「僕は、知らないんだよ。その、『エルリック兄弟』がエランダムに来た時、セントラルで薬剤師の勉強をしていたからね」
ゲルハルトが差し出したお茶を、熱そうにすすりながら、しかしアルフォンスは申し訳なさそうに言う。
「僕も、分からないんです。去年から4年ほどの記憶が……兄が国家錬金術師になる少し前からの記憶が全部、抜け落ちちゃってるんですよ」
アルフォンスと分かってからのエルンストの態度は、明らかに以前のアルフォンスを知っている様子だった。興奮冷めやらぬといった様子で、エレノアを呼んでくると叫んで姿を消してしまったので、取り残されたアルフォンスはゲルハルトの接待を受けることになったのだ。
「だけど、ずいぶんとエレノアとエルンストは助けられたんだそうだよ。エレノアによく聞くからね。君たちの名前を」
「そうなんですか……あれ? 今の人がエルンストさんですよね? じゃあエレノア・ランスドルって人は確かお姉さん??」
「エレノア・ランスドルはエルンスト・ランスドルの姉だよ? ああ……記憶がないんだったね」
分かっているものとして話をすれば、会話が成立しないもどかしさ。
もう理解しているつもりだったが、それでも苦笑してしまう。
「前は……僕は兄と2人で来たんですよね?」
「ああ、そう聞いているよ。そのころ、エレノアはひどい状況だったのを、随分と助けられたらしいよ」
乱暴に開いた玄関のドアを、エレノアは怪訝そうに見つめる。
逆光で見えないけれど、そこで肩で息をしているのは弟だと分かる。
「エルンスト?」
「ねえ、さん……が」
「え?」
「アルフォンスが……」
「アルフォンス?」
どこかで聞いた名前だ。
アルフォンス……。
口内で呟いて、エレノアはその美しい空色の目を見開く。
「アルフォンス?」
「アルフォンスが、薬局に来てる! それも、鎧の姿じゃないんだ!」
少しして。
やっぱり乱暴に開き、にぎやかに鳴り響くベルの下で、ランスドル姉弟は肩で息をしながら、立ち尽くす。
アルはゆっくりと立ち上がって、
「はじめまして……じゃなくって、こんにちは」
「美味しいですね」
「そう? じゃあ、おかわりする?」
「はい!」
幸せそうに食事にかぶりつくアルフォンスを、エルンストは不思議な感慨で見つめていた。それにアルフォンスはすぐに気づき、
「なんか、ついてます?」
「いや。あのとき、エドは腹が減った、飯を食わせろってうるさかったけど、お前は何一つ食べなかったからな……」
「はあ」
そう言われても記憶のないアルフォンスにはイマイチ実感がわかない。
ウィンリィには、食事も睡眠も取らない身体だったと言われても今では腹も減るし、眠気にもしょっちゅう襲われている。そのことを言うと、エルンストは苦笑する。
「普通の身体に戻りたいって、お前達は望んでいたじゃないか。そうなれたんだから、いいだろう?」
「……よくはないんです。でも、欲張りって言われても仕方ないけど、兄さんがいなくちゃいけないんです」
強い目。
意思という名の焔がついた目を見て、エルンストは苦笑する。
「ま、とにかく食えよ。姉さんのシチューは旨いからな」
「エルンストったら、おだてても何も出ないわよ」
「分かってるって」
穏やかに微笑む姉弟を見て、アルフォンスは複雑な表情を浮かべていた。
食事を済ませたあと、エルンストが切り出した。
「さて」
腕組みをしてから、問う。
「アル、いつから記憶がないんだ?」
もう何度も聞かれたせりふだ。アルは滔々と答えた。
「母さんの錬成の話は?」
姉弟は軽く頷く。
「聞いてる」
「そこから……記憶がないんです」
「あ?」
「……ちょっと待って。じゃあ、エドくんが国家錬金術師になったのも? 一緒に旅したことも?」
「どうなってる? それに、エドはどうしたんだ?」
「兄さんは……」
アルは顔を伏せて、呟くように言う。
「兄さんは……僕が錬成したんだって、その場にいた人が教えてくれた……でも、そのあと、僕が姿を消したはずなのに、気がついたら僕が姿を見せて、兄さんが姿を消してたって、その人が……」
エレノアは呆然と、エルンストは天を仰いだ。
「……いったい、どうなってるんだ……」
ふと。
目が覚めた。
アルフォンスは、不意に目が覚めて、思わずベッドの中で溜息をつく。
夢、を見ていた。
兄と一緒にいる夢。
自分は自分であって、自分でない。
『お〜い、アルフォンス。これでいいだろ?』
聞こえる声は、間違いなく兄の声で。
『相変わらずエドワードさんって、大雑把ですね』
苦笑する自分の声は、しかし自分の声ではないことを自覚している。
何度、この人物になっている夢を見ただろう。
兄・エドワードが『アルフォンス』と呼ぶ人物になって、空を飛ぶ機械を研究している。兄は不意に現れて、アルフォンスを手伝っているのだ。
今日も、見た。
少しだけ不自由そうに、義手の右腕を使って食事をしているエドワードに、『アルフォンス』は何かを話している。エドワードは物憂げにそれに答え、しかしやがて姿を消した。『アルフォンス』は悲しげに、その後ろ姿を見送って……そして、アルフォンスは目を覚ました。
ここ1年半、エドワードの姿を見失ってから、自分が違う『アルフォンス』として兄の側にいる夢を繰り返し見てきた。
そのあまりのリアルさに、あるいはかけ離れた非現実感に、時折戸惑いを覚えるけれど、でもこの夢がアルフォンスの、エドワードが生きていると信じる根拠だった。
「兄さん……」
小さな声で呼んでみるけれど、答えはない。
4年前。
ここを訪れた『エルリック兄弟』はこの部屋で泊まっていたという。
エルンストが教えてくれた。
だけど……何も思い出せない。
窓の外には、灯りの消えたエランダムの町並みと、満天の星空が見えた。
シュボ。
オイルライターでタバコに火をつけると、エルンストは僅かばかりの至福の時を過ごす。
決してタバコがないと生きていけないという喫煙家ではない。だが、エレノアも寝てしまい、深更に仕事が長引いた時など、ここ2年ほどで覚えたタバコの、緊張を一気に解きほぐす効果は、これ以上のものはない。
エルンストが向かっていたテーブルには、エルンストがずっと書き続けてきた日記がある。毎日つけるものではないけれど、幼い頃から折に触れて書き留めてきた。4年前、このランスドル家で起こった出来事も、エルンストは克明に記録してあった。もう一度思い出そうと広げてみたものの、エルリック兄弟によって流れ始めた時間が、だがそこに至るまでの澱みを思い出させて、エルンストは沈んでいた。
ぼんやりと、中空を彷徨うエレノアの表情を失った視線。
非難だけをぶつける、エランダムの人々。
非難も、賞賛も、全てをその身に受けても、エドワード・エルリックという少年は真っ直ぐに立ち、真っ直ぐにランスドル姉弟を見つめていた。
エルンストはくわえタバコのまま、外に出る。
少しだけ寒さを含んだ空気に身震いするけれど、頭上に拡がる全天に拡がる星空に、エルンストは見惚れてしまう。
ここまでの星空は最近でも、珍しい。
エランダムの北に、最近工場ができた。鉄道沿いに工場を造り、材料を受け入れ製品を送り出しているという。そのためだろうか、近年空気が汚れているようで、医師のエルンストの元に、呼吸が苦しいと工場で働く者が担ぎ込まれたりもする先週の話だが、このあたりでは珍しく、豪雨だった。
そのおかげで空気が洗われたんだろうか?
そのとき。
すぐ横の、寝ているはずのアルフォンスの部屋の窓がゆっくりと開いた。
思わず注目していると、顔を出したアルフォンスが小さく声を上げる。
「あ」
「脱走か?」
「いや、眠れなくて……」
4年前。
エランダムに現れた2人組は、明らかに異様だった。
1人は、背の低い少年。
もう1人は、少年よりも遙かに背の高い、巨躯の鎧で身を固めた者。
少年は、街の者に問うた。
『あのさ、エレノア・ランスドルって知らない? もと国家錬金術師をやってたって人なんだけどさ』