Collapsed Family 04
あいつは、トラとウマを持ってるらしいんだ。
深刻そうな顔をして、マコトは言った。その言葉の意味を知らないで。
あれは……確か名前は、マサ。大学生になってしまったマサが久しぶりにフクロに顔を出して、マコトと懐かしいような話をしてたのを、遠巻きに聞いて。
その時、『ヒカル』の話も聞いた。
トラウマ。精神的外傷。
マコトとマサの話だから、ずいぶん大雑把な話なんだろうけど、多分『トラとウマ』はそのことだと思った。
精神的外傷による、人格障害。
要するに、多重人格。
辛いこと、嫌なこと、忘れたいこと。
それは誰だってある。
でも、自分の記憶の中にとどめたくない時、多重人格障害の場合、自分以外の人格にその記憶を任せてしまうって言う。
多重人格になるのは、結局精神的外傷、つまり、トラウマによるところが大きいって、あたしの担当だった精神カウンセリングが教えてくれたっけ。
とにかく、マコトの彼女、『ヒカル』は多重人格障害で、友達を殺してしまった。
『ヒカルの中のヒカル』が『ヒカル』を苦しめたくて、やったこと。
誰だって……トラウマはある。
それに気づいているか、気づいていないか、それだけのこと。
……あたしの場合、母親と……誘拐、かな。
「昔さぁ……」
テーブルに突っ伏したまま、あたしは声を上げた。というより誰が聞いているともしらずに、ぼそぼそと呟いた。
「昔ねぇ、誘拐されたんだ。白いワンボックスに、ナイフ突きつけられて、小屋に押し込められて。身代金、要求されたらしいんだよねぇ」
「おい、ずいぶんディープ」
「……なんか、思い出しちゃった」
押し込められた佳奈の後ろ姿が、なんだか自分の小さいときと重なる。
店内の喧噪が遠くなる。
耳鳴りが、痛い。
「おい、瑞穂」
「……なんとか、生きてます」
きっと……ヒカルは、忘れたかったんだ。
そう、忘れたいことなんて山ほどあるけど、忘れちゃいけないんだよ?
その瞬間瞬間は、でも、間違いなく、あたしが生きてる瞬間なんだから。
忘れたいことだって、あたしを構成する、一つの要素に過ぎないんだから。
あたしは……忘れない。
忘れたいけど、忘れない。
「出た」
和範くんの声に重たい頭を何とか持ち上げた。
マコトが和範くんの隣に回り込んで、
「つーと?」
「……盗難車だね。被害届が先週出てる。なんだ、社用車として使ってたんだ……茨木警備保障?」
「まつき?」
あたしは働かない頭をなんとか動かして、言葉を絞り出す。
「まつき、ね。茨の木と書く茨木ね」
「そうだよ」
「どうした、瑞穂」
「思い出した。茨木警備保障だよ。確か、この前和範くんに作ってもらったリストに載ってた。茨木源治だよ……警察出身だけど、事務方だったんだ。だから実行部隊とあんまりつながりがなくて、天下り先に指定されるのに苦労してるって」
「……ぶっちゃけた話、茨木警備保障が怪しいってか?」
「だね」
「つーか、なんで瑞穂さんはそんなことを知ってるわけ?」
そのあと。
あたしたちは、あっさり朝宮佳奈がどこに拉致られたか、すぐに突き止めた。
だって、茨木警備保障が所有している貸倉庫が、あって。なんでかは分かんないけど。とりあえず、現状を横山さんに報告した。ま、責任者は横山さんになってるし、これ以上首を突っ込むのはどうかと思ったから。だってね、場合によっちゃケーサツにツーホーしたほうがいいかもと思ったりして。もっとも、マコトは反対だったんだけど。
「どうしましょ?」
『瑞穂くん』
「はいはい」
『君は、どう思う?』
電話の向こう、横山さんはなんだか言おうかどうしようか、迷ってるみたいに思えた。
「どう思うもなんも、最初に通報しなかったのも、やっぱりケーサツがらみは通報してももみ消されると思ったからで。多分、今更ケーサツに言っても、多分、東京湾にプカプカ浮いたのを収容するぐらいしかできないっしょ?」
『……警察もずいぶんな言われようだな』
「とにかく、今回に関して言うなら、ですよ」
『今回は、おそらく大した人数は動いてないでしょうね。瑞穂くんが言うように、茨木警備保障なら』
「うん。そうだと思う。うちら二人でやれないことはないと思うけど」
『……吉岡副署長に話しだけ、しておくということで』
ということは、GOサインが出たということで。
あたしは、食い入るようにあたしを見つめていたマコトに、左手の親指をグイと立ててみせて、ニヤリと笑った。
マコトも笑った。
……そう、これから一暴れ。
和範くんは、情報を提供してくれる、情報屋。
タカシはあくまで、友人つーことで。
実働部隊は、マコトとあたし。二人っきり。
そのこと意外がったり、無理じゃない? とか言うやつもいるけど、少なくとも二人でタッグを組んだやばい系の事件は、だいたい解決出来てる……特に非合法な事件なんかは。
用意するものは、3つ。
その1、タカシから譲ってもらった、米軍デルタフォース御用達とかの防毒マスク。
その2、催涙スプレー。
その3、お手製のコショウ爆弾。
コショウ爆弾は結構、強烈。拳よりちょっと小さいくらいの布袋に目一杯、つーかだいたいはコショウビンまるまる詰め込んで、パチンコで相手の顔にたたきつける。大抵、涙まみれになるか、くしゃみが止まらずに死にそうになる。実際くしゃみが止まらないから病院に行って、2週間入院したってやつもいた。なんでだろう?
それだけ抱えて、頭にはいつでも装着できるように、防毒マスク。手には催涙スプレーと布袋。そんな男女二人、結構身長高めの二人が行ったら、そりゃぁ目立つわな。
みんなの注目を受けつつ、夕暮れ時の歩道を歩く。
「なあ、瑞穂」
「?」
ちょっと聞いていいか? マコトがあたしの顔を見ずに、ただ下を向いて、独り言のように言う。
「いいよ、なに?」
「……さっき、自分も拉致られたって言ったじゃん?」
「ああ、言ったね」
「それってさ、お前が強いのと関係あるわけ?」
「あるっていうかさぁ、拉致られなかったら、空手なんて始めてなかったんじゃないかな?」
誘拐されたのは、8歳。
学校の帰りに、いきなり白いワンボックスに押し込まれた。サバイバルナイフをつきつけられて、猿ぐつわをされて、足と手をぐるぐる縄で縛られた。
泣けなかった、怖すぎて。
『ミノシロキンをオヤジにヨーキューしてる』
とか犯人は、サングラスにマスクという典型的な武装で、犯人は臭いほどにコロンを漂わせて、言ったんだ。
結局父親は、要求された身代金を渡すことが出来た。だから、あたしは解放されたんだ。
犯人は3日後、逮捕された。
近所に物干し竿をセールスして回ってる、普通のおじさんだった。
その時から、あたしは自分の身は自分で守れって、父親に言われて来た。だから、空手を始めたんだ。
自分を守れるように。
守りたい人を守れるように。
覚えがいいって、空手の先生に気に入られて、すぐに黒帯になった。家を出るまで、空手はずっと続けてた……こんなに実践で使うことなんて思ってなかったけど。
「なるほどねぇ……なかなかすげぇオヤジさんじゃん」
「そうかな?」
「ああ、そう思うぞ? オレってさ、オヤジは早く死んでるから、よく分かんないけど」
「……」
お日様は完全に、沈んでしまった。
目的地の貸倉庫は目の前にある。
事務所なんだろうか、一カ所だけ明るい窓がある。
池袋から少し離れたここなら、多分、拉致った二人を隠しておくと、マコトは言った……根拠は『勘だよ、わりいか?』
いいえ、なんにも悪くないです。
だけど、その明るい窓から、エリナさんらしい金髪が見えた時は、思わずマコトの顔を見上げた。
「……今の」
「だから言ったろうが、勘だって。オレの勘は当たんだよ」
参りました。
防毒マスク、装着。
「うー、こういう時は……」
「なに?」
「こういう戦闘態勢完了って時ってさ」
マコトはいつも同じことを言う。
多分、今度も同じセリフ。
「ワーグナーの『ワルキューレの騎行』より、チャイコフスキーの『スラブ行進曲』ってカンジだよな」
「……なあんでいっつもいっつも、スラヴィック・マーチって出てくるんだか」
「ま、そういう気分ってことだよ」
意味、分かんない。
とにかく、マコトとあたしの頭の中では、小澤征爾指揮のウィーン・フィルのスラヴィック・マーチがグルグル回ってる。
あたしは頭を軽く振って、スラヴィック・マーチを追い出して、まだ軽く余韻に浸ってるマコトの頭をポンと叩いた。
「ほら、行くよ」
「……しゃあないか」
不用心。
……警備保障って、会社の名前じゃなかったっけ。
マコトが声色を変えて、
『ピザの配達に来ましたぁ〜』
「おお。誰か、頼んだか?」
開けながら、聞くんじゃないよ。第一、セキュリティのプロだろ。その辺、しっかり頼みたいなぁ。
内心ぼやきながら、ドアを開けて出てきたよれよれのスーツのオジサンの顔面にコショウ爆弾をたたきつけた。思わず言葉も出ないで、顔面をかばって崩れ落ちるオジサンの首筋を軽く、ホントに軽く手刀で叩いたら、あっという間に失神した。
ドアの間にオジサンの身体が横になって、これでドアは閉まらなくなった。
「なんじゃー! きさまらは!」
皓々とついている、蛍光灯。
広くはない、事務室。
奥の事務机。その足にそれぞれ背中を向けて、座っている……つーか、座らされているエリナさんと、朝宮佳奈。
正確には、机の足に身体をロープで結ばれているんだ。
顔を見たけど、暴行されたカンジじゃない。
……まだ、無事なんだ。
ホッと一息ついてから、防毒マスクのあたしを見て、少し怯えた表情のエリナさんに、
「大丈夫、私。山内瑞穂です」
英語で話しかけると、エリナさんも、英語の分かる朝宮佳奈も、ホッとした表情を浮かべて、それから力強く頷いた。
顔を上げると、防毒マスクのマコトと、残ってた5人ほどのオジサンたちがにらみ合ってた。マコトはそんなに我慢できるタイプじゃない。そのことをふと思い出して、あたしはオジサンの手元で光るナイフを見て、気がついた。
……だって、5人が全員、ナイフを構えている。一応、ポーズも様になってる……それなりの訓練を受けているんだ。
一歩。オジサンが足を出し、かなり早いスピードでナイフを突きだした。
反射神経の塊みたいな、マコトでなかったら避けられなかったかも知れない。軽いステップで、少し重たいオジサンのスピードを上手く逃げている。だけど、代わる代わるだったら……マコトだって疲れてくる。人質に二人を取られたら、何ともならないし。
「……」
軽く肩を叩くと、マコトは軽く息を吐いて引き下がる。あたしの短いジェスチャーで、攻守交代ということを理解したみたいだった。
前に出る。
マコトより背が低いし、胸も人並みにはあるから、いくらボーイッシュな格好してても、オジサンたちには女の子って分かったみたいで。途端に妙な表情をする……そう、スケベオヤジの表情。
「お姉ちゃん、こんなところじゃなくても、遊べるのにねぇ?」
……女を嘲笑う時の男って、個性ゼロ。
防毒マスクで顔を隠したまま、あたしは左手を軽くオジサンの顔の前に持っていって、
人差し指を軽く前後に振ってみる。
あたしの後ろでは、マコトが二人のロープを切って、持ってきたマスクをさせている。そのことの意味に気づかないオジサンたちは息上がって、
「なめんじゃない!」
「大人をバカにするな!」
いや、バカにしてるわけじゃないし……こっちは丸腰でそっちは5本のナイフ。これって……大人、舐めてるのかな?
小さく溜息をついて。
それからあたしは軽く、足を出した。
左足を左から右へ。
少し動かしただけだった。
オジサンの手の中にあったナイフは、あたしの左足が一度舞った瞬間、床に落ちた。
左足が二度目に舞った時は、オジサンの胸、それも心臓の上をねらって、あたしの26pの足型をつけてやった。オジサンは吹っ飛んで、後ろに立ってた他のオジサンの上に降っていく。これで3人、終わり。
パタパタとドミノ倒しのように、前の3人が倒れると、残ったのは後ろの二人。呆然と立っていた。あたしは3人の上を軽いステップで飛び越えて、肩より少し高く上げた左足を今度は平行に動かした。
グキ。
寝違えた時のような、音がした。
同じような身長だったから、一人のオジサンの首蹴りをそのまま、力任せにもう一人のオジサンまで持っていったから、最初のオジサンの首は鞭打ち状態。でも……天罰と思ってもらうしかないか。
ふー。
深く息を吐いて。あたしは頭を下げた。
「ごめんなさい」
「おら、瑞穂。行くぞ!」
二人を連れだしてから、マコトが横山さんに電話した……二人を救出することができたとか、事務所にひっくり返っている何人かがいるとか。
パトカーの音が聞こえ始めたのは、10分くらいしてからだった。
「ほい、マコトと瑞穂くん。謝礼な」
ポンと置かれた封筒は……立っちゃった。
「おい、瑞穂……立ったよ」
「封筒が立つなんて……すごいわねぇ」
とマコトが封筒に手を伸ばした横から、横山さんが取り上げる。
「おい、なんだよ!」
「マコト。確か給料の前借り、あったよな。先々月から、毎月結構な金額払ってくれるってことだったっけ?」
「……月10万」
「げ。そんなに何使ったのよ」
思わず口走っちゃった、あたし。マコトは恨めしそうにあたしの顔を見て、
「銀色のコインが、オレを呼ぶんだよ」
「……スロットか」
「最初にさぁ、やった機種がさぁ、吹いたんだよ。30万コースだぜ? 滅多にないんだぜ?」
「……で、横山さんにいくら借りたのよ」
「……50万」
あたしはあきれた顔で、マコトと横山さんの顔を見た。
「よくもそんな余裕が」
「ないよ。ま、借金返しきるまでは間違いなくここにいるだろうしね」
「……そりゃな」
「この100万円のうち、お前の取り分は50万。じゃ、遠慮なくもらっていくな」
横山さんが手慣れた手つきで、指が切れそうな新札をかっちり50枚数えて、金庫にしまうのを、マコトはうなだれて見ていた。それを見ていて、あたしは思わず声を上げた。
「ね、マコト」
「あ?」
「貸したげよか」
「……いくら?」
「10万。良心的な利率でいいから」
「……て?」
「月2」
「……良心的だな」
「そうだね。じゃ、完済するまで、必ずここで働くってことで」
「おい!」
どうなったかって?
朝宮佳奈は、朝宮議員の下に連れて行った。おじいちゃんと孫の間で、どんな会話があったか、なんて知らない。
でも、翌日の朝刊には朝宮議員が辞職することを決めたって、書いてあったし。その追記事に、長男の朝宮裕一郎警視正が、警察を退職するとも載っていた。
多分、朝宮議員は、息子と心中することにしたんだ。
できの悪い息子を、更正させるために。
朝宮佳奈は、朝宮議員に引き取られ、不自由のない生活を保障されて、良いところの学校に入った。でも、時々フクロにいる。
ある意味自由だった昔を懐かしんでいるのかも。
……そうそう、3日ほどして、栃木の山中から、朝宮佳奈がいた出張の店『蒼い蕾』のオーナー、高居満が遺体で発見された。
あたしにのされたオジサンの一人が、殺害・死体遺棄を自供したらしい。
高居と、電話番のおばちゃんは、単なる『手違い』で殺された。そういうことになった。
……茨木警備保障は、当然ながらなくなった。
平穏とまでは言えなくても、普通の池袋が戻ってきた……と思っていたのに、もっと大きな嵐が、あたしの側までやってきてたんだ。