ゴリアテ 03






「困りましたわね」
エモーションが首を傾げる。
シグナルの跡を追ってきた。長く電脳空間にいるから、シグナルの通った跡に生まれる微かな磁波の揺れを探し当てて、ここまで来たのだけれど。
跡が消える。そして、穴。
「……やっぱり落ちたと考えるべきでしょうけど」
この、穴。
辺り一帯に漂う、冷え冴えた雰囲気。
「これって……細雪の感触ですわね。ということは、お兄さまですわね。この穴を作ったのは」
正信と違う意味での怒りを覚えながら、エモーションは穴の底を覗き込む。
恐らくは、アンダーネットまで通じているであろう、穴。
「今日は……『ゴリアテ』が活性化している日ですわね」
その時。
「お嬢さん♪ ようやく見つけましたぜ」
それまで姿を見せなかったオラトリオが、エモーションに分かるようにCGを構築して、姿を現す。
「オラトリオ様。A-Sはこの中に」
「あらまあ。随分と派手に開いた穴だねぇ。一体どんなプログラムしたら、こんな穴になるのからねぇ」
「違いますわ。プログラムした方のせいではなくて、これは細雪のせいですの。辺りに細雪の雰囲気が残っていますから」
エモーションの発言に、オラトリオがギョッとした表情を浮かべる。
「これも、ですかい?」
「ええ。これも、ですわ」
プログラムだけの存在だったシグナルが、オープンネットに抜け出したのも、元はといえばコードのミスからだったことを、オラトリオもエモーションも承知している。
だから『今度も』、なのだが。
「師匠、やってくれやすねぇ……」
「とにかくわたくし、降りてみますわ。急いでA−Sを捜さないと」
「お嬢さん、今日は『ゴリアテ』が活性化してるんですぜ?」
「ええ、承知の上です」
エモーションが決意の表情を見せる。
「だからこそ。行かなくてはいけませんわ。A-Sを一人で帰したのも、路を詳しく教えなかったのも、わたくしの責任ですから」
あえかな微笑みの中に、強い決意が感じられる。
沈黙の中で、オラトリオはエモーションがやはりカシオペア博士の、あの多くを失っても、強く、優しく余生を過ごす女性の『娘』だと感じずにはいられなかった。
「ですけどね、お嬢さん。師匠はどうしやす? お嬢さん、探し回ってますけど」
「あら、そうでしたの。簡単ですわ」
ガシッ。
突然コートをつかまれたオラトリオは、すぐにはエモーションの行動の意味が理解出来なかった。しかし続くエモーションの声に、瞬間にして総てを理解した。
「きゃぁぁぁぁ、お兄さまたすけてぇぇぇぇ。オラトリオ様に襲われるぅぅぅぅ」
「ちょ、お嬢さん!」
思わず悲鳴を上げながら、オラトリオは防御態勢に入る。
その瞬間。
ヴァイオレットの眸の前に、何やら冷たく輝く物体。
「ひっ!」
悲鳴を上げながら、オラトリオは身体を後退させて、細雪から逃げ切ろうとする。もちろん、本能的な行動だ。
「はい、お兄さま。つかまえましたわ」
エモーションが怒りを隠した口調で、コードの腕を握る。
「師匠、頼みますから細雪、抜かんといてくださいよ」
「ふん、知るか」
相変わらずの最低気圧、コードは妹に上手くおびき寄せられた感の否めないまま、細雪を鞘に納めた。
「お兄さま」
笑顔で、しかし目は笑っていないエモーションがビシッと穴を指差す。
「あれは、なんですの? A-Sはあそこに落ちたんですのよ」
「……なんだと?」
「あれの周りには、細雪の香りが致します。寒々とした空気が匂っていますの。あれを、あの穴を作られたのは、お兄さまです!」
穴を指差していた白魚のような美しい指を、そのまま兄に向ける。妹に逆らえない兄は、無言のまま、横を向いた。
一方的な兄妹喧嘩を、オラトリオはしかし、中断させてしまう。
「師匠、ともかくシグナルはこの中つうことは分かりましたけど」
「オラトリオが入ることは不可能ですね」
そこにはいない筈の、第4の声が会話に割り込んだ。3人は降りてきた声の主を捜すように、完全無音である電脳空間の上部を見上げる。
降りてくる、光。
光が形成するそれは、妙なる美貌の主。
完全構築されたCGの、ブリリアント・グリーンの眸が光を得た。
「……オラトリオはアンダーネットに降りられないんですからね」
「たぁすかった、カルマ。お前が降りてくれるのか?」
「違うんだな、これが」
第5の声。
これこそ思いもかけなかった、声だった。
カルマの横に構築されていく姿。
オラトリオもほとんど見かけたことのない、姿。
正信の、具象化された姿がそこにはあった。
「なんで僕を呼んでくれないかなぁ。アンダーネットは専門分野なんだけど」
「いや、ちょっとね……」
オラトリオは苦笑してごまかす。正直、正信のことを忘れていたのだから、仕方ない。
「まあ、正信ちゃん」
「……エル。君、アンダーネットが今、どういう状態か分かってて、降りようとしたね」
正信の声に、エモーションがしゅんとなる。
「でも、A−Sのことが心配で……」
「分かるけどね、プログラムだけではきついよ。エルに何かあったら、みのるさんや、カシオペア博士がなんて言うか、分かっているよね」
「……ええ」
「じゃ、正信一人で行こうって気じゃ」
オラトリオの言葉を、正信は右手を降って応えた。
「まっさか。ボクの空間誘導補助を出来るひとが一人だけいるんだけどね」
そして、正信の視線の先には。
「……正信、なぜ俺様を見ている?」
「正信ちゃん、お兄さまにナビをしていただくおつもりなの?」
エモーションの的を得た答えに、正信は軽く拍手する。
「その通り♪」
「まあ」
「ちょっと待て! なんで俺様が」
「この穴、作ったのってコードなんだってね♪」
「う゛……」
相変わらずの、口調と目が異なっている。口調が滑らかになるほど、眸は冴え冴えと走る。
「もしかしなくても、シグナル関係で他にも前科があるでしょ」
「……」
「ない、とは言えないよねぇ♪」
「分かった。ありがたく、思え」
コードが溜息を吐きながら言う。しかし決して正信を見ようとはしない。それがコードにとっては最後の矜持なのだ。
「じゃ、行こうか」
「……仕方あるまい」
「度胸、度胸♪」
「…………」
穴に飛び込んだコードに続いて、正信も姿を消す。
「大丈夫かなぁ」
オラトリオの言葉に、エモーションは思わず、両手を顔の前で組んだ。
カルマが呟く。
「分かりません。正信さんは、自分で開発した『ゴリアテ』用ワクチンを持っていきましたけど、どこまで効くかは……」
エモーションは瞼を閉じる。
祈ることしか、出来ない。
もし、神がいるのなら、救って欲しい。
兄を、正信を、そしてA-Sを……。





抜き身の細雪を持ったコードが、不意に立ち止まる。
全身の感覚を研ぎ澄ませて、何かを感じ取ろうとする意図が見えて、正信はしばらく黙って見守る。やがて、コードが声を上げた。
「聞こえた。あやつの悲鳴だ。みっともない」
「ふぅん、悲鳴ね。『ゴリアテ』が化け物に見えたんじゃないかな?」
「……方向と距離は大体読めた。飛ばすぞ」
斬っても斬っても、『ゴリアテ』はワラワラと涌いてくるようだ。細雪の切れ味も、これほど何度も試しては、試し切りとは言えない回数になって、コードも正信も嫌気が差し始めていた時で。本来のシグナル探索が出来たことに、内心ホッとしていた。
「無事かな?」
「悲鳴が上げられるほど、元気の証拠ではないか」
「……そうか?」
「とにかく飛ばす。ついてこれるか?」
コードの、最後の矜持にかけた、嫌味。
長年電脳空間に住まう内に必然的に覚えた空間高速移動。人間の正信に出来るのか……といえば、硝子色の格子が歪むほどのスピードとなっても、正信はコードの傍らでいる。
「おい、正信。貴様は本当に人間か?」
「え? あはは、だってボクは『天才』ハッカーだよ♪」
勿論種明かしはしない。アンダーネットには降りないと説得したカルマだったが、一つだけ条件を出した。
自分の高速演算を、正信が一部でも使うこと。高速演算を使わなければ、人間の正信が百戦錬磨のコードについていくことなど、不可能だ。
「……見えた!」
コードが小さく声を上げた。
眼下に広がる街並みの中に、ゴリアテに周囲を囲まれた、人にはあり得ぬ紫の髪をふりみだす少年の姿が、あった。





「いやだぁぁぁぁ! 近づくなぁぁぁぁ」
頭上にコードと正信が近づいていることすら露知らず。
シグナルは闇雲に拳を振り上げる、足を出す。もっとも、固く目を閉じてのことだから、誰でなくても避けられるのだが。
「おい」
「来るなって言って」
「おい!」
最低気圧が言葉になったような、不機嫌そのものの声が、2度頭上から降ってきてようやく、シグナルは頭上に誰かいることに気づいた。
「え?」
「ヒヨッコ、いつまで遊んでいる?」
冷たい視線と、涙まで浮かべて救いを求める視線が絡む。
「コ、コ、コードぉぉ」
「何をしている。目を開けなくては、見えるものも見えないだろうが。さっさとこの雑魚どもを始末せんか」
「だって、おばけ……」
「おや、シグナルくんはおばけが怖いのかな?」
まるで子供番組の司会者の様な口調で、コードの背後から正信が姿を見せて、シグナルは一気に緊張する。
「若先生」
「あれ、ここの『ゴリアテ』は少し違うねぇ。顔が5つもあるよ」
「はぁ」
「正信、さっさとワクチン流してしまえ。いつまでもこのままにしておくわけにはいかんだろうが」
「ダメ」
「は?」
ワクチンを持ってきたという、正信の言葉を鵜呑みにしていたわけではなかったが、コードが最後の手段と考えていたのは事実だった。なのに、正信はここまで来て、ワクチンを使わないという。
どういうことだ?
正信は、軽く前髪に触って、
「コード、さっきも細雪にお願いしたでしょ」
「ああ」
「さっき、使おうと思えば、使えたんじゃない?」
「……どういうことだ」
「このワクチンね、ちょっと面倒臭くってねぇ。ウイルス取り込み型なんだよ」
「なんだとぉ!」
「へ?」
いきり上がるコードとは対照的に、シグナルの方はさっぱり話が見えない。
「若先生、ウイルス取り込み型って……」
「シグナルくん。ゴキブリホ○ホイって、知ってる?」
「えっと、毒餌を与えて、ゴキブリが死んで、その死体の周りのゴキブリも毒が回るって……それなんですか?」
「うん。それも遅効性なんだ♪」
「ええええええええええええええ!」
シグナルの悲鳴が、地下空間を切り裂くように響き渡った。





絶対零度の、冷たい雷色の視線。
困惑と、恨みの紫水晶の視線。
双つの視線が正信のCGを苛むが、正信にはそれを気にする体すら見られない。
「さ、どうしよっかなぁ♪」
「正信」
「若先生ぇ。ここまで若先生が来た意味って……」
シグナルの言葉に、正信は軽く首を傾げてから、
「え? もちろん、シグナルくんを救出しに来たんだけど?」
とはいうものの、笑っている口元が他にも理由があったことを示している。
「……正信、貴様。そのワクチンとやらを試したくて、来たんだろうが」
「え?」
「……どうせ、そんなところだ」
とりあえず押し寄せるゴリアテから身を守るために、3人の周りには防護壁を張ってはいるものの、仮のものだからすぐに突破させるであろうに、中では日常見られる口喧嘩が展開されている。
「わかっちゃった?」
「わかぁせんせいぇぇ」
恨みを込めて正信を睨んでも、パルスと同じで正信を苦手としているシグナルのことだ。へらっとした正信の視線を受けるとたちまち萎えてしまう。
「何か言った?」
「いえ……」
「とにかく、ワクチンを流せ。流さんことには、退治しようがあるまい」
「それなんだけどね♪ 問題が一つ」
「なんだ」
「桃太郎さんの鬼退治は、鬼ヶ島まで退治に行ったよね」
「……何が言いたい?」
「どうせだったら、元の元を叩いた方がいいとは、思わない?」
「……はあ?」
「……それって、若先生」
二人の視線を一身に浴びて、正信が胸を張る。
「コードが細雪で斬って、ボクとシグナルくんは高みの見物」
「おい」
「ちょっと、どういうこと……」
コードが触れれば凍り付く零下の声を上げた。
「つまり、こういうことか。正信、貴様は見物しに来ただけか」
「一昨日、偶然ね♪ ボクのウイルスは進化型にはあんまり効かないんだ。分かっちゃってさ。一応持ってきたけど、コードが斬れるならコードにお任せするね」
「……俺様は帰る」
コードが踵を返した、その時。
「いいのかな? エル、怒るだろうね。お兄さまは途中で逃げたって♪」
正信の、絶妙なひっかけ。
『妹』の名前。
敵前逃亡を揶揄する言葉。
どちらもコードには許し難い。
「正信」
「いいのかな♪」
「……仕方あるまい」
溜息を深くついて、再び絶対零度に浸ってしまったコードを見遣って、シグナルは思った。
やっぱり、若先生には逆らわない方がいい、と。





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