帰る場所。06




「よく寝たかい?」
「ああ」
「そりゃよかった。飯ができてる」
勧められるまま、兄弟は食卓に座った。既にエレノアが座り、微笑みながら食べている。
「姉さん、口の隅っこ、ついてるよ」
拭き取られて、エレノアはにっこりと微笑む。
「エルンスト、ありがとう」
「うん」
穏やかな時間の中で、エドワードは違和感を感じていた。
そして、それを口にする。
「エレノアさん」
「なあに?」
「あんた、イシュヴァールに行ってたんだよな?」
「……」
表情が、変わった。
エレノアの表情が、笑顔が動かなくなった。
まるで時間が止まったように。
エルンストが椅子から立ち上がる。
「おい」
「マスタング大佐が、教えてくれたよ。エレノア・ランスドルはイシュヴァールで、医療系の国家錬金術師を束ねてたって」
「ます、たんぐ?」
奇妙な笑顔のまま、エレノアの口だけが動く。その異様な表情にアルフォンスは気付いて、エドワードに言う。
「兄さん、もうやめて」
「生体錬成っていうより、あんたは医療系の錬金術師として、傷病兵の治療にあたったんじゃないのか? 至純の錬金術師」
「しじゅんの、れんきんじゅつし?」
オウム返しに呟いて、エレノアは表情を変える。
張り付いていた笑顔が消えた。
表情を消し、伏し目がちになり、聞き取れないほどの小さな声で呟き始めた。
危険だ。
エルンストはなおも続けようとするエドワードの胸ぐらをつかんだ。
「お前、何のつもりだ!」
「何のつもりも何も、エレノアさんに思い出してもらわなくちゃいけないんだよ」
自分より遙かに低い身長だから、胸ぐらをつかまれば宙に浮く身体だが、エドワードの黄金の双眸には、強い意志の焔が見えた。だが、エルンストは止めなかった。
「今までだって、何度もやってきた。思い出させようと、昔のとおりに戻って欲しいって、いろいろとやってきた。だけどな! 姉さんは、戻らない。この街全部の非難を浴びても国家錬金術師になったのに、得られたものなど何もなかったんだ」
「そうか?」
達観したような物言いに、エルンストはなおさら腹が立った。
「姉さんは、俺と一緒で綺麗な黒髪だった。それが、イシュヴァールで何かあって、全部の髪が抜けて。それから生えるようになったのは、今みたいな銀色の髪だよ! そんな、そんな苦労してるって、精神的なショックがあったって分かるのに、何を得たって言える!」
胸ぐらを掴んでいたエルンストの両手に、エドワードは右手を添える。
ただ添えただけだったのに、その力強さにエルンストは眉を顰めた。
「な」
「そうかもな。得るものなんて、何もなかったのかもしれない。だけど……この世界は、等価交換の原則で成り立ってる……納得はできないけど、エレノアさんも何かを得たはずだ」
「お前……」
思いもかけないほどの強力で手をふりほどかれて、エルンストは気付いた。
そして自分の思慮の浅さを悔いる。
兄、エドワード・エルリックが歩くたびに左足を幾分かばうようにしていたのを、医師としてのエルンストは気付いていた。そして、強力だった右手をふりほどくように重ねた時に、手袋越しに感じなかった体温。
エドワードは、自嘲のような苦笑を浮かべながら、エランダムに来てから一度も外さなかった手袋を外す。
鈍い銀色の輝き。
それはエルンストも目にしたことのある、機械の手。機械鎧と呼ばれる、人が生み出した義肢。
金属の右手を、軽く動かしてみせて。
「こうなったのは、俺のせいだ。俺が得たいもののための代価として、右腕を差し出した」
力強く語る兄の横、混乱しているエレノアの様子を伺っていたあるフォンスが一瞬うつむいたように見えたのは、エルンストの気のせいだろうか。
「だけどな、俺たちは取り戻すんだ。身体を」
「……矛盾している」
エルンストは眉を顰める。
「お前の言っていることは矛盾している! 等価交換は錬金術師でない俺だって知ってる! だけど、お前は腕の代価として受け取ったものがあるなら、それで完結している。
今度身体を取り戻す時に差し出すのは、どんな代価だ!」
「……代価が必要じゃない場合もあるんです」
巨躯の鎧が、小さな声で呟く。それをエドワードが受け継いだ。
「賢者の石……あれなら、等価交換の原則を無視できる」
賢者の石。
その名前を、エルンストは聞いたことがあったが、思い出せない。
いつ、誰に、聞いたのか?
「けんじゃの、いし? てんじょうの、いし?」
ふと。
つぶやき続けるエレノアの声が耳に入った。
そして思い出す。
幼い頃、錬金術師の母が語ってくれた。
『願い事を、すべて叶えてくれる宝石があるんだよ。それは天上の石と呼ばれていて、赤い色をしてるの。でも、何かを得るためには何かを失わなくてはならないから、天上の石を手に入れるためには、その価値に見合ったものを差し出さなくちゃいけないんだよ。だから……』
「だから……あれは、人が手にしていいものじゃない」
「姉さん?」
その目は、相変わらず中空を見つめていたけれど、エレノアが小さな声で呟く言葉を、エルンストは聞いたことがあった。
それはまさしくさっき思い出した、母の昔語り。
「その価値は、人の定めで計り知れぬもの。触れてはならぬ、もの」
「姉さん」
エレノアは顔をあげ、つぶやき続ける。
「定められし命数の人間である限り、人が差し出せるものは限られる。それ故に、天上の石を得るために、どれほどの代価が必要なのかは、誰にもわからない」
「ああ、わかっているさ」
エドワードは手袋をもとに戻しながら、エレノアの前に立つ。
「わかっていても、そうしないといけないんだ。たとえ……それがあんたを傷つけることになったとしても」
「……」
そのとき。
玄関の扉を激しく叩く音が響く。エルンストは溜息を一つついて、扉を開けた。
そこに立っていたのは、何度か会ったことのある青年だった。
確かエランダムに一番近い鉄道の駅、エラミナ駅の駅員だったと思う。
「はい?」
「エラミナ駅で……」






「アル、そっち持っててくれ!」
「うん」
エドが両手を打ち鳴らすと、車両の一部が変形し、空間が生まれる。エドが入り込み、額から血を流している老婦人の手を引いて出てくる。
駅員が告げたのは、エラミナ駅構内での列車衝突事故だった。エラミア駅周辺には小さな集落しかなく、集落では対処しきれないほどの事故に、駅員は医師を求めてエランダムに駆け込んだのだが、この季節、もともと他所に出稼ぎに向かう錬金術師が多いのだ。医師に至っては、エルンストの師匠でもあるフォードン医師すら出払っていて、エルンストが引っ張り出された。錬金術師も数が少ないので、エルンストは街中声をかけて周り、動かせるだけの人員をエラミナ駅に向かわせたのだ。もちろんその中に、本人たちはともかく、かり出された錬金術師が視線も合わせようとしない『国家錬金術師』も交じっていたが、
特急の通過駅でしかないエラミナ駅で、特急列車同士が正面衝突を起こしたのだ。
惨劇、としかいいようのない事故現場で錬金術師たちは必死で生存者を救出し、もっと数の少ない医師が、治療にあたっていた。
「ったく、どれくらい乗ってたかもわかんないのか!」
苛立たしげにエドが言うが、エルンストには答える余裕もない。
悲鳴とうめき声の中を走り回り、治療を施していく。
周りの錬金術師の非難を受けながら、エドは駅から北方司令部に電話をかけた。自分が国家錬金術師『鋼の錬金術師』であることを名乗った上で、事故処理のために部隊を派遣してほしいと連絡したのだ。
受話器を置くと、休憩していた初老の錬金術師が吐き捨てるように言う。
「軍なんかに任せておけるか」
エドは顔をあげて、答える。
「じゃあ何か? あんたは、この事故で閉じこめられた乗客を全員助けられるって? 命も救ってやれるっていうのかよ?」
「なんだと」
「あんたの言ってることは、結局そういうことだ。救える命も、軍憎しの意固地で捨てるってことだろ? 使えるもんは、なんだって使えばいい」
「それは詭弁だ!」
一所に固まっていた錬金術師たちが息巻いて立ち上がるが、エドワードは一歩もひかない。
「なんだって言えばいいさ。俺は国家錬金術師だ。その事実は変えるつもりはないからな。だけどな、俺が国家錬金術師で、エランダムが軍を毛嫌いしてるってことは、列車の中で助けを待ってる乗客には関係ないことだ。関係あるのは、一刻も早く助け出してあげなきゃ、命に関わるってことだけだ」
「軍の狗が……」
吐き捨てるように、言われてもエドワードは苦笑するだけだ。
「おうよ、なんなら噛みついてやろうか?」
「そんなこと、しなくてもいいわよ」
割って入った声の主を捜して、エドワードはあたりを見回すが、見つけた姿に思わず我が目を疑った。



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