理論を実践するつもりになっていたのだ。
しかしそれには…。
「あの、すみません」
「ア?」
「子供たちに会わせてもらえないんですか?」
突然の申し出に、男たちは眉を顰めた。
「ナンダト?」
「僕たちは人質、なんですよね? だったら、子供と引き離しておく理由はないんじゃないですか? 僕は父親として子供たちが心配なんです。会わせてもらえませんか?」
それは当然の問いかけだった。
男たちが集まってなにやらごそごそと相談している様子を伺いながら、アルは小さな声ですぐ傍に座っているメイに話しかける。
「メイ」
「ハイ」
「いいかい? 合図があったら、フェルを連れて、ここから出るんだ。出口は…分かってるね?」
「アルフォンスさん?」
メイは顔を上げるが、アルの横顔は何か決意に満ちていて、思わず言葉を飲み込む。
「いいね」
「ハイ…」
見れば、男は4人。
こそこそと聞こえてくるのは、アメストリス語。
そしておそらく子供たちの世話をするために、一人女性がいる。
あわせて5人。
だが、そのすべてを倒す必要はない。
突破口を開ければいい。
アルはこっそりと辺りを見回した。
建物に入ってくるとき、アルたちは信じられないことに目隠し一つされなかった。入ってきた道が分かるから、出て行く道も分かる。アルはさきほどそれを確認したのだ。
「いいダロウ。妙なことをしたら…分かっているナ」
「もちろん」
「よし」
どうやらリーダーのような覆面の男が何かを叫ぶと、奥から女性が顔を出し、応えた。
そして次の瞬間。
「パパ!」
「ああ、テオとレオ。大丈夫だったか? ご飯は食べたか? 夜は寝れた?」
心細かったのだろう、半べそをかきながら双子がアルの身体に抱きつきながら、父の名前を呼ぶのを立ち上がっていたアルは座りながら、手枷で不自由な両手を上手に使って、双子の頭をなでる。
遅れて現れたフェルは半べそではなく、泣き腫らした赤い目でアルを見つめていた。
アルはフェルを呼び寄せる。
「フェリックス、おいで」
「あるおじ…ままは? ぱぱは?」
「うん、今はいないよ」
半べそだった双子はアルとフェルの会話を見守っている。双子にとってフェルは1歳違いの【弟】なのだ。引き離される寸前、泣き叫ぶフェルをレオが抱きしめ、テオがその頭を撫でて落ち着かせていたのを、メイは思い出した。
しっかり、お兄ちゃんをしている。
だが、メイの脳裏には先ほどのアルの言葉が鎮座していた。
合図があれば、フェルを連れて。
合図とは?
「オイ、まだカ?」
苛立ちながら問いかけるリーダー格の男に、アルは穏やかに制止して。
フェルに言う。
「いいかい。何があっても、このお姉さんから離れてはいけないよ」
「うん…」
促されてメイの小さな手と、フェルのもっと小さな手が結ばれた。それを確認して、アルは双子を手招きする。
「テオ。レオ。これから言うことをよく聞くんだ」
「パパ?」
「いいか。これはお前たちにとっては、予測以上の事態を引き起こすかもしれない。だが…パパの合図で、出口へ走れ。最初は…メイとフェルだ」
「…二人が先なんだね」
聡さは、母親譲りだろう。
双子はアルの言葉で、何かを父がしようとしていることに気づいた。
強く頷いて、双子は父に問う。
「僕たちがすることは、なに?」
何かしなくてはいけないときに、妻・アレクは誰よりも早く、アルの言いたいこと、したいことを理解していた。
そして言うのだ。
力強く頷いて、
『で、アル。あたしがしなくちゃいけないことは?』
さすがは、母親譲り。
アルは一瞬だけ苦笑して、手枷がはめられたままの両手を広げた。そして言う。
「レオは僕の右手を。テオは左手を握って。握ったら、レオとテオが手を合わせるんだ」
手を、あわせる。
それが父にとって何を意味するのか、双子は瞬時に理解し、頷いた。
「分かったよ、パパ」
「うん、僕もやる」
「オイ、いい加減ニ」
苛立ち始めた男の言葉を無視して、アルはフェルを抱えるメイをみつめて、穏やかに言った。
その手は双子と合わせながら。
「フェルを、頼みます」
「アルさん!」
メイの呼びかけよりも早く。
レオの右手と。
テオの左手が。
軽く打ち鳴らされて。
アルは目を閉じる。
理解と、分解と、再構築。
だが【それ】はいつもと、少し違っていて。
アルは、【それ】を意志の力でねじ伏せる。
立ち上ったのは、破壊に伴う砂埃。
フェルを抱えて、メイは砂埃の中、疾駆する。
心を澄ませていたランファンは、立ち上る砂埃の中に、メイの輝く気を見つけた。
建物を覆いつくした砂埃はやがて姿を消し、建物は無残に破壊された様相を見せていた。
あまりの砂埃に、噎せ返る襲撃犯の中で最初に立ち直ったのはさすがというべきかリーダー格の男だった。
シン語で指示を出す。
「全員、無事か?」
それぞれ帰って来た答えに、リーダーは続ける。
「人質は?」
収まりかけた埃の中に、メイ・チャンの姿は見えず。子供も一人少ない。
男は眉を顰めて、指示を続けざまに出した。
「メイと子供を追え。見つければ連れて来い」
「応」
飛び出していったのは、2人。
男は人質の下に向かった。
ようやく収まった埃の中で、父親は蹲っていた。
激しく咳き込み、少量だが吐血する。
「ぱぱぁ」
「ぱぱ…」
あまりにもよく似た顔の息子が、リーダーから父親を守るように立ち塞がった。みれば、双子のほうには傷一つないようだ。
「ドケ」
「いやだ」
「パパは僕たちが守るんだ」
強い意志を秘めた双眸が2組。
だが、リーダーは手下を支持して双子を排除する。
そして、蹲る父親の顔を上げさせる。
口の端に一筋、鮮血。
だがその目は、未だに息子たち以上に強い意思が宿っていて。
「こども、を」
「手を出すか出さんかハ、オマエしだいだと言ったはずだが」
「……わかった」
肩が、痛い。
腕に力が入らない。
けれども、メイは懸命に走った。
必死に抱きついて泣き声を上げているのが、守りきらなければならない命だと分かっているから。
ここがどこかは分からない。
だが、砂埃が立ち、
『……今!』
アルの声に背中を押されるように飛び出した。
ここがどこかもわからない。
しかし。
抱きしめる暖かな存在を、守ることだけは決めていた。
たとえ、素手であったとしても。
「メイ・チャン!」
その声は、振り返らずとも誰なのか分かる。
「止まれ!」
と呼ばれても止まれるはずもなく。
肩の痛みで立ち止まりそうになる気持ちを鼓舞しながらメイは走った。
「待てっテ…」
途中で言葉が消え、重い音がしたのはなぜだろう。
呼びかける声が一つもなくなって、さすがにメイは足を止めた。
振り返ればそこにあるのは、横たわり呻き声をあげる、二人の男。
その肩や太腿に、突き刺さる小さなナイフを見て、メイは辺りを見回す。
それは密やかに守ることに長けた、ある一族の女たちが得意とする武器。
そして、それをこのシンで操れるのは一人しかおらず。
男たちから小さなナイフを引き抜きながら、ランファンは呟くように言った。
「お探ししましタ、メイ皇女」
「あなたが来てくれて…助かったわ」
いつの間にか、胸の中のフェリックスは泣くことをやめていた。
そしてランファンが上げた花火を、手を広げて見つめていた。
少し遡って。
早朝の食事のあと、結局大総統府に行くことを諦めたアレクに勧められて、少将は僅かな仮眠を取った。
起きた時には、隣で妻も疲れきった表情で眠っていて、少将はアレクにエドを起こさないように頼んで、中央司令部に出勤してきたのだ。
だが、待っていたのは心配するホークアイと、大総統の呼び出しだった。
それが昼前の話だ。
そして少将は、いつものとおり大総統が入れたコーヒーをすすっている。
気だるい眠気が飛んでいくようで、少しありがたかった。
「少将、妙な話を聞いたんだがね」
「はい?」
「誘拐事件が起きて、それがどうやら暗殺未遂事件になりそうだという。さて…誰が誘拐されたのだろうね?」
狸じじい、アレクの言うとおり、やっぱり知ってるじゃないか。
内心だけでぼやいて、少将は応えた。
「私は存知ませんが…将軍クラスの方でしょうか?」
「ふむ…君も知らないかね…さて、シンの皇太子が来ているこの時期に、暗殺未遂事件とは…目標は私かな? 皇太子かな?」
マッキンリー大総統は少将の前に座って、コーヒーを一口すすって。
「これは…少しモカが強かったな」
「そうでしょうか、自分はとてもおいしいと思いますが」
まったく気持ちのこもっていない賛辞に、大総統は『まあいいだろう』と呟いて、
「まったく、テロリストというのはおとなしくはしてくれないものだな。頭をつぶしても、尻尾は元気…雇い主がいればすぐに身体を形成するということかな?」
「はあ」
「どうやら私のところに情報が入ってこないようだから、おそらくは皇太子狙いなんだろうな…警備総責任者として、がんばってくれたまえよ。ああ、もし皇太子が言うことを聞かなければ、私が面倒ごとを持ち込むなと言っていたと伝えればいい」
少将は大総統を見る。
好々爺然として、コーヒーをすすりながら狸じじいはのたまった。
「そうだろ?」
「……機会がありましたら伝えます」
「ああ、そうしておくれ」
「あら、リン」
ショッピングに出かけていたミーファが侍従に荷物を持たせて、軽快に廊下を歩いていると。
廊下の出窓に腰掛けているリンを見つけた。
侍従はちらりとリンを見たけれど、立ち止まらず荷物を抱えて通り過ぎる。
「出かけていたのか」
「ええ。留学するにしたって、いろいろと準備が必要だから」
「…そうか」
「何か、用だったの?」
リンの部屋は、ずいぶん離れている。ミーファは純粋に疑問に感じて聞いたのだが、リンは苦笑する。
「いや、メイを探していた」
「メイ?」
そういえば、メイの部屋はこの奥だ。
「見ていないか?」
「そういえば、昨日から会ってないわねぇ…メイも留学準備で走り回ってるんじゃないかしら?」
あっけらかんと応えて、ミーファはリンの前を通り過ぎる。
「ミーファ」
「ん?」
「…お前は……いや、いい」
「何よ、それ」
眉を顰める異母妹ににらみ付けられても、リンは口をつぐみ。
ミーファは嘆息して。
「じゃあね。メイを見かけたらリンが探してたって伝えるから」
「ああ」
数歩歩いて、部屋のドアを開け。
後ろ手で閉めて、ミーファは安堵のため息をつく。
大丈夫、ばれていない。
『人質にメイが入っている』
そう侍従に聞かされた瞬間は驚いた。
しかし、【母様のため】と、瞬時に立ち直る努力をした。
『あなたはすることなどない。ただ、お姫様としてそこにいればいい』
残酷な言葉を、ミーファは受け入れることしか出来ず、この中央のどこかで監禁されているはずの異母妹をわずかばかり思い出す。
「メイ、あなたって馬鹿ね…」
妹を、頼む。
そういわれていたのに。
リンは目を泳がせる。
これほど手数が少ないことに、歯がゆい思いをしたことは今までなかった。
フーを連れてこなかったことを、今更ながら後悔した。
不意に顔を上げると、あまり会いたくない顔がそこにあった。
「皇太子閣下」
きっちりと敬礼をこなすけれど、その目は明らかにリンを捕らえて離さず。
リンは小さくため息を吐いて、少将を自分の部屋にいざなった。
「警備はこれ以上増やすつもりはなイ、ということだネ」
「失礼ながら、逆に増やせば人質たちの生命の危険があります」
人質、という単語がこれほど重い意味を持つことなど今までなかったのに。
少将は原因の一端が、目の前で悠然と足を組む男だと分かっているからこそ、なおのこと睨みつけるようにして、視線をはずさない。
「まあ、仕方なイ。ワタシも、自分の命は自分で守るように努力シヨウ」
「よろしくお願いします」
踵を返して部屋を出て行こうとする少将の背中に、リンは呼びかけた。
「言いたいことが、あるのでハ?」
ぴたりと止まったものの、振り返らない少将の背中を見つめて、リンは言う。
「この場で何を言われてモ、仕方ないことではあるけれどモ」
「……言いたいことは山ほどありますよ」
振り返らずに、少将は言う。
「だけど、昨日、妻がすべてあなたに言ったと聞いています。だから、私は言わないだけだ。だが」
振り返った男の双眸に、焔を見てリンは目を細める。
「あれは私のものであり、私はあれのものだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……ずいぶんな、自信ダ」
「いや、これは自信ではない。事実だから」
これほどまでに言い切られては、リンは苦笑するしかなく。
「なるほド」
「皇太子閣下、覚えておいていただきたい。エドワードに、フェリックスに何かあったなら、私はあなたを許さない。大総統はこの国で面倒ごとを起こすな、と私に伝言したけれど、私は警告だけではない」
つかつかと歩み寄り、座る皇太子の胸倉を掴み上げて、男は低く言った。
「返答しだいでは、襲撃犯の代わりに私が、あなたを始末する」
「……ずいぶんと、不穏当な発言だナ」
口の端は笑っているけれども、見つめる漆黒の双眸は笑っておらず。
軽く添えられた皇太子の手の、思った以上の力に少将は思わず掴んでいた胸倉をはずした。
「くっ……」
リンは乱れた上着を軽く直して、
「安心シロ。奥方にはきっぱり断られタ。その上、妹御に比翼連理の欠片を望んでも意味はない、と断言されてはどうしようもナイ」
「比翼連理…?」
リンは微笑んで、
「とにかく、今は居場所を突き止めるのに私の手の者が動いてイル。少し、待テ」
そして、花火は上がり。
ようやく起き出したエド。
空を見上げていたアレク。
ホテルの玄関先にいた少将。
ホテルから中央の午睡を見つめていたリン。
中央の細い路地から空を見上げるアームストロングとヒューズ。
それぞれが、昼間の花火を見つけ出した。
「アレク!」
エドが蒼穹に流れる花火を指差す。
「あれ」
「うん、ランファンの花火だね…。いってくる」
青の軍服に袖を通しながら、アレクは問う。
「エドは? どうする?」
「……ホントは行きたいけど、ここで待機する人間も要るんだよな?」
「そうだね」
「……アルと、フェルを頼む」
「うん」
義妹はあまりにも穏やかに微笑んで。
そして、言った。
「必ず。全員、連れて帰ってくる」
「ああ」
そしてアレクは疾駆してきた軍用車に乗り込んだ。
メイは蒼穹に花火が輝き、そして消えていくのを見て、思わず深く息を吐いた。
次の瞬間、左肩が痛んだ。
思わず呻いて座り込む。
「皇女?」
「だい、じょうぶ…だから」
メイは冷たい汗をかきながら、右手を上げる。
「この先に、私たちが出てきた場所がある…3人残っているの…助けてあげて」
「わかりました」
立ち上がるランファンはちらりと、蹲るメイを心配そうに覗きこむフェルを見遣って、
「頼んでイイカ?」
「うん。ぼく、お姉さんをまもる」
先ほどまで泣いていた子供のせりふとは思えず、ランファンは苦笑するけれど、すぐに表情を引き締めて、走り始めた。
「くそ!」
舌打ちをしてみても、状況は好転するはずもなく。
男は窓の影からそっと、覗きこむ。
建物は完全に黒の軍服に囲まれていた。
逃げ場はなかった。
「お頭」
「まったく、あいつが要らぬことをしでかしてくれて」
憎憎しげに横たわるアルと、心配そうに寄り添う双子を睨みつけて、男は子犬のような視線を向ける2人の手下を鼓舞する。
「まだ、いけるはずだ。あの親子を使う。アメストリス語が達者なやつはまだ残っているか?」
「まだいます」
「よし、そいつに外に向かって言わせるのだ。人質がいる、ミュラー大佐を連れてこいと」
「わかりました」
手配に離れていく手下の背中をみつめて、男は臍を噛みたい気分に駆られる。
甘く、見ていた。
これほど、アメストリス人がしぶといとは予想もしていなかった。
自分を犠牲にして、まして自分の子供ではなく、異国人と幼子を先に脱出させるとは。
男は祖国での戦いで、錬丹術の怖さを身にしみて知っている。だからこそ、錬金術など小手先の手品程度だと思っていたのだ。国家錬金術師と呼ばれる者でも、身内さえ抑えれば大した脅威にはならないと。
だが、違っていた。
予定は大幅に狂った。
『カンのために、必ずヤオのリンを仕留めて帰って来い。手段は問わぬ。なんなら、ミーファを使うのも』
そう主君は言っていた。
自分の妹姫さえも、心揺れることなく使えと言えるその冷酷さが、男は故郷に残してきた家族のことを思い出して、恐ろしくなる。
そして、従わざるを得ないのだ。
ここで、躓くわけにはいかなかった。
なのに。
「悪いガ、人質を続けさせてモラウ」
荒い息の父親に告げると、アルは静かに問う。
「子供たちを解放できないのか…」
「時、ここに至っては無理ダ。時を逸したのは、オマエたちの所為ダ」
「……」