ゴリアテ 04
ピシ。
防護壁に、罅が入る音がする。
迫りつつある危機に気づいて、シグナルが周りを見回すと。
「いいいいいい」
「見苦しい。妙な音を出すな」
コードの制止もシグナルには聞こえない。
防護壁にのしかかるように押し寄せる、『ゴリアテ』。土気色の身体がワラワラと押し寄せてくる。
異様な光景である。
「とにかく、ここを出ないとねぇ」
「……細雪を全開で使うぞ。この辺りの住人には悪いが」
「いいよ。どうせほっとけば、2日で再建されるんだから」
無責任な会話が交わされる間も、シグナルは防護壁越しの一体の『ゴリアテ』と目合って、離せない状況に陥っていた。正信が軽く肩を叩くと、ようやく動き出す。
「あんまり怖がるのも、どうかと思うけど」
「はぁ」
「気にしない、気にしない」
「……分かりました」
「コード、すまないけど、一体くらいは残しておいてくれないかな? 一応確認に使おうと思うからさ」
「……完全な状態では無理かも知れんぞ」
「いいって。確認出来ればいいんだから」
「ふん」
その瞬間。
防護壁に一気に細かい罅が入る。コードが声を上げた。
「では、やるぞ。自分の身は自分で守れよ!」
鞘から離れた細雪。
乱れ群雲の斑紋の刃、微かに輝くリミッターにコードの手が軽く触れると、リミッターが弾け飛んで消える。刃文が、輝きを増す。シグナルの紫水晶の目を射るかのように。
いつか、自分が変化させたときのように、細雪はその刀身から鮮烈な純白の輝きに姿を変える。
皓く、巨大な、光。
網膜を灼く輝きを、コードは上体を反らせ、破れた守護壁を越えて押し寄せる『ゴリアテ』に投げつける。
瞬間。
呆然としていたシグナルは、その腕を正信に引きずられる。
「危ないから、こっちね♪」
ぬばたまの世界に、光が満ちる様子を、シグナルは正信によって作り出された守護壁に守られて呆然と見つめていた。
「驚いたねぇ。ボクが渡した細雪、随分違うね。コードだけで何度かバージョンアップしたんだ」
正信の呟きに、シグナルは我に帰る。
「若先生が渡したって」
「え? ああ、細雪のプログラムは20年近く前にね、ボクがコードに頼まれて渡したものだよ」
「え……」
「ま、とっくにボクのものじゃないからね」
辺りを包み込んでいた皓光は、すぐに消え、元の漆黒の世界が広がった……しかし、辺り一帯には存在していた地下空間の街並みまでが姿を消している。シグナルは細雪の威力を再び垣間見て、ゾッと背筋を凍らせた。
「すご……」
「正信、一体だけ残せばいいんだったな」
まったく無傷のコードが、ずるずると一体の『ゴリアテ』を引きずってくる。正信は守護壁を解いて、足下に転がされた『ゴリアテ』に、手にしていた球体を押しあてた。
球体は少しふくらみ、一方で『ゴリアテ』は急速に小さくなる。やがて、ガラス風の球体に閉じこめられた。今ではシグナルの指先並みに小さい。
「ふわぁ……小さい」
「圧縮かけたからね。これを持って、《ORACLE》に帰るよ」
「はい」
「ちょっと待って、正信。ワクチンは流さないのか。それに犯人が分かっているのだろうが?」
コードの疑問も尤もだが、正信はへらっと笑ってみせて、
「やっぱやめた。面倒くさくなりそうだし」
「なに!」
「擬装はしてきたけど、ばれたら情報局長くびになるし」
「正信……」
「だからね」
不意に、正信の表情が険しくなる。
「オラクルに聞いたけど、先月《ORACLE》が侵入未遂事件を起こされている。やらかしたのは、『ゴリアテ』。だから、『ゴリアテ』ならびに、『ゴリアテ』をもってハッキングしようとした人間については、《ORACLE》ならびに、監査官に全権を委譲することにする」
「……本気ですかい、正信」
「それは私としてありがたいけど……」
オラクルとオラトリオが困惑の表情を浮かべるのを、正信は真剣な表情で頷いた。
『ゴリアテ』の対処を《ORACLE》に全権委譲。
筋としては、通っている。しかし、今更《ORACLE》の名を出す必要はないような……オラクルの言葉を遮って、オラトリオがニヤリと笑った。
「正信、何企んでる?」
「なぁんにも」
無事に《ORACLE》まで辿り着いた、シグナルたちだった。
エモーションはシグナルに抱きつかんばかりに、喜んでいるし、オラクルとオラトリオもホッとしている。
そんな時の、正信の爆弾発言だった。
正信が、圧縮された『ゴリアテ』を差し出す。
「先月の《ORACLE》にいた『ゴリアテ』のデータは取ってあるよね」
「ああ」
「はい、これあげるよ。強化型のサンプル。使っちゃってね♪ あ、それからこのワクチンもあげる」
「はぁ」
「《ORACLE》に全権移譲して、正信になんの得があるんですかいな?」
オラトリオの言葉に、正信はニヤリと笑う。
「教えてあげないよ♪」
「……正信さん」
カルマが視線だけで、『弟』を諫める。カルマの戒めを受けて、正信は一度だけ上を見上げて、
「2つあるんだけどね。一つ、もし僕だって分かれば面倒なことになるってこと。もう一つは言いたくないんだよ。ホントにね」
情報管理事務局局長。
<アトランダム>の価値を高めるための部署の最高幹部である音井正信が、《A-S》SIGNAL救出のため、あるいはSIGNALに危害を加える者を灼いた、と説明したところで、万が一表沙汰になれば、問題が生じる可能性はある。あくまでも表沙汰になったなら、なのだが。
「言いたくないって……」
「正信さん、そういう言い方は誤解を招く、と言ったでしょう? 伝えるべきことは伝えておいた方がいいのではないですか?」
カルマが相変わらずの視線を向けながら、言う。正信は黙っている。シグナルは、正信の意外な一面を見たように思った。
「エモーションさん……」
「なにかしら? A−S」
「若先生って、カルマには」
弱いんですね?
シグナルの言葉に、エモーションがあえかな微笑を浮かべた。
「正信ちゃんにとって、カルマさんは『兄』ですから」
「はあ……」
その時、正信が重い口を開いた。
「……留学先の大学で同じ研究室だった、学生なんだ。よく知っている。だから自分で手を下すのは……」
「わぁった。もういい、正信。あとは《ORACLE》が引き受けた。そいつには社会的制裁が下るの、ちょっと勘弁してやろうじゃないか?」
オラトリオの問いかけに、オラクルが笑顔で返す。
「ありがとう、それじゃ頼むね♪」
あっと言う間にいつもの正信に戻って、彼はへらっと笑ってみせた。
正信は帰っていった。
カルマも「あとで結果を聞かせて下さいね」
と、信彦たちのおやつを作るために現実空間に戻った。
《ORACLE》に残ったのは、住人であるオラクルとオラトリオ、そしてエモーション、シグナルの4人だ。図書館内にはコードもいるはずだが、正信に『いじめられた』傷が癒えるまで、出てこないだろう。
正信から渡されたデートを解凍、記憶。
オラクルの誘導補助の準備も出来た。オラトリオはやる気満々で、とうの昔に準備万端だ。
「おっしゃ、OK♪」
「こちらもいいぞ」
それらを見ていたシグナルが声を上げた。
「……オラトリオ、ボクは?」
「は? 《ORACLE》にいてもいいし、現実空間に帰ってもいいぞ?」
要するに仕事はない、ということ。
「オラクルとの接続はしたまんまでやっちゃうからなぁ。それに、お前に《ORACLE》を守れるとは思えないし。頼みゃしねぇよ」
「ひでぇ!」
野良犬でも追い払うように、シッシッと手で払う仕草の兄に、シグナルは全身で抗議する。
「ええええええ、ボクだって」
「そうですわね。A−Sも私もお仕事はありませんわ」
エモーションの言葉は、しかし不快感をもたらすものではない。むしろ涼やかに耳に達する。だが続いたエモーションの言葉に、オラトリオは言葉を喪う。
「お仕事がないってことは、好きなだけ見物してもよい、ということですわね? オラトリオ様」
「は?」
「違いますの?」
「……そういうことですかい」
「ええ、そうですわ」
オラトリオが、行く。
完全漆黒の闇には、生まれつきの影であるオラトリオは全く見えない。だが、シグナルの目にはオラトリオの、《A-O》ORATORIOの信号が微かに視える。
「では、行くぞ」
相変わらずの不機嫌を振りまきながら、秘色の袖を微かに揺らせてコードが動く。エモーションとシグナルも、それに続いた。
A-Sと見物すると言い張るエモーションをオラクル、オラトリオ、果てはシグナルまでが止めたのだが、エモーションの『おびき寄せ』で再び姿を見せたコードを捕まえて、『用心棒が出来ましたわ』と微笑みながら宣われては、説得を諦めざるを得なかった。
オラクルの『気を付けて』の言葉に小さく頷いて、シグナルはオラトリオを追って、《ORACLE》を出たのだった。
《A-O》ORATRIOを追うことは、同じA-ナンバーズである《A-S》SIGNALにとって、難しいことではない。
確かに、コードがオラトリオの『路』を辿って、シグナルとエモーションを道案内しているが、もしかしたら、それすら必要ないかもしれない。
微かに見える、オラトリオの『路』。
電脳空間においては、生まれついての影であるオラトリオを見分けられるのは、やはり『兄弟』だからだろうか?
「……、あやつのスピードが遅くなったな。何かやらかすな。飛ばすぞ、いいか? エレクトラ」
コードの機嫌の悪い声に、涼やかなエモーションの声が応える。
「ええ、大丈夫ですわ。A-Sは私がお連れしますから、お兄さまはオラトリオさまを見失わないでくださいましね」
「心得た」
話が見えないシグナルに、エモーションが説明する。
「多分、複雑な『路』を作っているでしょうね、『ゴリアテ』の主は。これからオラトリオさまが、路に入りますから、A-Sだけでついていくのは難しいですわ。私がナビしますから、必ずついてきてくださいましね」
『必ず』に力を入れたのは、先刻のように迷子になったのでは、同じことの繰り返しだからで。
「分かりました」
頷くシグナルの、一文字に結ばれた唇を見遣って、エモーションがフワリと、まるでエララのように微笑んだ。
「大丈夫ですわ。私についてくるだけでよいのですから」
「はぁ……」
「エレクトラ、行くぞ!」
そして、オラトリオの姿が消え、コードの姿も、エモーションも……彼らを追って、シグナルも姿を消した。